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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
 コラム78 国土地理院・1/2.5万火山土地条件図「浅間山」の発行と
やんば天明泥流ミュージアムの開館1年
1.はじめに
 私は、30年前の建設省土木研究所の業務で、浅間山の天明噴火時の土砂災害調査を始めました(山田ほか,1993a,b;井上ほか,1994;井上,1995)。それ以降も何度か浅間山の調査を行い、井上(2009a)といさぼうネットのコラム18,19で説明しました。
 井上公夫(2009a):噴火の土砂洪水災害―天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ―,古今書院,シリーズ繰り返す自然災害を知る・防ぐ,第5巻,204p.  
 >>コラム18 天明三年(1783)の浅間山天明噴火と鎌原土石なだれ(2016年3月31日公開)
 >>コラム19 天明三年(1783)の浅間山天明噴火と天明泥流(2016年5月16日公開)
 
 30年前の調査時には、当時北海道大学の教授でおられた荒牧重雄先生の研究室にお伺いし、建設省土木研究所業務の調査結果を説明するとともに鎌原土石なだれが中腹噴火である可能性について、議論させて頂きました。引用・参考文献一覧は、この調査以来、30年間にわたって収集整理したものです。
 国土地理院では、1:25,000火山土地条件図「浅間山」を作成することになり、地理院からご依頼を受け、令和2年(2020)11月10日〜12日に、担当職員3名の現地調査に同行して、今までの調査結果について現地で説明しました(火山土地条件図は令和4年(2022)3月末に公開されました)。

 公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団では、長野原町教育委員会とともに、平成6年(1994)から令和元年(2019)までの26年間、八ッ場ダム建設工事に伴う大規模な発掘調査を行ってきました。吾妻川沿いを中心とした約100万m2にも及ぶ調査区からは、縄文時代から江戸時代までの遺跡が折り重なるように見つかりました。特に、江戸時代の天明三年(1783)に、浅間山の大噴火により発生した「天明泥流」によって埋没した村落が広範囲に見つかりました。

 これらの膨大な発掘調査資料をもとに、令和2年(2020)4月1日に完成した八ッ場ダム(堤高116m)の湖畔に令和3年(2021)4月3日に「長野原町 やんば天明泥流ミュージアム」が開館しました。古澤勝幸館長とは、群馬県立歴史博物館で平成7年(1995)の第52回企画展『天明の浅間焼け』(図録,91p.)以来の長い付き合いです。開館前の準備段階で古澤館長からのご依頼を受け、「天明泥流体感シアター」の映像編集時にアドバイスをしました。

 令和4年(2022)4月3日に開館から1周年となりましたので、4月16日(土)にミュージアムを再度訪問し、資料閲覧コーナーで文献検索を行うとともに、展示などを閲覧しました。
 写真1は令和4年(2022)4月16日に撮影したやんば天明泥流ミュージアムと水没地区から移築された長野原町立第一小学校旧校舎、写真2は八ッ場あがつま湖の不動大橋からみた湖水とやんば天明泥流ミュージアムです。
 ここでは、平成28年(2016)以降に調査したことも踏まえて説明したいと思います。
写真1 やんば天明泥流ミュージアムと長野原町立第一小学校旧校舎(移転) 写真2 不動大橋からみたやんば天明泥流M
写真1 やんば天明泥流ミュージアムと
長野原町立第一小学校旧校舎(移転)
写真2 不動大橋からみたやんば天明泥流M
2022年4月16日井上撮影


2.国立歴史民俗博物館の企画展示「ドキュメント災害史1703-2003」
 千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館では、開館20周年記念展示として、平成15年(2003)7月8日〜9月21日に「ドキュメント災害史1703-2003―地震・噴火・津波,そして復興―」という企画展示が開催されました。

 この企画展示は、災害史研究者の北原糸子氏が、災害史に関心のある自然科学者と歴史科学者を集めて共同研究を組織し、応募・採用されたもので、2001年度には共同研究(22名)、2002年度には展示プロジェクト委員会(27名)を組織し、展示予定の災害の現場を調査しながら、展示内容を議論し決めていきました。私はこれらの委員として、①富士山宝永噴火、②雲仙普賢岳の寛政噴火と島原大変肥後迷惑、③浅間山の天明噴火、を共同担当しました。これらの委員会で、荒牧先生や北原先生など、自然科学と歴史科学の多くの研究者と議論させて頂きました。
 歴博の企画展示をご覧になった方もおられると思いますが、この展示で説明した浅間山の天明噴火の土砂移動と被災状況について説明します。


