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シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く コラム107 第442回資源セミナー(2025年11月29日)
イタリア火山 ワークショップ
(案内者:荒牧重雄東大名誉教授,実施日2001年9月16日〜28日)

1.はじめに

資源セミナーをご存知でしょうか。昭和57年(1982)から続いているセミナーで、毎月最終土曜日14〜17時にコンサルタント関係者が集まり、今までの経験をもとに2人の発表者が講演を行い、質疑応答が行われます。現在の事務局は今村遼平、上野将司、高安克巳、山崎安正、中家恵二氏(連絡先:株式会社応用地理研究所)が務めています。セミナー終了後近くの飲食店で懇親会が開催され、議論は本番を迎えます。1ヶ月前頃に2人の話題提供者の題目と会場が会員各位にメールで知らされます。参加は自由(参加費500円)で、聞きたいテーマがあれば、誰でも参加することができます。

第442回資源セミナーは2025年11月29日(土)に文京区の千石図書館内のアカデミー千石 学習室B(普段は文京区役所シビックセンター会議室で開催されることが多い)で行われました。

今回の発表者と題目は以下の通りです。

  • 井口 隆 :やや不自然な自然災害
  • 井上 公夫:イタリア火山 ワークショップ(案内者:荒牧重雄東大名誉教授,
    実施日2001年9月16日〜28日)

ここでは、井上の発表内容を報告いたします。

なお、資源セミナー後に、市川市在住の佐藤俊文様から2人の発表に対して、かなり長文の感想を頂きました。ここでは、現地を見たこともなく専門家でもない佐藤様の感想を踏まえて、イタリア火山ワークショップの内容を説明致します。また、静岡大学教育学部助教授(現名誉教授)の小山真人(1997)の『ヨーロッパ火山紀行』,筑摩書房の第2章 イタリア,p.45-95.を参考にしました(本書はWebで公開されており、図・写真はカラーで示されています)。

https://sakuya.vulcania.jp/koyama/public_html/Europe/eurov.html

2.イタリア火山 ワークショップの概要

イタリア火山 フィールドワークショップ(案内者:荒牧重雄東大名誉教授,
実施日2001年9月16日〜28日)

本フィールドワークショップは、平成13年(2001)9月16日から28日までと、かなり長いツアーで20名ほどの方が参加されました。

2004年5月のインタープリベント(国際防災会議)参加時に、昭和38年(1963)10月9日に発生したバイオントダム災害の被災地を訪問したことについても説明しました。この件については、コラム5もご覧下さい。

火山のワークショップは、図1に示した地域を回りました。
東京→ローマ→ヴェスヴィオ火山→ヴェスヴィオ火山観測所→ポンペイ→エルコラーロ→ナポリ→
カンピ・フレグレイ火山→メッシーナ→ストロンボリ火山→リパリ火山→ヴルカーノ火山→
エトナ火山→エトナ火山観測所→ローマ→東京
図1
図1
図1 イタリア火山の分布
小山真人(1997):ヨーロッパ火山紀行のWeb公開資料より引用

3.ヴェスヴィオ火山、カンピ・フレグレイ火山

図2は、ナポリ市を中心としたヴェスヴィオ火山(標高1281m)とカンピ・フレグレイ火山周辺の案内図です。ナポリ市(人口約106万人)は東にヴェスヴィオ火山、西にカンピ・フレグレイ火山があり、何度も噴火被害を受けてきました。今回のワークショップで最初に行ったのは、ヴェスヴィオ火山中腹にあるヴェスヴィオ火山観測所(標高600m)です。この観測所は世界でも最も古い火山観測所で、1845年に設立されました。以後数回の噴火がありましたが、大きな被害を受けていません。この観測所では火山活動を科学的に研究し、噴火の予測や災害防止に役立つ情報提供をすることを目的としています。観測所はヴェスヴィオ火山などの活動を24時間体制で観測・監視し、地震計やその他の機器を用いてデータの収集を行っています。観測所内は観光客用に多くの展示があります。種々の観測機器が展示され、ヴェスヴィオ火山の噴火史などが多くの火山地質図や絵図などによって説明されています。

