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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム21 善光寺地震(1847)による犀川の岩倉山天然ダム
 

4.岩倉山天然ダムの形成と決壊に対する松代藩の対応
 コラム20でも紹介しましたが、松代藩の家老・河原綱徳の『むし倉日記』には、岩倉山の地すべりによって形成された大規模天然ダムの形成と決壊に対する松代藩の対応が詳述されています。一巻(元)は、松代城下の様子や善光寺地震 の報告と対応が中心ですが、次第に周辺の山地部から激甚な土砂災害の情報が入ってきます。また、犀川の流水が無くなり、山平林村と安庭村との間にある虚空蔵山、または岩倉山が2つに割れ落ちて、犀川をせき止めたと報告がありました。西は山平林村の孫瀬組、岩倉組を押し崩して、数十丈の土砂と岩石で犀川をせき止め、東は安庭村の藤倉組を押し崩して、犀川をせき止めました。せき止めの範囲は十丁(1000m)もあり、岩倉の土砂崩れの方には5~10間(10~20m)もある多くの大岩によってせき止められており、いくら水がたまっても流れ出すことはあるまい、高い滝となって徐々に流れ出しても、当面川中島の方は心配あるまい、など様々な噂がされていました。
 地震から3日後の三月二十七日(5月11日)に、目付矢野茂・同加役石倉嘉大夫などが徒歩でせき止め場所に行き、土砂崩れが犀川をせき止めた場所まで降りて、間縄(けんなわ)を打ち、詳しく検分(測量)しました。矢野茂は二十八日に犀口ある恩田貫実(貫実子,1798~1862)の陣所にその結果を報告しました。二十七日に貫実子は役人を連れて、犀口の御普請所に出張し、天然ダム決壊時の対応策について、様々な検討を行いました。
 二十七日の申の刻(午後5時頃)、数百人の人足が「たった今、川が決壊して水が押し出しました。お逃げなさい。」と口々に言い捨てて、逃げて行きました。これを見て樽を載せた馬の馬士も、「命あっての物種です。御免下さい」という間もなく、樽を降ろし馬に鞭打って逃げてしまいました。人足の動揺は風の合間に鉄砲のような音が聞こえたので、「そら、決壊だ、水がでるぞ」と言うより早く一時になだれを打って逃げ出したようです。同日夜の戌の刻(午後8時)を過ぎる頃、川中島の所々で早鐘が聞こえ、「水だ、水だ」と言っている様子でした。しかし、誰も岩倉山の地すべり地での決壊を見た者はおらず、「最初、水が来たと大げさに騒ぎましたが、今になっても来ません。流言だったようです」 ということがわかり、松代城下の動揺も止んだようです。
 二巻(享)によれば、19日後の四月十三日(5月27日)に天然ダムは決壊し、大洪水が下流を襲いました。 「私在所信州松代、先達而先御届申上候通大地震ニ而、更級郡山平林村之内岩倉山抜崩犀川ヘ押埋、二ヶ所堰留、追々数十丈水湛留候処、一両日前より水漏候へ共、下之方堰留候場所へ水乗候ニは未弐丈余も有之候処、我ニ押破候与相見、昨十三日夕七時過、右山之方大ニ致鳴動、引続き瀬鳴之音高く相聞候処、一時ニ激水右川筋へ押出し、忽左右之土堤押切或乗越、防方も届兼候旨川方役人共より追々致注進候処、間も無之、川中嶋数十ヶ村一円水押、千曲川へ流込逆流致し、既居城際迄水多く押上、暮時より夜九ツ時比迄ニ千曲川平水より二丈計相増、川中嶋は勿論高井郡・水内郡之内川添村々水中ニ相成、瀬筋相立候様相見候処も数ヶ所有之、作物泥冠ハ勿論、押堀候ヶ所夥敷可有之候得共難見極、夜半過ニ及候而漸水丈も相定候様子ニ候処、暁ニ及次第引水ニ相成申候、兼而村方之者共水防手当申付置候得共、俄ニ押出、未曾有迅速之大水、在外之儀ニ而流家は勿論溺死も数多可有之候哉、其上多分之損地も出来可申与心痛罷在候、委細之儀は追而取調可申上候得共、先此段御届申上候、以上       四月十四日」