3.浅間山天明噴火の概要
 浅間山(標高2568m)の天明三年(1783)の大噴火は、古文書や絵図に噴火や被害の状況が詳しく記載されています。萩原進先生(1913〜1997)は、浅間山の天明噴火に関する史料を60年間にわたり収集・整理して、『浅間山天明噴火史料集成』(T,1985,U,1986,V,1989,W,1993,X,1995)を発行されました(井上,1992;石原,2018;古澤,2018)。史料集成の各文献の後にはわかりやすい解説がついており、文献の形成過程や前後関係が説明されています。私は萩原先生のご自宅(前橋市)を何度も訪ね、史料の内容をお聞きしました(井上,2018b)。史料の解釈にあたっては、書かれた日付と作者の居住地が明確な史料を重視し、居住地付近の記載は信憑性が高いと判断しました。

 表1に示したように、天明噴火の最後の七月八日(8月5日)に生起した火山現象の解釈や名称は研究者によってまちまちで、混乱したままとなっています。鎌原土石なだれ堆積物には本質岩塊が5%程度しかありませんでした(松島,1991)。井上ほか(1994)は、浅間山北麓の火山体を構成していた常温の土砂が大部分を占めるため、従来言われていた高温の火砕流や二次粉体流・岩屑流ではなく、「鎌原土石なだれ」と呼ぶことにしました(井上2004,2009a,2016a)。

表1 鎌原土石なだれの名称の変遷(井上,2004,2009に追記)

表1 鎌原土石なだれの名称の変遷(井上,2004,2009を一部修正))
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 荒牧先生とは、国立歴史民俗博物館の企画展示の委員会でも多くの議論をさせて頂きました。新井房夫編(1993)『火山灰考古学』(古今書院)の中で、荒牧先生は「4 浅間天明噴火の推移と問題点(p.83-110)」と題して、浅間山の天明噴火の推移についてかなり詳しく説明されました。その頃、井上素子(1996,1998MS)、安井・荒牧(1997)、安井・小屋口(1998a,b)、井上ほか(1994)、田村・早川(1995)、早川(1995)、田中(1999)、安井・小屋口・荒牧(1997)など、色々な論文が発表されました。

 荒牧先生は、『火山灰考古学』の第4刷発行(2001年5月)に際して、p.110に「第4刷発行に際してのメモ」を追加され、上記の論文に関するメモを残されています。 関心のある方は、ご一読されることをお勧めします。
 天明三年(1783)の大噴火は、四月八日(5月8日)に始まり、連日のように多量の降下軽石(浅間A軽石)を噴出し、関東地方に重大な社会的混乱を引き起こしました(荒牧,1968,1981)。噴火の最末期の七月七日(8月4日)に吾妻火砕流、七月八日(8月5日)には鎌原土石なだれと鬼押出し溶岩流が噴出しました(図1,図2)。鎌原土石なだれは、浅間山北麓の鎌原村(高台にあった観音堂を除いて)を埋没させた後、吾妻川に流入して、天明泥流となり、吾妻川や利根川沿いに激甚な災害を引き起こしました。これらの一連の土砂移動現象は、100km以上も下流まで流下しており、浅間山で発生した他の噴火現象とは大きく異なっています。

 図1は、天明三年浅間山噴火に伴う堆積物と災害の分布を示したものです。大小ので示した死者・行方不明者数は、群馬県立歴史博物館(1995)の第52回企画展『天明の浅間焼け』で、古澤(1997)が取りまとめた1523人という数値を当時の村毎(現在のほぼ大字毎)に示し、分布図としたものです。この死者数は、気象庁(1991,2005)の1151人よりかなり多くなっています。

図1 天明三年(1783)浅間山の噴火状況を示す立体地形図(井上,2009a)
図1 天明三年(1783)浅間山噴火に伴う堆積物と犠牲者の分布(古澤(1997)をもとに作成;国土交通省利根川水系砂防事務所,2004;井上,2004)
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図2 天明三年(1783)浅間山の噴火状況を示す立体地形図(井上,2009a)
図2 天明三年(1783)浅間山の噴火状況を示す立体図
(国土交通省利根川水系砂防事務所,2004;井上,2009aに追記)

