1. はじめに
コラム72では、「五畿七道地震(887)による北八ヶ岳の大規模崩壊と千曲川に形成された天然ダム、その後の稲子岳周辺の変位」について説明しました。コラム73では、「大月川岩屑なだれによる天然ダム形成(887)と303日後の天然ダム決壊による千曲川の仁和洪水」について、放射性炭素(
14C)年代測定と樹木年輪を構成するセルロースの酸素同位体比を測定する酸素同位体比(δ
18O)年輪年代測定による新しい知見を含めて説明します。
コラム49でも説明したように、富士川右支小武川・ドンドコ沢の巨大深層崩壊と岩石なだれ堆積物中の年代測定結果でも、887年前後の年代値が得られています(井上公夫・巨大(深層)崩壊の高精度編年研究会,2017,2018,山田ほか,2016a,b,2018)。
2.大月川岩屑なだれによる千曲川の河道閉塞と天然ダムの形成
図1は、千曲川の河道閉塞地点周辺の地形分類図と天然ダムの湛水範囲(井上ほか,2010)を示しています。コラム72で説明した仁和三年七月三十日(ユリウス暦887年8月22日)の五畿七道地震(南海−東海地震)で、北八ヶ岳の火山体が強く揺すられ、天狗岳東麓で大規模な山体崩壊が発生しました。山体崩壊による岩塊は大月川を岩屑なだれとなって千曲川支流の千曲川を西側から河道閉塞しました。この河道閉塞によって、千曲川の上流部に湛水高130m、湛水量5.8億m
3の
古千曲湖Tが形成されました。図1の高位段丘面は河内(1983a)による
大月川岩屑なだれの堆積面であり、堆積面の上には
流れ山地形と
松原湖などの湖沼が多く存在します。古千曲湖Tは仁和四年五月二十八日(888年6月20日,地震から303日後)に満水となって決壊し、千曲川下流120kmの中野市の夜間瀬川合流点付近まで大洪水が流下しました。考古学の発掘調査では、条里制遺構の上に数十cmの「
仁和の洪水砂」と呼ばれる堆積砂層が多くの箇所で見つかっています。図1の中位段丘面は天然ダム(古千曲湖T)決壊直後の二次岩屑なだれの段丘面です。低位段丘面は、その後の河川侵食で徐々に削られた地形面と考えられます。高位と中位の段丘面上の人家の庭先や畑には、写真1と写真2に示したような大転石が多く残っています。二次岩屑なだれが流下した千曲川の右岸側にはローブ状の段丘面も認められます。
河内(1983a,b)は、天狗岳東麓の山体崩壊によって、南北2.25km、東西3.5km、最大比高350mの馬蹄形カルデラが形成されたと考え、大月川岩屑なだれの堆積物を3.5億m
3と見積もっています。しかし、馬蹄形カルデラの大きさは10億m
3以上と推定されるので、887年のような大規模な岩屑なだれが繰り返し発生して(水蒸気爆発などの火山活動も加わって)形成された地形と判断されます。
図1 千曲川の河道閉塞地点周辺の地形分類図と天然ダムの湛水範囲(井上ほか, 2010a)
<拡大表示>
|
図2 「仁和洪水砂」の流下範囲と洪水砂に覆われた遺跡の位置一覧表(川崎(2000a,b,2018a,b)をもとに作成)
<拡大表示>
|
図2は、仁和洪水全体の範囲と仁和洪水によって覆われた遺跡の位置(川崎,2000a,b,2018a,bをもとに作成)です。図2の青線内は、仁和洪水の遺跡と地形条件から推定した仁和洪水の流下範囲です。流下範囲の推定にあたっては、「長野県が管理する河川の想定最大規模の浸水想定区域図(1/1000年確率)」(更新日:2021年6月1日)と関係市町村のハザードマップを参考にしました。表1は、「仁和の洪水砂」に覆われた遺跡の一覧表です(川崎2000a,b,2018a,b)。後述するように、千曲川流域では、令和元年(2019)10月12日〜13日に激甚な土砂災害・洪水災害を引き起こしました。しかし、寛保二年七月二十七日〜八月一日(1742年8月27〜30日)の「
戌の満水」の方が洪水氾濫範囲は大きくなっています(信濃毎日新聞社,2002)。「