5.岩倉山の地すべりと天然ダムの形成・決壊
 図8は松代封内測量図の第三図(大岡及び犀川東南諸村,図3の下図)の拡大図で、長野市涌池の上方にある岩倉山(標高764mが大規模な地すべりを起こした状況を示しています。図9は青木雪卿絵図-49 於長井村地内字十石眺望岩倉山山崩塞犀川跡之図(長野市立松代宝物館蔵)です。図10は、岩倉山周辺空中写真判読図(善光寺地震災害研究グループ,1994)で、図8、図9などと比較すると、善光寺地震時に地すべり性崩壊を起こして、信濃川の上流部・犀川を河道閉塞し、大規模な天然ダムを形成した様子が良く分ります。図11は、図10に示した直線上の岩倉山地すべり地の推定断面図(中村ほか,2000,井上,2006)です。田畑ほか(2002)では、移動土砂量は8400万m3、堰止め土砂は2000万m3と推定しました。 

図8 松代封内測量図の第三図(大岡及び犀川東南諸村)の拡大図,岩倉山付近
京都大学総合博物館収蔵

図9 青木雪卿絵図-49 於長井村地内字十石眺望岩倉山山崩塞犀川跡之図(長野市真田宝物館)

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図10 岩倉山周辺空中写真判読図(善光寺地震災害研究グループ,1994)  

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図11 岩倉山地すべり地推定断面図(中村ほか,2000,井上,2006)  

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 地震直後、雪解け洪水で増水していた犀川の水は、天然ダムの背後に次第に貯留されるようになりました。コラム20の図2 信州地震大絵図には、岩倉山の湛水範囲と決壊後の犀川を駆け下る洪水段波(犀川沿いに茶色で示される)と善光寺平より下流の洪水流が描かれています。犀川が善光寺平に出る部分は白色で示され、土砂が数mも堆積しました。それより下流は、行く筋もの洪水流が描かれ、中野から飯山を通過して流下していることが分ります。図12は、天然ダムの湛水域推定断面図(中村ほか,2000,井上,2006)です。犀川の河床縦断面図の上に、岩倉山天然ダムの湛水範囲と決壊後の洪水段波の水位を示しています。天然ダムの湛水は徐々に上昇し、信州新町の集落を初め、30km上流の地点まで湛水しました。中村ほか(2000)や井上(2006)は、当時の史料や絵図をもとに、現在の地形条件から判断して、堰止高65m,湛水量3.5億m3にも達したと推定しました。
 そして、19日後の四月十三日(5月27日)に天然ダムは一気に決壊し、高さ20mにも達する段波となって流下しました。その結果、下流の善光寺平のほぼ全域に氾濫し、大被害を引き起こしました。この大洪水は飯山から下流の信濃川まで流下しました。
図12 天然ダムの湛水範囲推定断面図(中村ほか,2000,井上,2006)

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図13 犀川丘陵の傾斜量分布図と岩倉山地すべりの湛水範囲((有)地球情報・技術研究所 井上誠作成)
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 図13は、犀川丘陵の傾斜量分布図で、国土地理院の5mメッシュのDEMを用いました(許可番号:平25情使 第94号)。本図は(有)地球情報・技術研究所の井上誠氏に作成して頂きましたが、傾斜量図の作成法や地形・地質の見方については、井上誠(2011,2012)をご覧ください。黄色は岩倉山地すべりの湛水範囲を示しており、犀川丘陵の地形・地質構造が良く分ります。また、犀川が丘陵地を蛇行しながら流下する状況と天然ダムの湛水範囲が良くわかります。柳久保池と河道閉塞した地すべりとの関係が良くわかり、長野県地質図活用復旧事業研究会(2015)のデジタル地質図などと比較すると、犀川丘陵背後の地質構造と地すべり地形との関係が読み取れます。今後、善光寺地震関係の絵図や史料と地形・地質との関係をさらに比較検証して行きたいと思います。5mメッシュのDEMをもとに作成した等高線地形図から、最高湛水位470m以下の面積と湛水量を計測すると、湛水面積11.9km2、最大湛水量3.4億m3となりました。