図2
図2 ナポリ市を中心としたヴェスヴィオ火山とカンピ・フレグレイ火山周辺の案内図
写真1
写真1 ヴェスヴィオ火山観測所(標高600m)
写真2
写真2 観測所から見たヴェスヴィオ火山

写真1は、ヴェスヴィオ火山西側の中腹にある火山観測所(標高600m)です。写真2の上の写真は火山観測所から見たヴェスヴィオ火山の山頂で、下の写真は西側斜面から海を望んだ写真です。元世界火山学会会長の荒牧重雄先生の視察団一行ということで、写真3に示すように火山観測所の職員から丁寧に説明して頂きました。写真4は、ヴェスヴィオ火山が最大噴火した紀元79年の状況を示す絵図です。この巨大噴火は、小プリニウス(61-113年頃)による詳細な記録が残っており、プリニウス式噴火と呼ばれています。

写真3
写真3 展示絵図や機器を説明する職員
写真4
写真4 西暦79年の噴火状況を示す絵図
写真5
写真5 観測所内の古い計測器
写真6
写真6 カンピ・フレグレイ火山の地質図
写真7
写真7 ポンペイの競技場と裏の露頭
写真8
写真8 79年噴火で堆積した火砕物の露頭

写真5は観測所内に展示してあった古い観測機器です。写真6はカンピ・フレグレイ火山の地質図です。写真7はポンペイ(当時の人口約2万人)の競技場と裏の露頭です。写真8は紀元79年のヴェスビィオ火山の噴火で堆積した降下火砕物の露頭で、荒牧先生に案内して頂き、説明を受けました。

写真9
写真9 発掘中の遺跡,複数の遺体を発見
写真10
写真10 遺体は服装を含めてほとんど
痛んでいません

掘削中の遺跡を見学させて頂きました。写真9は掘削中に発見された空洞に、液体石膏を注入し凝固させて取り出した人体の石膏像です。写真10は複数の遺体の拡大写真です。これらの遺体は降下火砕物堆積前に有毒な火山ガスによって亡くなっており、高温の降下火砕物がその後に堆積したもので、遺体は服装を含めてほとんど傷んでいません。

写真11
写真11 ヴェスヴィオ火山西部の港町ヘルクラネイム
写真12
写真12 遺跡の壁にある絵図

写真11は、ヴェスヴィオ火山の西部にある港町ヘルクラネイム(この市街地の上にエルコラーノの町があります)で、18世紀に発掘されました。1700年間地中にあったため、発掘された建物内部は新鮮で、家屋の壁に描かれた絵画などは見事でした。ヘルクラネイム(当時の人口は約5000人)は、紀元79年にヴェスヴィオ火山が巨大噴火した際に船で避難しようとした港町で、逃げ切れずに多くの遺体が建物の中に残されていました(視察時には多くの白骨化した遺体が建物の中に見えました)。

「佐藤様の感想」によれば、カンピ・フレグレイ火山は、ナポリ西方80kmに位置する巨大火山です。複数の火砕丘を含む広大なカルデラであり、イタリア語で「燃え盛る平野」という意味を持っています。今でもソルファタ火口などでは噴煙が上がり、地殻の隆起・沈降、火山性地震などが続いています。最初のカルデラを形成した噴火は4万年前の「カンパニアン・イグニンブライト噴火」と呼ばれ、ヨーロッパに寒冷期をもたらし、ネアンデルタール人の絶滅の一因になった可能性が指摘されています(写真13,14)。カルデラ内にはポッツォーリなどの都市があり、約50万人が暮らしていますが、大規模な噴火の可能性が指摘されています。約1.2万年前の噴火により、ポッツォーリを中心とする一回り小さいカルデラ盆地が形成されました。1538年の噴火では激しい地震が続き、火山灰がナポリまで到達しました。その後、「新しい山」を意味するモンテ・ヌオーヴォというスコリア丘が形成されました。

写真13
写真13 カンピ・フレグレイ火山
各地で噴煙を上げている
写真14
写真14 カンピ・フレグレイ火山内のカルデラ
海水が浸水して、天然の良港となっている
写真15
写真15 海水面の下降を示す柱(海面付近の生痕化石)
写真16
写真16 ナポリ付近の港の上昇
海面が低下している