仁和洪水」(888)は、「戌の満水」よりもさらに大きな洪水であったと考えられます。1742年と2019年の洪水は集中豪雨による千曲川の氾濫ですが、888年の洪水は、歴史上(歴史記録上?)日本最大の天然ダム(古千曲湖T,湛水量5.8億m
3)の決壊による洪水段波によるものであったためと考えられます。
図2と図3に示したように、「仁和洪水砂」が、126km下流の中野市柳沢の柳沢遺跡(No.17)の発掘調査で確認されています。また、この地点はコラム65で説明したように、長野県で土砂流出が最も活発な夜間瀬川と千曲川の合流点付近です。
夜間瀬川は古い火山である志賀高原から多量の土砂を流出させる流域面積117km
2、全長26kmの急流荒廃河川で、中野市柳沢で千曲川に合流しています。標高2000m前後の志賀高原に源流を持つ横湯川と角間川が山ノ内町の湯田中・渋温泉付近で合流しています。湯田中・渋温泉などの温泉街は横湯川・角間川・夜間瀬川の河床や河成段丘上に発達していますが、鎌倉時代以降しばしば激甚な土砂・洪水災害を受けてきました。夜間瀬川下流部には、長さ6km、面積25km
2の広大な夜間瀬川扇状地が形成されています。夜間瀬川扇状地の南側には「
延徳たんぼ」と呼ばれる低湿地があり、『中野古来覚書』は江戸時代の宝暦前後(18世紀中期)に書かれた史料で、「
古遠洞湖」と呼ばれる湖沼だったようです。建久八年(1197)に源頼朝が草津を経て、善光寺参りをしたおり、古遠洞湖に舟を浮かべて、湖岸の大熊・仙化山にあった「
飯森松」の見事さをめでたと言われています。夜間瀬川は扇状地の上に発達した中野地方をしばしば襲い、古遠洞湖に注いでいました。応永十三年(1406)の大洪水で、夜間瀬川は扇状地の北側を流れる流路に振り替わり、柳沢付近で千曲川に合流するようになりました。
千曲川は夜間瀬川扇状地の発達によって、洪水時には南流して古遠洞湖に流入するものの北流することができず、西側の長丘丘陵を蛇行しながら流下しています。発掘調査では、平安時代と特定はできませんが、中野市の栗林遺跡(No.14)、南大原遺跡(No.15)、川久保遺跡(No.16)などで、洪水砂が見つかっています。また、159km下流の栄村豊栄のひんご遺跡(No.18)でも洪水砂が見つかっています。しかしながら、長野市の犀川との合流点(落合橋)より下流では、犀川からの土砂流出も加わるので、洪水砂の供給源(岩質の分類)など、「仁和洪水砂」の認定のための慎重な検討が必要です。
図3 夜間瀬川扇状地の災害状況図(夜間瀬川直轄施工100周年記念シンポジウム実行委員会,2018の図を簡略化)
<拡大表示>
寛保二年(1742)の「戌の満水」や弘化四年(1847)の善光寺地震時の天然ダム決壊洪水も古遠洞湖(延徳たんぼ)に流入しましたが、「仁和洪水」ほど大規模ではありませんでした。
3.大月川岩屑なだれによる河道閉塞地付近の年代測定
これから、「仁和洪水」について2010年以降に判明したことを説明します。
大月川岩屑なだれ(ODA)による河道閉塞地点付近では、河内(1983a,b)、舎川ほか(1984)、奥田ほか(2000)などによって、
14C年代が測定され、岩屑なだれ堆積物が1000年以上前の堆積物であることが示されていました(表3)。また、河内・光谷・川崎(未公表、2001年3月12日原稿作成、茅野市八ヶ岳総合博物館の収蔵庫の河内晋平文庫で確認)、光谷(2001)、川崎(2000a,b,2010)は、岩屑なだれ堆積物中の埋もれ木をもとに実施した年輪年代測定結果から、仁和三年(887)に山体崩壊と岩屑なだれが発生した可能性について報告しました。
平成27年(2015)11月に長野県南佐久郡小海町の大月川に面した谷壁斜面で、幅50m、長さ90m、層厚10m、推定移動土砂量18,500m
3の規模で斜面が崩落しました(草谷ほか,2017)。位置は図1のC地点付近で、地表から河床までほとんどが大月川岩屑なだれ堆積物からなります。この谷壁斜面では多くの埋もれ木が見つかっており、