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 図3は、大浦(2006)などをもとに作成した利根川中・下流,江戸川沿いの天明災害供養碑の分布です(井上,2009a,2016a)。天明泥流は吾妻川から利根川を流下し、利根川河口(銚子)と千葉県関宿付近で分流し、江戸川河口まで達しました。
図3 利根川中・下流,江戸川沿いの天明災害供養碑の分布(井上,2009a,2016a)大浦(2006)をもとに修正・追記
図3 利根川中・下流,江戸川沿いの天明災害供養碑の分布(井上,2009a,2016a;大浦,2006をもとに修正・追記)
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4.鎌原土石なだれの分布状態
 図1,図2に示したように、鎌原土石なだれは天明噴火の最後に山頂から噴出した鬼押出し溶岩流に覆われ、上流部の分布範囲はよくわかりません。平成5年(1993)にオープンした「長野原町営浅間火山博物館」は令和3年(2021)に閉館しましたが、鬼押出し溶岩流の遊歩道は今でも散策できます。鬼押出し溶岩流の遊歩道付近には、直径700mの半円形の凹地が存在します。遊歩道は半円形の急斜面に沿って降りていきます。図1や図2に示したように、鎌原土石なだれはこの凹地から北方向の下流に30度の範囲にしか分布していません。このような分布は山頂噴火では考えにくく、凹地から噴出したことを想起させます。土石なだれの中には高温のマグマが冷えて固まった巨大な本質岩塊(当時の史料では火石と呼ばれる真っ黒な溶岩で、通称浅間石と呼ばれている)が数多く存在します。

 昭和53年(1978)より行われた鎌原観音堂(写真3)などの発掘調査(嬬恋村教育委員会,1981;嬬恋郷土資料館,2021)によれば、鎌原観音堂下の階段は地上部分が15段(2.5m)、その下に35段(5.9m)の埋没階段(全50段,8.4m)があり、鎌原土石なだれの堆積物で覆われていました。埋没階段の一番下から2人の女性の遺体が見つかりましたが、2人の遺体は原型をとどめていました。このため、この地点に到達した鎌原土石なだれは台地状の尾根部を回り込んで観音堂の階段方向に逆流し、流速はほぼ0m/秒で徐々に堆積したと考えられます。少しでも流速があれば、2人の遺体は原型をとどめずに、階段の最下段部に残ることはなかったでしょう。鎌原土石なだれが雲仙(1991年噴火)のような高温の火砕流だったとしたら、観音堂に集まって祈祷していた住民は全員死亡していたと思います。

 図4は、浅間山北麓の鎌原土石なだれ分布域の調査地点図で、荒牧ほか(1986)や井上ほか(1994)が実施したテストピットや調査ボーリングの位置を示しています。また、井上ほか(1994)が調査した径5m以上の本質岩塊の分布を示しています。延命寺の敷地内で掘削したテストピット(写真4)内の建屋の木材や生活用品はほとんど炭化していませんでした(鎌原にある嬬恋郷土資料館で展示されています)。堆積物の中には高温だった本質岩塊(浅間石)は5%程度しかありませんでした(松島,1991)。
写真3 鎌原観音堂(正面の石段は15段,その下に35段が埋もれている) 写真4 延命寺の発掘調査(延命寺の建屋の木材,生活用品は炭化していない)
写真3 鎌原観音堂
(正面の石段は15段,その下に35段が埋もれている)
写真4 延命寺の発掘調査
(延命寺の建屋の木材,生活用品は炭化していない)
(1990年10月,井上撮影)

図4 浅間山北麓の鎌原土石なだれ分布域の調査地点図(井上ほか,1994;井上,1995,2004,2009a)
図4 浅間山北麓の鎌原土石なだれ分布域の調査地点図(井上ほか,1994;井上,1995,2004,2009a)
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 図4によれば、鎌原土石なだれの分布範囲(18.1km2)には、巨大な本質岩塊(高温のマグマが噴出したもの)が点在します。高温の溶岩は磁性がばらついていますが、流下して停止した地点で次第に温度が下がると、その地点の磁北方向に磁性がそろって固定されます。この温度をキュリー温度(400〜500度C)と呼びます。流されてきた岩塊の磁性を測定(山田ほか,1993a,b;井上ほか,1994)しました。磁性が北方向にそろっていれば、高温の状態で流れてきたと推定されます。本質岩塊(浅間石)の測定結果によれば、吾妻川を流下し、70km離れた利根川との合流点・渋川付近まで、磁性が北方向にそろっており、キュリー温度以上の高温状態で流下し、停止した地点で次第に常温になったことがわかりました。

 浅間山北麓の鎌原土石なだれの分布範囲には、長径5m以上の本質岩塊が194万m3存在しました(山田ほか,1993a;井上,2009a)。天明泥流になって流下した分を含めると、720〜1060万m3の本質岩塊が地下から噴出しました。鎌原土石なだれ堆積物は、浅間山北麓に平均層厚2.2m,4700万m3堆積し、天明泥流となって流下した分を含めると、総堆積量は1億m3にも達したと推定されます。