写真15はナポリ近郊の港の海水面の下降を示す柱(海面付近の生痕化石で黒くなっている)の写真で、写真16は港が上昇(海面が低下)していることを示しています。チャールズ・ライエル(1797-1875)は『地質学原理』(1830-33)という教科書の表紙として「海水面の下降を示す柱の写真」を用いて、地殻変動の説明を行っています。

4.エオーリエ諸島の火山(ストロンボリ火山,リパリ火山,ヴルカーノ火山)

ナポリから夜行列車でシシリー島に行き(列車ごと連絡船に乗る)、ミラッゾ港に到着しました。図1に示したように、エオーリエ諸島はシシリー島の北側にあります。最初に行ったのが、一番北のストロンボリ火山です。

4.1 ストロンボリ火山

図3はストロンボリ火山の略図(小山,1997)です。「佐藤様の感想」によれば、ストロンボリ火山は長い海底火山時代の後、10万年前になって海面上に姿を現し、その後1.3万年前までに、バンコーリと呼ばれる大円錐火山を形成しました。現在のストロンボリ島の南東半分がこの古期火山体にあたり、本島の最高峰バンコーリ(標高924m)もこの火山の一部です。この火山の噴火はストロンボリ式噴火と呼ばれています。比較的粘り気が少なく、ガスを多く含む玄武岩質のマグマからなります。地下から上昇してきたガスの泡が火道内で破裂、マグマ片を上空に噴き上げることで噴火します。比較的規模の小さい爆発を繰り返します。火口から半固結状の溶岩片(マグマのしぶきや凝固した破片、火山弾など)が規則的に数秒から数10分の間隔で放出されます。これらの噴出物は弾道を描いて火口周辺に落下し、火口の周りには円錐形火砕丘が形成されるようになります。時々火山弾が飛んできて、頭にあたって怪我をする登山者もいます。噴火の様子が赤い灯台の光が点滅しているように見えるので、「地中海の灯台」とも呼ばれています。ストロンボリ火山の明確な噴火の目撃記録は紀元前1世紀までたどれます。6000年以上前に大規模な山体崩壊があり、現在の火山の基盤が形成されました。

視察団は、ストロンボリ火山直下の港町ビシーダに泊まり、翌朝ストロンボリ火山の急斜面の登山道(図3のシアーラ・デル・フォーコ崩壊谷に沿った東側の尾根部付近のジグザクの道)を標高600m付近まで登りました(写真17参照)。

ストロンボリ式噴火は、マグマの供給システムが壊れにくいため、数か月から数年にわたって活動が続くことがあります。

図3
図3 ストロンボリ島の略図
小山(1997)のWeb資料から引用
写真17
写真17 ストロンボリ火山直下の集落
ビシーダから火山に登った

個々の噴火口はそれぞれ異なる噴煙を噴き上げ、噴泉の高さも噴火口ごとにことなります。日本でも、伊豆大島の三原山や阿蘇山などで、ストロンボリ式噴火が見られます。

4.2 リパリ火山

ストロンボリ火山の次は船でリパリ島に行きました。写真18はリパリ火山の地質図で、ヴェスビィオ火山観測所で撮影しました。写真19に示したように、島の中には白い降下火砕物が厚く堆積していました。この堆積物の中には黒い黒曜石が点在しています。石器時代にはこの黒曜石は石器として使われたため、地中海各地の遺跡で見つかっており、地中海の交易で広まりました。

写真18
写真18 リパリ火山の地質図
(ヴェスビィオ火山観測所で撮影)
写真19
写真19 リパリ島内の白い降下火砕物
堆積物の中に黒い黒曜石が点在する

4.3 ヴルカーノ火山

図4はヴルカ−ノ島の略図(小山,1997)です。写真20に示したように、リパリ島の南端まで行くと、手前に小ヴルカーノ島、奥にヴルカーノ島(火山)が見えます。

「佐藤様の感想」によれば、ヴルカーノ火山は、この火山の名前にちなむヴルカーノ式噴火、つまり爆発的な噴火が特徴的です。ヴルカーノ火山は、12〜10万年前に現在の島の南半分に大円錐火山である南ヴルカーノ火山が形成され、陥没やカルデラ形成、溶岩流、新山体形成などの火山活動を繰返して、現在のヴルカーノ火山に至りました。