14C年代測定や年輪年代測定が行われました。地すべり地背面のボーリング調査の結果(草谷ほか,2017)によれば、調査地の地質は下位より安山岩質凝灰岩、大月川岩屑なだれ堆積物(褐色)、湖沼堆積物からなります。岩屑なだれ堆積物中に含まれる木片の
14C年代は1320±30年であり、既往の調査結果(表3)と重なります。
著者の井上と防災科学技術研究所の地すべりグループは、この災害の報告を受け、平成27年(2015)12月に現地調査を行い、岩屑なだれ堆積物中で新たに見つけた埋もれ木を採取し、
14C年代測定とδ18O年輪年代測定を行いました。また、茅野市八ヶ岳総合博物館河内晋平文庫の収蔵庫から河内晋平氏が採取して保管されていた輪切り試料の一部を頂いてδ
18O年輪年代測定を行いました。
平成27年度から29年度の砂防学会公募研究会「巨大(深層)崩壊の高精度編年研究会―年輪年代法による巨大崩壊の発生年代の推定と歴史史料との対比―」(研究代表者・井上公夫,共同研究者11名)は、富士川右支・小武川ドンドコ沢流域で岩石なだれ堆積物の詳細な地形・地質調査と年代測定を行いました(井上,2018a,b,木村ほか,2018a,b,2019等)。詳細はコラム49や井上ほか(2018a,b)や、木村ほか(2018a,b)などをご覧ください。
以上の研究成果を南アルプス小武川ドンドコ沢流域の調査結果と合わせて整理した山田ほか(2021a)が砂防学会誌、73巻5号に掲載されました。図4は、富士川右支・小武川ドンドコ沢流域の調査位置図で、岩石なだれ堆積物(DRA)の分布域(苅谷(2012)を修正)と試料採取地点を示しています。図5は、八ヶ岳大月川岩屑なだれ堆積物(ODA)の分布域(井上ほか(2010)を修正)と試料採取地点を示しています。
先行研究と山田ほか(2021a)で行った埋没樹木の年代測定結果を表2,3に示します。
14C年代測定結果のうち、南アルプス地域の先行研究で測定された2試料(DDK-E,DDK-F)は、DRAによる河道閉塞の存続期間を見積もるために、下部堰止湖堆積物の上位層準から採取したものであり(苅谷,2012)、DRAの発生年代には直接関係しません。また、八ヶ岳地域の先行研究で測定された4試料(G-10119,G-11847,O-2000,B-430034)は、年代測定結果の詳細が未公表であるか、試料採取位置が不明でした。これら6試料の年代値は参考値として表3に示しました。
δ
18O年輪年代測定を行った7試料(DRA:R-2,L-1,L-4,L-5,L-24;ODA:Y-3,Y-4)について、δ
18O年輪年代測定値の経年変動パターンと標準変動曲線との相関係数を求めた結果を図6に示します。
図4 小武川ドンドコ沢の岩石なだれ堆積物の分布域と試料採集地点(山田ほか,2021a)
左上:岩石なだれ堆積物(DRA)の分布域(苅谷(2012)を修正)と試料採取地点
上中央:下部堰止湖周辺の試料採取地点
右上:下部堰止湖トレンチ近傍(上中央図の四角内)の地質柱状図(木村ほか(2019)を修正)
下段:下部堰止湖周辺で採取した樹幹試料とDRA堆積物に直接巻き込まれた樹幹試料(R-2)
の産状写真,基図は地理院地図を使用
<拡大表示>
図5 八ヶ岳大月川岩屑なだれの分布域と年代測定資料採集地点(山田ほか,2021a)
左:八ヶ岳大月川岩屑なだれ(ODA)堆積物の分布域(井上ほか(2010)を修正)と試料採取地点
右上:崩積土に直接巻き込まれた試料の産状(Y-3)
右下:八ヶ岳総合博物館河内晋平文庫に保管された樹皮を確認できる樹幹試料(Y-4)と樹皮付近の拡大写真
点線範囲内の127年輪を酸素同位体比年輪年代測定に供した,基図は地理院地図を使用
<拡大表示>
図6 δ18O年輪年代測定結果(山田ほか,2021a)
各グラフの縦軸にとった相関係数は、横軸の暦年(AD)を最外年輪または残存最外年輪の年代とした時の値です。すべての試料において、突出して相関係数が高くなる年が認められるため、対応する暦年範囲が決定されました。相関係数が最も高くなる歴年代範囲における各試料のδ