5.鎌原土石なだれの噴出場所
 図5は、萩原進先生のご自宅にお邪魔してお話を聞いている時に頂いた絵図で、美濃部明夫氏所蔵の『浅間山嶺吾妻川村々絵図』を萩原先生が模写したものです。浅間山の噴火絵図ですが、浅間山の中腹に柳井と書かれた青色の沼が描かれています。柳井沼(凹地)はその上を鬼押出し溶岩流が流下して堆積したため、溶岩流によって埋没したと考えられます。

図5 浅間山吾妻川村々絵図(美濃部明夫氏所蔵,萩原進氏模写)
図5 浅間山吾妻川村々絵図(美濃部明夫氏所蔵,萩原進氏模写)
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 飯島栄一郎氏所蔵の『吾妻川筋被害絵図』(いさぼうネットのコラム18の図5参照)によれば、柳井沼があったと想定される浅間山の中腹から水蒸気爆発を起こし、鎌原土石なだれとなって浅間山麓を襲いました。その後、浅間山北麓から吾妻川になだれ落ち、天明泥流となって中之条から渋川付近まで流下した状況が表現されています。

 『鎌原村復興絵図』(嬬恋村佐藤次熙氏所有,嬬恋郷土資料館蔵(2022)に絵図が紹介されている)によれば、天明噴火前の浅間山北麓の半円形凹地には、柳井沼と呼ばれる湖沼が天明噴火前から存在して、周辺にはかつら井戸・用水などと呼ばれる遊水池や沼地がありました。現在でも鬼押出しの末端部付近は湧水が多く、湿地状(鎌原村の水源地)となっています。また、鎌原付近の地質調査では、ボーリング調査だけでなく、テストピットを掘って堆積状況を調査しました(荒牧,1981;山田ほか,1993a;井上ほか,1994)。

 図6に示したように、浅間山の北麓の浅間火山博物館付近は鬼押出し溶岩流に覆われていますが、直径700mの半円形凹地が認められます。このため、山田ほか(1993a)では、凹地の中心付近で調査ボーリング(深さ72.8m,掘削直後の水位は30m)を実施しました。図7に示したように、地表から64.8mもの厚さで鬼出し溶岩が存在しました。この溶岩を取り除くと、深い凹地となるので、噴火前に存在した柳井沼はこの付近にあったと判断されます。

 史料によれば、鎌原土石なだれ発生の1〜2週間前から、柳井沼付近では泥の吹き出しがあったようです。噴火直後に江戸幕府は、幕府勘定吟味役の根岸九郎左衛門(1737〜1815)に被害調査を命じました。根岸は噴火から50日後の八月二十八日(9月24日)に江戸を発って、詳細な現地調査を行いました。そして、村毎の被害記録をまとめ、『浅間山焼に付見聞覚書』(萩原,1986:U,p.332-348.)を幕府に報告しています。根岸はこの中で、
「・・・・一.此度浅間山焼にて、右の通泥石等吾妻川并に利根川え押開候儀何れより涌出候哉の段、右起立の儀承糺候得共、浅間絶頂に有之俗に御鉢と唱へ候所より涌こほれ候儀にも可有御座、又は中ふくより吹破候とも申候。何れとも取〆り候儀も無之、浅間最寄の者に承り候ても聢と仕候儀も不相分、其砌命を失ひ不申様取急キ候て逃退候を専一に存、悉く見留め不申段申之者多く、此段全く実事と相聞候。・・・・」と、山頂から噴火したという者と中腹から噴き出したという者がいて、決められなかったと記しています。幕府直轄領の激甚地域での幕府直轄工事は、十月(11月)から始められ、根岸は工事の総支配役として現地で直接指揮しました。

 当時から、山頂噴火と中腹噴火を示す絵図や史料が多く存在します。このため、山田ほか(1993a)、井上ほか(1994)や国立歴史民俗博物館(2003)では、
① 山頂からの噴出物質が柳井沼に流入し、柳井沼周辺の水や土石と一緒になって流下した。
② 中腹の凹地(柳井沼)から側噴火し、柳井沼周辺の水や土石と一緒になって流下した。
という2通りの考えを提案しました。

 その後、田村・早川(1995)、早川(2007,2010a,b,c)は、「鎌原」は前日から流れ始めていた鬼押出し溶岩流が柳井沼付近に達した時に火山性地震によって岩なだれを起こし、急激な減圧を生じて「熱雲」を発生させたとしました。

図6 浅間山北麓のボーリング地点 図7 浅間山北麓の地質推定断面図(井上,2004)
図7 浅間山北麓の地質推定断面図
(国土交通省利根川水系砂防事務所,2004;井上,2004)