ヴルカーノ式噴火のメカニズムは粘性の高い安山岩質のマグマからなり、火口内ではマグマが固まりやすく、内部にガスが蓄積しやすくなります。すると、火口内で固まった溶岩や岩石が高圧の火山ガスによって吹き飛ばされ、非常に爆発的な噴火を起こします。この爆発により、火山灰、火山弾、火山礫などが激しく噴出され、100トンもの岩塊が火口付近に落下することもあります。

図4
図4 ヴルカーノ火山の略図
小山(1997)のWeb資料から引用
写真20
写真20 リパリ島からヴルカーノ島を望む
手前は小ヴルカーノ島
図4
写真21 ヴルカ−ノ火山の火口縁を歩く
(同行者撮影)
写真20
写真22 ここから先は自己の責任で
(井上撮影)

噴煙が高く立ち上がり、ガスが噴出する際には断続的な大砲のような爆発音を出し衝撃波を発生させることもあります。一度の爆発で多量のエネルギーを消費するため、ストロンボリ式噴火に比べて爆発と爆発の間隔が長い傾向にあります。典型的なヴルカーノ式噴火では溶岩流はあまり見られませんが、激しい爆発を伴って溶岩を噴出するケースもあり、爆発後に流れて厚い塊状の溶岩が形成されます。

日本では安山岩質マグマを噴出する火山が多く、桜島や浅間山、阿蘇山などの噴火では、ヴルカーノ式噴火またはそれに近い活動が頻繁にみられます。桜島では昭和30年(1955)以降、南岳から昭和火口へと活動の中心を移しながら、現在までヴルカーノ式噴火が続いています。

5.エトナ火山

図5
図5 CLUB ALPINO ITALIANO (1991) : MT. ETNA carta naturalistica e turistica
Naturalistic and touristic map エトナ火山の地質図(縮尺 1:60,000)
拡大表示

エトナ火山は世界でも活動的な活火山で、その噴火は多様で穏やかな溶岩流から爆発的な噴火まで多岐にわたり、過去数千年にわたってその姿を変え続けています。エトナ火山の最も特徴的な噴火様式の一つがゆっくりと流れる溶岩流が見られるストロンボリ式噴火です。粘性の低い溶岩は長距離にわたり流動し、家屋やインフラを破壊することがあります。図5は駐車場の売店で購入した「エトナ火山の自然と観光地図」(Naturalistic and touristic map)です。赤色は20世紀、ピンク色は18〜19世紀、橙色は16〜17世紀、黄色はそれ以前の溶岩で、よく見ると溶岩流毎に噴出・流下年代が記入されています。裏面には、解説や新しい溶岩流(1971〜1998年)が赤色で描かれた図(図6)も掲載されています。

図6 写真23
図6 エトナ火山の1971〜1998年に
噴出・流下した溶岩流(図5の裏面)
写真23 駐車場を整理している警察官
にこやかに応対してくれた(井上撮影)

このような地質図が、観光客用として駐車場横の売店で販売されていることに驚きました。ヨーロッパでは、1:25,000や1:50,000の多色刷の地形図が、ハイキング用やサイクリング用として売店などで販売されています。日本の観光地でもこのような正確な地形図や地質図が簡単に購入できるといいのですが。

エトナ火山では、時として山頂火口や新しく開いた側火口から爆発的な噴火を起こすことがあります。ヴルカーノ式噴火は粘性の高い溶岩が溶岩流として噴出・流下し、火砕物(火山弾や火山砂・火山灰)が広範囲に散布されます。準プリニー式噴火は、より大規模な噴火で、噴煙が成層圏まで達することがあります。

エトナ火山観測所での説明では、「エトナ火山は21世紀に入ってからも1〜2年おきに噴火を繰り返していて、マグマの持続的な供給を示していますが、マグマの粘性、ガス含有量、火山体内部の構造変化、マグマの供給状態と圧力などによって噴火の様態が変わり、火山の研究対象としては、興味がもたれる火山の一つです。」とのことでした。