18O経年変動パターンをヒノキの標準変動曲線と対比したものを図7に示します。
試料によって、δ
18Oの値は数%程度の差異はあるものの、ピークの位置は樹種や個体の違いを超えて良く相似することが判ります。年代測定結果として、樹皮が残るY-4については最外年輪の暦年を、それ以外の樹皮が確認できない試料については、残存年輪の暦年値に+を付記して表2,3に示しました。また、表2と3にまとめた計30試料のうち、参考値とした6試料を除く24試料の年代測定結果を図8に示しました。
八ヶ岳地域の大月川右岸側の2箇所の露頭で採取したY-1とY-2の
14C年代測定結果は244-537cal ADと401-617cal ADであり、左岸側で採取したY-3のδ
18O年輪年代測定の結果はAD821+でした。河内晋平氏が千曲川沿いで発見したY-4(茅野市八ヶ岳総合博物館河内文庫で保管)については、博物館の許可を得て試料を部分的に切り取り、年輪年代測定を行いました。その結果、Y-4のδ
18O年輪年代測定値はAD857でしたが、この試料は樹皮を確認できる倒伏樹幹であるため、この年代値が枯死年と特定されました。Y-3のδ
18O年輪年代測定値はAD821+でしたが、この試料の辺材部は傷んでおり外側の年輪が消失していますので、Y4と同年(AD857)に枯死した可能性もあります。
図7 相関係数が最大時の各年輪試料の年代範囲における酸素同位体比
の比較(山田ほか,2021a):横格子線の間隔は共通で4.0‰であり,
各曲線の目盛りはおおよその変動範囲を表す。
一方、Y-1の
14C年代測定結果は244-537calAD、Y-2のそれは401-617calADとなっており、大月川岩屑なだれ(ODA)の発生したと考えられる年(887)よりも200年以上古くなっています。また、河内(1983a,b)が千曲川沿いで発見した樹幹の
14C年代測定結果は2-535calADと898-1260calADで、Y-4の枯死年より300年以上古いものと、40年以上新しい年代値となりました。
14C年代測定をおこなった4試料は、出土位置、産状、保存状態が異なっており、材の起源や堆積過程について、様々な可能性が想定されます。
井上ほか(2010a,b)などが指摘するODAの発生年代と地変の記録(AD887仁和地震やAD888仁和洪水砂など)との関連についても再検討する必要があります。たとえば、千曲川沿いに分布するODA堆積物中から出土したY-4は、ODAが発生したと考えられる年より30年前に枯死しているので、ODAがAD887に発生したとすると、その時点でY-4は既に倒れていたことになります。従って、ODA発生年=AD887説が否定されるか、Y-4はODAとは関係ないか、のどちらかです。このような検証には、試料の産出状況の再確認が不可欠です。
表2 年代測定試料と測定結果(南アルプスドンドコ沢)(山田ほか,2021a)
<拡大表示>
表3 年代測定試料と測定結果(八ヶ岳地域 大月川・千曲川)(山田ほか,2021a)
<拡大表示>
図8 暦年較正した14C年代範囲の確率分布とδ18O年輪年代測定結果(山田ほか,2021a)
以上の年代測定結果などをまとめると、以下のようになります。
八ヶ岳地域では、千曲川沿いに分布するODA堆積物中から出土した樹皮を確認できる倒伏樹幹の枯死年はAD857年であり、大月川沿いで出土した倒伏樹幹はAD821年以降であることが明らかになりました。一方、新たな2つの
14C年代測定結果(Y-1:244-537calAD,Y2:401-617)は200年以上も古く、先行研究の結果やこれらの樹幹試料の枯死年とは必ずしも一致せず、ODAの発生年代との関連は明らかではありません。しかしながら、現在千曲川沿いは護岸工が施されて露頭がほとんど残っておらず、堆積物層序や埋没樹木の再調査は困難です。ODA堆積物の年代測定がまだ行われていない崩壊発生源の詳細な調査を行うべきでしょう。