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図6 浅間山北麓のボーリング地点
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 井上素子(1996,1998MS,2002,2006)は、鬼押出し溶岩流について、詳細な地形・地質調査を行いました。その結果、溶岩流の表層十数mは観察しうるかぎり火砕物であり、溶岩流の表層部には、赤色に酸化した部分と黒色の酸化していない部分、多孔質部と緻密部からなる不明瞭な成層構造が認められました。そして上部ほど多孔質で、下部に行くにつれて溶結度が増して緻密になっていくとしました。緻密な部分も赤色酸化部と非酸化部の成層構造が認められることから、この部分はスパター(粘性の低いマグマが爆発的噴火時に放出した可能性を持つ溶岩片)が圧密により溶結したもの、つまりアグルチネイトであると考えました。なお、このような状態で溶岩のように流下したものは、火砕成溶岩(高橋,2003)と呼ばれています。安井・小屋口(1998a,b),安井(2004)は、鬼押出し溶岩流は釜山の主体部と連結しており、火砕丘が何回も崩壊して、斜面を流動した形態だと判断しました。

 このような火砕成溶岩は、天明噴火のプリニー式噴火最末期に形成されたもので、8月4日に吾妻火砕流が噴出しています。また、鬼押出し溶岩流はフローユニット1〜3に分けられます(井上素子,1998MS,2002,06)。フローユニット1の上にユニット2が存在し、最後にユニット3が北東方向に流出しました。鎌原土石なだれの上にはユニット2しか存在しません。


6.鎌原土石なだれの噴火・流下・堆積機構
 表2は、萩原(1985,86,89,93,95)『浅間山天明噴火史料集成』(T〜X)などをもとに、鎌原土石なだれに関する史料・絵図の記載とその解釈について説明したものです。
表2 鎌原土石なだれに関する絵図・史料の記載とその解釈(井上,2004,2009a)
表2 鎌原土石なだれに関する絵図・史料の記載とその解釈(井上,2004,2009a)

 No.6によれば、「仰信州浅間ヶ嶽は、持統天皇九年四月(695年5月)役行者(えんのぎょうじゃ)始めて当山(浅間山)を開き給ふ・・・東北の方に柳の葉に似たる井有。即柳の井と号(なずけ)給ふ。」(V,p.269)と記されています。役行者(634-701)は最初に浅間山に登った人とされています。

 No.7によれば、役行者は浅間山山頂から北方向を見て、「東北の山中柳の井有り、是に毒蛇水を吐く、是毒水なり」(V,p.61)と記されています。このことから、天仁元年(1108)の噴火前から柳井沼は存在し、追分火砕流の噴出でも埋積されなかったことになります。硫黄や温泉の噴き出しがあったことから、爆裂火口であった可能性を示唆します。

 No.9では、「・・・七月初瀧原ノ者草刈ニ出テ谷地を見候ヘハ谷地之泥二間斗(3.6m)湧き上がり候、是ヲ見テ畏レ早速家財ヲ被仕廻立退候。瀧原ト鎌原之内ニテ谷地ニ近キ東ノ方ナリ。十四五軒モ有ル所也。然ル所七月八日昼四ツ前夥敷焼上リ火石ヲ吹飛シ谷地ニ落入谷地之泥湧キ上リ松林ヲ抜キ鎌原ヘ押懸ケ町中二百軒斗一軒モ不残押抜候。横町ノ者後ノ山ヘ六十人斗リ逃上リ候ヘ共竪町ノ者ハ僅ニ五人助リ候也。」(V,p.141)

 No.10では、「神原の用水は浅間の腰より来る。七月七日晩流一円来す。村の長たる者不思議成事かな源を見んと八日(8月5日)の未明見に趣しに泥湧出つる事山の如し。見と斉しく飛鳥の如く立帰り村へ来ると大音に、大変有家財も捨て逃げよ逃げよと呼りて我家へ帰り、取る物とりあえずあたり(近)辺を引連て高き山へ遁れて命恙なし。」(U,p.201)

 天明噴火以前から柳井沼付近で噴気が上がっていました。鎌原村では死者477人、助かったのは93人とされていますが、狭い鎌原観音堂にはそんなに入れません。七月八日(8月5日)の最大噴火の1週間ほど前から柳井沼付近では、泥が二間(3.6m)ほど湧き上がっていました。七月八日未明には、かなりの水蒸気爆発がありました。この頃には鬼押出し溶岩流のフローユニットの先端が柳井沼近くに到達していた可能性があります。