イタリア火山のワークショップでエトナ火山に登ったのは2001年9月25日で、噴火の状況が良く分かりました。大駐車場で大型バスを降り、写真24のジープに乗り換え(エトナ火山観測所の好意による)、エトナ火山のかなり高い位置まで登って行きました。そこでジープから降りて少し歩きましたが、地面がかなり高温の場所もありました。写真25では形成されたばかりの火砕丘が見えました(まだ植生は全く生えていない)。

写真24
写真24 大型バスから乗り換えて
ジープでエトナ火山を登った
写真25
写真25 正面に噴火したばかりの火砕丘が見えた
少し歩くと、地面が高温の場所もあった
図7
図7 2001年噴火の溶岩流分布図
エトナ火山観測所作成
写真26
写真26 2001年の噴火で形成された火砕丘
奥にエトナ火山山頂(標高3326m)が見える
写真27
写真27 エトナ火山観測所職員から説明を受ける荒牧重雄先生
観測所内部には多くの観測機器が設置され、火山の噴火状況を観測中

2004年10月29日に山梨県環境科学研究所で、溶岩流国際シンポジウム2004『溶岩流の制御と防災』が開催され、Sonia Calvari氏が「エトナ火山の溶岩流の特徴と溶岩流制御」と題して、エトナ火山で実施された溶岩流の制御について説明されました。

平成25年(2013)の第37回世界遺産委員会の審議を経て、エトナ火山はUNESCOの世界遺産リストに登録されました。ヨーロッパで最大の活火山で多くの観光客が訪れています。令和7年(2025)6月2日、エトナ火山では約10年ぶりの大噴火が起きました。その後も噴火は続いており、地元では観光客対策などに追われています。

6.イタリア・バイオントダム災害(1963)の被災地を訪ねて

6.1 2004年5月の第10回国際防災会議の参加とバイオントダム被災地の見学

平成16年(2004)5月24日〜27日に、北イタリア北部のトレント州リーバ・デル・ガルダにおいて、第10回国際防災会議(Interpaevent)が開催されました。世界各地から約400名(日本からは約50名)の参加者がありました。井上は本会議に出席し、下記のポスター発表をしました。

  • 水山高久・田畑茂清・森俊勇・井上公夫(2004):Outbursts of landslide dams and
    their prevention, INTERPRAEVENT 2004-RIVA/TRENT, Vol.2, p.221-229.

図8の左図はイタリア北部の案内図、右図はリーバ・デル・ガルダの位置図です。ガルダ湖は、氷河時代にアルプスの山岳氷河がこの地域まで達していましたが、後氷期になってターミナルモレーンの背後の谷地形が湖水となった美しい地域です。しかしながら、日本からのツアー旅行ではほとんど行かない地域です。図8の右側の地図は、1:25,000のハイキング・ツアー用の地形図(両面カラー・折本)の表紙で、市内の運動具店・観光売店で購入することができました。

国際防災会議のポスター発表後、前から行ってみたかったバイオントダム(Vajont Dam)と貯水池左岸の巨大地すべりによる下流の被災地ロンガローネ(Longarone)の町を訪れました。バスで片道3時間(往復6時間)ほどかかるのですが、日本から来ていた旅行代理店の方にツアーを計画して頂き、20名ほどで往復しました。美しい風景と世界史上最大の「人災」の原因となった地すべり地の現状を紹介します(井上,2004,2006,コラム5)。

図8
図8 イタリアの観光用案内図(地名追記)
右
右 ガルダの地形図の表紙
地形図の縮尺1:25.000

6.2 プロジェクトX―史上最悪のダム災害―

バイオントダムは、昭和35年(1960)の建設完了当時、世界一の高さ(264.6m)を誇った発電用のアーチダム(総貯水量1.7億m³)です。ダム完成後3年経った昭和38年(1963)10月9日に、貯水池左岸側で巨大な岩盤すべり(推定移動岩塊2.7億m³)が発生し、ダム下流に鉄砲水が突然流下して、3000人の死者を出しました。

平成13年(2001)にイタリアで制作され、平成15年(2003)4月に日本でDVD・ビデオとして発売された『プロジェクトV―史上最悪のダム災害−』(発売元:彩プロ、発売元:ポニーキャニオン)という映画のDVDを購入して視聴しました。この映画を見て、バイオントダムと貯水池背後の巨大岩盤地すべりの見学に行きたくなりましたので、ストーリーの概要を紹介します。