14C年代測定だけでなく、年輪年代測定が行われるようになって、堆積年代がより詳細にわかり、新たな疑問点も多く議論できるようになりました。今回の調査結果で示されたように、埋没樹木の年代測定結果と深層崩壊発生年代との関連性をどう判断するのかがきわめて重要になります。崩壊堆積物中から出土した倒伏樹幹の場合、崩壊堆積物中に巻き込まれる以前にすでに枯死していた可能性もあります。しかし、樹皮や辺材部が良く保存されていれば、その個体が崩壊発生以前に枯死していたとしても、枯死年が崩壊発生年代に近いことを示す証拠になります。このように、材の形状や堆積状況(堆積物層に水平に挟まれた倒伏樹幹か立木状に埋没している樹幹かなど)だけでなく、材の保存状態も試料採取時における重要な観察事項になります。
年代測定試料として大径樹幹等の化石材を採取して、年輪年代測定を実施することは非常に有効です。保存状態が良い場合には、年輪年代測定によって、古文書記録と対比可能なレベルでの枯死年の推定が可能です。材化石試料の年輪年代測定が可能かどうかは、天然環境下における試料の保存状態に大きく依存します。保存状態の良いものは、湿潤なシルト層のように還元的な堆積環境で多く発見されます。高精度年代測定に要求される条件を備えた材化石を発見することは容易ではありませんが、道路工事や砂防工事の現場等で大径樹幹の埋没樹木が出土することは、多くの関係者が経験するところです。そのような材化石を活用した調査・研究の進展が期待されます(山田ほか,2021a)。
2021年時点では、中部横断自動車道(静岡市清水〜長野県小諸市)の建設工事が進められており、佐久南IC〜八千穂高原IC間は平成30年(2018)4月28日に開通しました。今後実施される大月川岩屑なだれ区間の調査と工事によって、岩屑なだれ堆積物の形状が明らかとなり、良好な埋没樹木が発見され、年代測定が行われることを期待します。
4.本誓寺遺跡の発掘調査と年代測定
千曲市教育委員会では、千曲市 あんず・雨宮統合保育園建設に伴う発掘調査(本誓寺遺跡)を令和2 年(2020)3月16日〜5月末に行いました(図9)。発見された遺構は、水田面3面(平安時代後期)、畦畔3条などです。仁和四年五月八日(888年6月20日)の天然ダムの決壊洪水で、条里制遺構の上に載る「仁和洪水砂」が検出されました(図10)。
発掘調査の成果(2020年5月の説明資料の要約)
① 仁和の洪水砂が発見された。
仁和三年七月三十日(ユリウス暦887年8月22日)の五畿七道地震(東海―南海の海溝型巨大地震)によって、北八ヶ岳の山塊が崩壊し、大月川岩屑なだれが流下して、千曲川の上流をせき止め、日本最大の天然ダムを形成した(古千曲湖)。
翌仁和四年五月八日(888年6月20日)に天然ダムが崩壊し、「決壊洪水」が千曲川流域を飲み込んで、流下した。今回の調査で、沢山川まで洪水が到達していたことが確認された。今後の水害を考えるうえで、貴重な資料が得られた。
② 洪水砂で覆われた平安時代の水田が発見された。
千曲市屋代地区は奈良時代から平安時代に碁盤の目状に区画整理された水田が作られていた。屋代地区は洪水の砂で水田が良好に保存されており、全国でもっとも早い段階で条里水田が調査された地域で、全国的にも知られている。今回の調査で、条里水田の東端が検出され、沢山川付近まで水田が作られていたことが確認された。ただし、条里制の水田と畔の位置が合わないので、条里水田がどのように計画され、施工されていったかは、今後の研究課題である。
③ 川跡から自然木がみつかった。当時川沿いは木が生い茂っていたことがわかった。
④ 砂中および畦畔脇から、土師器および須恵器が出土した。
千曲市教育委員会の好意により、2020年6月3日に井上と長野県埋蔵文化財センターの川崎、防災科学技術研究所の地すべりグループなどは現地調査を行いました。
遺跡で発見された8本の化石木(サワラ1本,ヤナギ属7本)を採取し(図10,表4)、年輪年代測定と