 そして、運命の七月八日四ッ半(8月5日10時頃)に鎌原土石なだれが噴出しました。田村・早川(1995)は、鬼押出しの先端部が柳井沼に到達した時に、火山性地震が起こり、鬼押出しの先端が崩れて、鎌原岩なだれが噴出したと考えました。しかし、地震による崩壊だけで、大きな水平方向への駆動力が鎌原土石なだれに与えられるとは考えにくいと思います。筆者らは、島原の眉山(1792,「コラム7」で説明)や磐梯山(1888)、セントへレンズ山(1981)の噴火のように、かなり大規模な水蒸気爆発が中腹の柳井凹地から北方向に発生したと考えました。その時に火山性地震もあった可能性があります。

 ほぼ同じころ、鬼押出しの本質岩塊(1000万m3)は柳井沼に到達し、柳井沼で水蒸気爆発を起こし、一気に北方向へ流下しました(図4参照)。そして、中腹の凹地(山頂から4.6km)から6km区間(山頂から11km)は北麓を構成していた土石を侵食して、次第に体積を増大させ、ピーク時には1億m3にも達しました。それより下流では、鎌原土石なだれは侵食できなくなり、しだいに堆積するようになりました(浅間北麓での堆積量4700万m3)。そして、群馬県嬬恋村教育委員会(1981)のボーリング調査によれば、鎌原土石なだれは鎌原観音堂を残して、延命寺と鎌原集落を襲い、ほとんど埋めてしまいました(推定厚さ2.0〜6.5m,嬬恋郷土資料館,2021,2022)。

 2週間前から柳井沼付近で小規模な水蒸気爆発が発生してしており、鎌原ブラスト堆積物が堆積しました(田村・早川,1995;早川,1995;早川,2007)。田中・安井・荒牧(2017)では、半円形凹地(柳井沼)を中心に、鎌原ブラスト堆積物が存在することを把握しています。小菅・井上(2007)は、図8に示したような仮説を考えました。火砕成溶岩(鬼押出し溶岩流)が柳井沼に流入して、柳井沼を覆いつくした時に、地すべり地頭部に上載荷重が付加したことになり、地すべりが再活動はじめました。これを契機に高温の鬼押出し溶岩と柳井沼の水が接触して、水蒸気爆発を起こし、地すべり土塊に強力な運動エネルギーが付加されて、鎌原土石なだれとなって、北方向に高速で流下したと考えました。
図8 鎌原土石なだれの発生機構の想定(小菅・井上,2007)
図8 鎌原土石なだれの発生機構の想定(小菅・井上,2007)

 表2.No.11の大武山義珍『浅間焼出大変記』(U,230.)によれば、「七月八日四ツ時分(8月5日10時頃)・・・第壱番目の水崎(先)ニくろ鬼と見得し物大地をうこかし、家の囲ひ、森其外何百年共なく年をへたる老木みな押くじき、砂音つなみ土を掃立、しんとふ雷電す。第弐の泥火石を百丈(300m)高く打あけ、青竜くれないの舌をまき、両眼日月のことし。一時斗闇夜ニして火石之光りいかづち百万ひゞき、天地崩るゝことく、火焔之ほのふそらをつきぬくはかり。田畑高面之場所不残たゞ一面之泥海之如し、何れの畑境(さかい)か是をしらんや。老若男女流死・・・」と記されています。 
 1番目の流れは地すべり移動土塊を主体とする土石なだれ、2番目の流れは柳井沼に流入した高温の鬼押出し溶岩流の巨大な岩塊を含む土石なだれと考えられます。柳井沼が地すべり地頭部に形成された沼であるとすると、その陥没帯付近は地下水で十分飽和していたと判断できます。鬼押出し溶岩流の先端部付近は現在でも湧水が多く、嬬恋村の水源地となっています。したがって、浅間山北麓の地すべり地周辺には、鎌原土石なだれ、天明泥流となるのに十分な水量が確保されていたと考えられます。
 嬬恋郷土資料館(2022)で関俊明は、鎌原村を襲った土石なだれは、火山噴火がきっかけとなって大規模に起きた地すべりによるものと考えました。
 鎌原土石なだれ発生のメカニズムについては、検討すべき点が多く残されています。
 今まで説明した史料などの共通点は、噴火前に存在したとされる浅間山中腹部の半円形凹地(柳井沼)付近で、特異な現象が発生したということです。