「これは真実の物語である。広大な霊園に延々と建ち並ぶ墓標。その数3000。巨大ダムが招いた大惨事の犠牲者である。だが、史上類を見ない大災害の全容は、なぜかこれまでほとんど語り継がれてはこなかった。

昭和34年(1959)12月2日にフランスのマルパッセダムでダム本体が被災した地すべり災害(死者421人以上)が発生した。イタリア北部で建設が進む世界最大級のバイオントダムについて、女性ジャーナリストのティナ・メルリンは、マルパッセダムの地すべり災害をはるかに上回る危険が存在していることを新聞で指摘する。

一方、政府と建設側の地質学者やエンジニアは、一抹の不安を覚えながらもこの意見に取り合わず、工事は着々と進捗する。貯水池左岸のトック山山麓では地すべり変動の兆候が出始めたため、災害を恐れて住み慣れた地を離れる者がいたものの、大半の住民は仕事をもたらしてくれるダム建設に伴う公共事業を優先させたのだった。

粘り強いティナの取材と記事は、次第に建設推進派の耳にも届き始める。しかし、時すでに遅くダムは昭和35年(1960)に完成し、もはや後戻り出来ない状況になっていた。ダム完成を確認するための試験湛水(ダムの計画湛水高まで水位を上昇させて安全を確認する試験)が開始される。ダム水位の上昇に伴い、地すべり変動の兆候が大きくなったため、水位を下げると変動は小さくなる。建設技術者は発電用ダムとして、『ダム完成』の政府認可をもらいたいため、再び水位を上昇させる。しかし、地すべり変動が急激に大きくなったため、水位を下げ始める。そして運命の10月9日午後10時39分となる。貯水池左岸のトック山から巨大な岩盤すべりが突然発生し、大量の移動岩塊が貯水池に飛び込む。そして、5000万m³もの貯水がバイオントダムを飛び越え、鉄砲水となり、10時41分40秒に下流のロンガローネの町を襲う。人の愚かさを責めようにも、それはむなしく、恐ろしい一瞬の出来事であった。」

6.3 40年後のロンガローネ

昭和38年(1963)の災害から40年経過したロンガローネの町を平成16年(2004)5月26日に訪れました。この町は北イタリア・ドロミテ山地のなかでピアブ川の河谷に位置する美しい街です。

写真28左
写真28 左:LONGARONE Vajont the history
写真29右
右: VAJONT not to forget
Associazione Pro Loco di Longarone(2001)

現在の町には40年前の大災害の痕跡はほとんどなく、当時をしのばせるものは犠牲者を悼む新しいロンガローネ教会と共同墓地、記念館だけでした。生き残った住民の強い意向を受けて、ロンガローネの町は全滅した元の場所に再建されました。

町の中心部にあるロンガローネ教会を訪れました。朝リーバ・デル・ガルダを出発しましたが、到着したのが12時を少し回ったため、記念館は昼休み中(12〜14時)で、展示を見ることは出来ませんでした。しかし、売店だけを開けて頂き,写真28の2冊の本と図9の鳥瞰図を購入しました。左側の本の表紙には完成したバイオントダム(高さ261.6m)の正面写真が掲載され、ロンガローネの歴史が紹介されています。右側の本の表紙には鉄砲水によって破壊され、塔のみが残った教会の写真が掲載され、ダム決壊後の被害状況写真と解説が「not to forget」として説明されています。

バイオントダムの貯水池左岸には左岸のトック山斜面には巨大な地すべりが存在しダム貯水の上昇によって地すべり変動が急激に大きくなりました。そして、昭和38年(1963)10月9日午後10時39分に大量の地すべり岩塊が一度に貯水池内に飛び込み、満水に近かった貯水が押し出されました。貯水は対岸の斜面を200mも駆け上がってから、向きを下流方向に変え、巨大な鉄砲水となって直下のロンガローネの町を襲いました。全家屋372戸のうち、全壊家屋は361戸にも達しました。このためロンガローネの町の人口1269名のうち、死者・行方不明者は1190名で、ピアブ川(Piave River)流域全体の死者は2125名にも達する大惨事となりました(尾崎,1966)。