6.善光寺地震池田組大絵図と犀川上流の土砂災害
 図14 善光寺地震池田組大絵図(長野県池田町原田恵美子氏蔵)
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 図14は、長野県池田町原田恵美子氏蔵の「善光寺地震池田組大絵図」(縦1.65m,横3.85m)で、松本藩領の池田組32ヶ村の善光寺地震による崩壊や地すべりの状況が詳しく描かれています(井上,2004,赤羽・井上,2007)。この図は池田町の文化財に指定されていますが,同じ図柄の絵図が上原卓郎氏宅にもあることが判明しました。本絵図は善光寺地震3か月後の弘化四年六月に池田町の庄屋を務めた上原仁右衛門・山崎参十郎により製作されたもので,被害状況を松本藩に報告したものの控えです。明科から下流の犀川が曲流している状況が克明に描かれています。この図は江戸時代末期に描かれていますので,伊能忠敬(1745-1818)などの測量技術が武士階級だけでなく,名主層まで会得していたことが分ります。  
 図14の北部の犀川は濃い河道の部分と水色で示された部分があります。この部分は岩倉山の天然ダムの最上流端が山清路上流・生坂村の雲根集落付近まで湛水していたことが分かります。図13では、山清路より下流となっていますが、東京電力の平ダムの上流端まで湛水したようです。さらに、上流の会田川との合流点(明科付近)まで湛水したという説もありますが、そこまでは湛水しなかったようです。  
 この大絵図を詳しく見ると,地震直後に新たに発生した土砂災害の状況が,白い顔料で克明に追記されています。図15は生坂村袖山付近の拡大図で,左図が原田美恵子氏蔵、右図が上原卓郎氏蔵で、人家の倒潰と倒木の表現が2枚の絵図では少し異なっています。袖山集落は大きな地すべり被害(全潰6戸,半潰4戸)を受けた状況が読み取れます。地すべり土塊は斜面下部を流れる袖山川にまで達し,河道閉塞しています。袖山川の河道閉塞による天然ダムの湛水域にも差が認められ,原田氏蔵の図は天然ダムの湛水範囲が大きくなっています。

 図15 善光寺地震池田組大絵図の袖山付近 (左図:原田恵美子氏蔵,右図:上原卓郎氏蔵)
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7.史料解析の新しい研究成果
 最近でも,善光寺地震に関する史料分析が続けられています。
 長野市信更町涌池区では、涌池周辺の史跡公園の整備を行い、地区に残っている史料などをもとに涌池史跡公園記録誌編集委員会(2011)が記録誌を作成しました。長野県立歴史館では、平成25年度冬季展『山国の水害,―戌の満水と善光寺地震―』を平成25年(2013)11月23日〜26年1月19日に開催しました。11月23日(土)には、山浦直人(2014)の講演「善光寺地震その時何が?〜犀川をせき止めた巨大崩壊、巨大湖、大水害を絵図から学ぶ〜」が行われました。

@ 涌池はいつから存在したか
 明治初期の『安庭村誌』の涌井神社の項には、「貞観五年に大地震に由て社地より五町を距り、忽然清水涌出し、其水中より本神、涌出せしを以て、合殿庶神と共に創齋(そうさい)す」と記されています。『日本三大実録』によれば、貞観五年六月十七日(863年7月6日)に越中越後で大地震が起き、山や谷が所を変え、水泉が湧出し、民家が破壊され、圧死するものが多かったようです(山浦,2014)。柳沢虎一郎『更埴地質誌』によれば、善光寺地震前に壱千坪(3300m2)の涌池がありました(現在の涌池の1/10程度)。

 A 善光寺地震前後の虚空蔵山(岩倉山)の地形変化
 上記の史料などから、図16虚空蔵山崩壊機構推定断面図に示したように、山浦は善光寺地震前後の地形変化を推定しています(涌池史跡公園記録誌編集委員会,2011,山浦,2014)。現在の涌池よりも標高の高い位置に1/10程度の大きさの涌池があり、3段の段丘状地形となっていました。崩壊(地すべり)は、まず中段より下方の土塊が犀川に向かってすべり、その先端にあった岩塊(凝灰角礫岩)が犀川に押し出し、その後から崩れた土塊が覆いました。同時に虚空蔵山の斜面が、引きずられるように滑動しました(従属的地塊)。現在より高い平坦面にあった涌池は,現在の高さまで落ち込んで大きな窪みをつくり、その後「涌池」となりました。

 B 地すべり土塊量・湛水量の推定
 山浦は、すべり面までの最大深度は80〜90m、断面積は7〜8万m2と想定し、主滑動土塊のブロック幅400〜500mを乗じると、移動土塊量は3000〜4000万m3となると推定しました。また、せき止め湖の湛水標高を470mとし,湛水面積(A)を1/2.5万地形図で求めると11.34km2となり,最大湛水深(D)を65mとすると,湛水量は2.46億m3(=1/3*A*D)となりました。
 江戸時代中期には幕府の命令で全国の村絵図が作成されており、善光寺地震以前の村絵図を入手できれば,善光寺地震以前の岩倉山地すべりなどの地形の推定が可能になると思います。  

 図16 虚空蔵山崩壊の断面図(涌池史跡公園記録誌編集委員会,2011,山浦,2014)
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引用文献・参考文献
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