14C年代測定を行いました(山田ほか,2021b)。サワラ材(No.1)は建造物の柱・梁用途に柱状に整形され、小口面に268面の年輪が確認されました(図11)。樹皮は残らないものの辺材組織を含むように見えるため、剥離された年輪は数10枚を超えないと推測されました。樹芯に近い67枚の年輪を用いてδ
18O年輪年代測定を行った結果、AD492−558年に形成されたと同定されました。したがって、残存する最外年輪はAD759年であり、伐採年は8世紀後半から9世紀後半の間と推定されます。遺跡周辺の建物が洪水に襲われ、流下してきた可能性があります。
図9 本誓寺遺跡の位置
<拡大表示>
|
写真5 洪水砂の堆積状況
|
(千曲市教育委員会説明資料)
|
図10 遺構概略図と採取した樹木試料番号
(千曲市教育委員会説明資料に試料地点を追記)
図11 柱状サラワ材試料(No.1)の断面と年輪年代測定結果(山田ほか,2021b)
<拡大表示>
ヤナギ属の2本の流木(No.2,5)と樹根(No.3,7)の
14C年代測定を行いました。樹皮に近い部分を採取したので、枯死年は測定年代以降でかつ近いと考えられます。IntCal20とOxCal4.4を用いた暦年較正(Reimer et al. 2020; Ramsey, 2009)の結果、最も確率が高い年代範囲は、流木試料でAD772-888(95.4%)とAD772-896(86.6%)、樹根試料でAD873-989(85.1%)とAD772-884(86.3%)でした。
以上の結果は、仁和四年(AD888)に発生した洪水により、①千曲川上流域などで破断・倒伏したヤナギ属の流木が8世紀後半以降に伐採加工された建築材とともに本誓寺遺跡に堆積した、②ヤナギ属が洪水により立ち枯れした、として矛盾ないと判断しました。
表4 本誓寺遺跡の年代測定結果(山田ほか,2021b)
<拡大表示>
5.むすび
コラム72、73で仁和三年七月三十日(887年8月22日)の「五畿七道地震」による北八ヶ岳の山体崩壊と大月川岩屑なだれの流下による千曲川の河道閉塞と日本で最も大きな天然ダム(古千曲湖T,湛水高130m,湛水量5.8億m
3)の形成と303日後の決壊、仁和四年五月八日(888年6月20日)の「仁和洪水」について説明しました。山体崩壊の源頭部では、「稲子岳」が巨大な移動岩塊(推定2億m
3)として残っており、現在でも少しずつ変位していることが明らかになりました。かなり多くの
14C年代測定と年輪年代測定が行われ、これらの大規模な地形変化の状況が明らかになりました。といっても古文書史料と完全に合致した年代が得られた訳ではなく、数百年のバラツキも目立ちました。このことは、一連の地形変化が1回の現象ではなく、前後して発生した大規模地震や豪雨によって引き起こされた複数の土砂移動現象を反映しているものと思われます(北八ヶ岳天狗岳東麓のカルデラの侵食量は10億m
3で、887年の山体崩壊は3.5億m
3と見積もられています)。
今回の調査で多くのことが判明しましたが、多くの研究すべき課題が新たに残りました。これらの課題を解明するためには、源頭部付近での詳細な地質調査と堆積物の年代測定が必要と考えられます。また、3項末で説明したように、中部横断自動車道(静岡市清水〜長野県小諸市)の建設のための調査と工事が進捗されることにより、地質状況が解明され、良質な試料が得られて正確な年代測定が実施されることを期待します。
終わりに、コラム72,73を執筆するにあたり、種々の協力と貴重な研究資料の提供を頂いた国土交通省国土技術政策総合研究所の水野正樹深層崩壊対策研究官、国立研究開発法人防災科学技術研究所の山田隆二主任研究官、一般財団法人長野県文化振興事業団長野県埋蔵文化財センターの川崎保調査部長、元独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所の光谷拓美氏、茅野市八ヶ岳総合博物館、千曲市教育委員会などの関係各位に御礼申し上げます。
引用・参考文献(コラム72と73)
コラム72の引用・参考文献を参照してください。