図9
図9 大災害後のバイオントダムとピアブ川の鳥瞰図(Pro Loco di Longarone,2001)
拡大表示

図9の鳥瞰図に示したように、ロンガローネの町が立地するピアブ川の河谷は、数万年前の氷河時代に山岳氷河が削ってできたU字谷です。後氷期になって氷河が後退して形成された細長い河谷に数百年前から小さなロンガローネの町が形成されました。ピアブ川の支流であるバイオント谷にも小規模な氷河が形成されましたが(谷底は本川谷の河底より400m程高い)、後氷期になって氷河が後退すると、本川近くからバイオント川の下刻は急激に進み、極めて急峻なV字谷が形成されました。

写真28左のバイオントダムの写真を見ても判るように、堤高261.6m(標高725.5m)、天頂長190.0m、堤体積36.3万m³、総貯水容量1.68億m³と、発電用の貯水ダムとしては極めて効率的なダムでした。敗戦国イタリアにとって、第二次世界大戦後の復興を支える巨大な国家プロジェクトでした。この災害は水力発電システム完成のために、試験湛水を急いだ結果引き起こされた人災の面が強いと指摘されています。

ロンガローネは谷あいの小さな林業を中心とする街で、写真28右の教会の塔が今回の災害で倒れなかったほとんど唯一の建物(教会の本体はすべて破壊)です。この町は1959年12月1〜8日に第1回国際アイスクリーム博覧会が開催されるなど、地域の中核の町となっていました。残念ながら、昭和38年(1963)12月に開催予定だったアイスクリーム博覧会は、ポスターが作られただけで、開催できませんでした。

6.4 トック山の巨大な岩盤地すべり

写真29に示したように、町からピアブ川の橋を渡って、左岸側のU字谷の谷壁斜面を登って行くと、次第にロンガローネの町や氷河が削ってできたU字谷の地形が良く見えるようになります。そして、トンネルを抜けてバイオント谷に入るとバイオント谷の堤体が見えてきます。コラム5で示した以下の図も参考にご覧下さい。

図4 バイオントダム周辺の概要図(Selli & Trevisan, in Muller, 1964;日本文は野崎,
2002で追記)
図5 バイオントダムの地質推定断面図(Ondrasik, in Semenza et al., 2000,日本文は野崎,
2002で追記)
図6 降雨・ダム水位・地すべり移動速度・ピエゾメーター水位の対比(Muller,1964)

バイオントダムのダムサイトを通り過ぎると、その先に巨大な岩盤地すべりの移動岩塊が眼前に見えてきます。移動岩塊は堆積2.7億m³、幅2km、長さ500〜800m、最大すべり面深度250mにも達しました(Muller,1964;尾崎,1966;奥田,1972;野崎,2002)。

ツアーの参加者は地すべりの規模に感嘆するとともに、40年間ほとんど変わらない姿で、地すべり岩塊が貯水池の上に存在することを確認しました。トック山に面した地すべりの背後は、石灰岩からなるのか、白く光って見えました(写真30)。

今回は行けませんでしたが、バイオント谷の上流側には移動岩塊の背後に今でも貯水が残されており、その一部は発電用にも利用されています。洪水時には水位が上昇して地すべり岩塊の上を越流させないように、峠越しに反対側のセリナ川方向に強力なポンプで排水されています。バイオント谷の河谷は向斜軸で、氷河時代に形成された小規模なU字谷となっていました。トック山や巨大岩盤地すべりの地帯(バイオント谷の左岸斜面)は流れ盤構造になっています(Ondrasik, in Semenza et al., 2000; 野崎,2002)。後氷期の急激な下刻によって、左岸側斜面は次第に不安定化し、地すべり変動も数回発生していたことが分かっていました。

写真29
写真29 ピアブ川の河谷とロンガローネの町
(右奥にバイオントダムが見える),2004年5月25日,井上撮影
写真30
写真30 バイオントダムと巨大な地すべり移動岩塊(地すべりの背面は
石灰岩からなるのか,白く光って見える),2004年5月25日,井上撮影