7.鎌原土石なだれから天明泥流への変化
 図4に示したように、浅間山から高速で北麓を流下してきた鎌原土石なだれは、浅間山北麓の吾妻川右岸側の急斜面からなだれ落ちました。そして、そこにとどまることなく(この地点では天然ダムを形成せず)、すぐに天明泥流となって、吾妻川から利根川を流下し、千葉県の銚子で太平洋に達しました。一部は千葉県関宿付近から分流して江戸川に流入し、江戸(東京湾)まで達しました(図3参照)。天明泥流に関する史料や絵図は非常に多く、克明な流下・堆積状況がわかってきました。また、群馬県埋蔵文化財調査事業団などは、群馬県下一円、とくに八ッ場ダムの建設工事周辺の発掘調査を行い、天明噴火による降下火砕物と天明泥流の流下・堆積状況を明らかにしました。これらの発掘調査の結果は、八ッ場ダムの湛水湖畔に建設された「長野原町やんば天明泥流ミュージアム」(2021)で、わかりやすく展示されています。

 図1に示したように、鎌原土石なだれは鎌原村(死者477人)を襲っただけでなく、吾妻川に流入して天明泥流と変化し、吾妻川の沿岸の集落を襲いながら、1000人以上の死者を出しました。表3は、関(2006)をもとに天明泥流の流下時刻の記述について、一覧表としたものです。上流から順に、萩原(1985〜1995,T〜X)が収集した史料の記述内容をもとに、天明泥流の流下・堆積時刻を整理しました。史料の解釈にあたっては、災害直後に書かれたもの、作者が住んでいた地域の情報は信憑性が高いと判断し、天明泥流の水位を推定しました。吾妻川を流下した天明泥流の目撃談は非常に多く残されています。吾妻川より高い段丘面にいた人々は助かり、見たこともない黒い流れが多くの火石(本質岩塊)や人家・流木、流死体などを含みながら流れていった様子を驚きの目で見ています。

表3 天明泥流の流下時間の記述(関,2006)に修正・追記(井上,2009a)
表3 天明泥流の流下時間の記述(関,2006)に修正・追記(井上,2009a)
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 上野国吾妻郡大笹村・無量院住職の『浅間山大変覚書』(U,p.48-49)は、鎌原村の人々の様子を詳しく記しています。鎌原土石なだれは、「・・・大方の様子は浅間湧出時の根頻りにひっしほひっしほと鳴りわちわちと言より黒煙り一さんに鎌原の方へおし、谷々川々皆々黒けむり一面立よふすしれかたし。」と鎌原村方向へ押し流れました。

 鎌原土石なだれが吾妻川になだれ落ちた方向は、図4で⇒で示したように、3方向に分かれていました。上野国新田郡世良田村(現太田市)の毛呂義卿は、『砂降候以後之記録』(V,p.141-142)で、川原湯(浅間山山頂から29.8km,現在は八ッ場ダムの貯水池の湖底)の不動院の話として、「夫(それ)より泥三筋ニ分レ、北西ノ方ヘ西窪ヲ押抜ケ、是ヨリ逆水(ぎゃくすい)ニテ大前高ウシ両村ヲ押抜ケ、中ノ筋ハ羽尾村ヘ押カケ、北東ノ方ハ小宿村ヲ押抜ク。羽尾小宿の間ニテ芦生田抜ル。高ウシハ七八軒抜ル由。夫ヨリ坪井村長野原村不残押抜ク。」と記しています。
図9 旧版地形図に記録された富田川上流の大規模な崩
図9 吾妻川と利根川の河床縦断面図と天明泥流の流下水位(嬬恋村万座鹿沢口〜伊勢崎市八斗島)
  (山田ほか,1993b;国土交通省利根川水系砂防事務所,2004,井上,2009a)
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 図9は、史料や絵図、発掘調査などをもとに、天明泥流の到達時間や水位を整理したものです。番号1〜38の地点は、図1に示したように天明泥流の発生地点である嬬恋村万座鹿沢付近(山頂から10.2km)から伊勢崎市八斗島町(106.0km)に至るまでの96km区間に位置しています。

 泥流の到達範囲と流下断面からマニング則(土木学会水理委員会,1985)によって、想定水位・流量・流速・流下時間を計算しました(山田ほか,1993b;井上,2009a)。
 マニング公式によれば、
  流速 V=1/n×R2/3×I1/2(m/s)
  流量 Q=A×V(m3/s)
の関係があります(水深H,断面積A(川の流下断面から求めた),潤辺L,粗度係数n,径深R=A/L)。粗度係数は河道の抵抗を示す係数で、河道の形状並びに河岸や河床の抵抗物によって左右されます。天明泥流流下時の粗度係数は、泥流が巨大な岩塊や流木・人家などを多く含んでいるため、かなり大きいと判断し、粗度の大きな自然河川で良く用いられるn=0.05と仮定しました。後述する八ツ場(図9の断面9,山頂から31.4km)では、水深60〜70mの塞き上げ現象があった想定として、流下断面を求めました。