バイオントダムの建設技術者は、貯水池周辺の地質調査で左岸側の巨大な岩盤地すべりの存在を把握し、降雨と貯水位との関係を調査していました。試験湛水はダムが完成した昭和35年(1960)から開始されました。試験湛水の目標は、天端標高722.5mまで水位を上昇させて、斜面変状がないか確認することです。1960年11月に巨大地すべり地下部の貯水面付近で表層崩壊が発生し、試験湛水は中止されました。地質調査や地すべり変動状況の調査をもとに、右岸側にバイパストンネルが施工されることになりました。トンネル工事をしている1年近くの間、試験湛水は中止されました。

トンネル工事が完成し、上流からの流入水をトンネル内に通水させるようになると、巨大地すべりの変動は沈静化しました。このため、昭和37年(1962)初めより試験湛水が再開されました。試験湛水は比較的順調でしたが、貯水位が700mに達した昭和37年(1962)末頃から地すべり変状が顕著になったため、貯水位を650mまで低下させたところ、地すべり変動は極めて少なくなりました。そこで、ダム水位を再々度上昇させたところ、急激に地すべり変動が激しくなりました。

標高710mで水位上昇をやめ、水位を少し低下させ、災害当日(10月9日)には700mまで下げていました。しかし、夜の10時39分に突然2.7億m³の地すべり岩塊が急激に300〜400m(速度20〜30m/s)も移動し、バイオント狭谷の対岸まで乗り上げました。このため、5000万m³の貯水は標高935mまで押し上げられ、2500万m³の貯水が反転して洪水段波となって下流へ向かいました。ダム天端から100mも高い段波(鉄砲水)となって、バイオントダムを乗り越え、直下のロンガローネの町を襲いました。事前にこのような地変を察知して逃げた者は僅かだったようです。真夜中(午後10時39分)に段波が発生したため、ほとんどの人は逃げることができませんでした。

6.2項で説明した映画では、このような段波の状況を迫力のあるシーンで描いています。

7.むすび

この大災害の経緯を調べると、私たち建設技術者にとって教訓となる事項が多くあります。再建されたロンガローネ教会を訪ねながら、二度とこのような「人災」を引き起こさないようにするにはどうしたら良いのか、考えながらこの紹介記事を書きました。

井上は東京都立大学都市環境学部で行っていた集中授業「災害論」の最後の授業では、「バイオントダム地すべりと地形・地質技術者の責任」と題して解説を行い(井上,2004,2006)、映画を上映しました。学生たちはかなり真剣に映画を見て、様々な感想文を提出くれたのが印象に残っています。

最後に、イタリア火山 ワークショップで、現地案内して頂いた荒牧重雄東京大学名誉教授とイタリアの火山観測所の職員に感謝致します。また、『ヨーロッパ火山紀行』からの図の引用を許可して頂いた静岡大学名誉教授の小山真人先生に御礼申し上げます。

引用・参考文献

  • 荒牧重雄(2004):ベスビオ,伊藤和明監修・荒牧重雄・小山真人・勝井義雄・中川光弘・井上公夫・
     井口正人・池谷浩:世界の富士山,山海堂,p.8-11.
  • 井上公夫(2004):イタリア・バイオントダムの被災地を訪ねて,測量,2004年12月号,p.36-39.
  • 井上公夫(2006):事例21 バイオントダム地すべりと地形・地質技術者の責任,建設技術者
     のための土砂災害の地形判読実例問題 中・上級編,古今書院,p.113-116.
  • 井上公夫(2015):コラム5 イタリア・バイオントダムの被災地を訪ねて,歴史的大規模土砂
     災害地点を歩く,丸源書店,p.24-29.
  • 奥田秀夫(1972):バイオントダム地すべりとその後の経緯,地すべり,8巻3号,p.26-29.
  • 尾崎雅篤(1966):バイオントダムの地すべりについて,地すべり,2巻2号,p.26-29.
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  • 小山真人(1997):ヨーロッパ火山紀行,ちくま新書,205p.,本書はWebで公開されている。
  • 小山真人(2004):エトナ,伊藤和明監修・荒牧重雄・小山真人・勝井義雄・中川光弘・井上公夫・
     井口正人・池谷浩:世界の富士山,山海堂,p.12-15.
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