 山頂から10〜30km区間では、ピーク時の水深40〜50m、流速16.8〜22.8km,流量14〜26.5万m3でした。とくに、長野原(図8の断面No.5,山頂から21.5km)では、想定水位が55mにも達しました。吾妻川沿いの段丘面上に存在した長野原村は完全に天明泥流に覆われ、200名にも達する人が流死しました。


8.吾妻川沿いの天明泥流と土砂災害
 図10は、群馬県埋蔵文化財調査事業団の報告書や現地調査の結果をもとに、長野原から吾妻渓谷間で天明泥流に覆われた遺跡と天明泥流の到達範囲を示しています。この地域は八ッ場ダムが令和2年(2020)4月に運用を開始し、堤高116m,総貯水容量1億750万m3八ッ場吾妻湖が水を湛えています。このため、天明泥流の遺跡の多くは水没しました(八ッ場ダム建設地点はNo.9測線付近、常時満水位583.0m)。

図10 天明泥流に覆われた遺跡と泥流の到達範囲(長野原から吾妻渓谷)
(群馬県埋蔵文化財調査事業団の報告書などをもとに作成;井上,2009a)
図10 天明泥流に覆われた遺跡と泥流の到達範囲(長野原から吾妻渓谷)
(群馬県埋蔵文化財調査事業団の報告書などをもとに作成;井上,
国土交通省利根川水系砂防事務所,2004;井上,2009a)

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地点② 新井村の共同墓地(No.5測線付近,山頂から21.5km,天明泥流到達まで14分)
 吾妻川に注ぐ熊川沿いにあった新井村(長野原町与喜屋)は、村のほとんどが天明泥流に埋まりました(関,2006,2007)。昭和55年(1980)のグランド造成工事中に生活用具などの一部が発見されていますが、新井村については詳しい記録はありませんでした。高台に残された共同墓地に「逆水寛浣信女天明三年七月八日」と刻む墓があり、犠牲者の戒名として「逆水」の文字が刻まれています。付近では北流する熊川に沿って、吾妻川との合流点から500mほど上流右岸の与喜屋養蚕神社に、幹の途中まで泥流に埋まっても臥竜のようになって、明治末期まで開花していた天明桜が存在していました。写真や伝承によって、標高650m(吾妻川の現河床から50m)の高さまで、天明泥流が到達した地形を現在でも確認できます。

地点③ 長野原・雲林寺(山頂から22.0km)
 近江国神崎郡山上村・端庄兵衛の『浅間山焼見聞記』(W,p.242〜246.)は、吾妻川左岸の長野原の状況を記しています。この史料は、近世商人が上州出店に際して書き留めた歳代記です(関,2006,2007)。高崎付近の降灰の堆積状況や、河岸段丘の上にある長野原の旧街並みが天明泥流によって埋め尽くされた状況が見事に表現されています。記載されている寺院は文化十年(1813)に再興された雲林寺で、昭和2年(1927)の警察署の建設工事中に当時の生活用品がみつかりました。近年の下水道工事などでも、石塔や石垣が見つかるなど、当時の長野原の街並や人々の暮らしがそのままの姿で埋もれていました。

地点④ 長野原・琴橋(No.6測線付近,山頂から23.0km,同15分)
 上野国吾妻郡草津村・山口魚柵の『浅間焼出山津波大変記』(U,p.109)も、長野原の状況を詳しく記しています。長野原では2.4〜3.0mも泥流で埋まり、9〜16mもある浅間石(火石)の多くが流れ着き、浅間石は高温で燃え上がっていました。このため、吾妻川は高温の状態となり、鳥でなければ、対岸に渡ることができませんでした。琴橋(山頂から23.3km,吾妻川にかかる)と須川橋(同23.4km,須川(白砂川)にかかる)は、江戸幕府が建設・修繕を行う主要街道の橋でした。しかし、天明泥流によって2つの橋とも流失しました。このため、矢に手紙を結んで連絡を取り合いましたが、吾妻川の川幅が広いため、対岸まで届くことは少なかったようです。竹で筏を作り、矢文を取りに行ったと記されています。

地点⑤ 久々戸遺跡(山頂から24.0m)
 久々戸遺跡は八ッ場ダム建設工事に伴って、平成7年(1995)9〜12月に発掘されました。天明噴火に伴うAs-A軽石と、天明泥流によって埋没した畑の遺構が見つかりました。石垣・堀立柱建物などの遺構や陶磁器・古銭・キセルなどの遺物、稲・ムギ・アワ・ヒエなどの植物遺体が検出されました。当時の農作業の方法やAs-Aの降灰直後に培土を行っており、降灰に対して人々が行った対策が明らかになりました(関・諸田,1999)。
 久々戸遺跡は吾妻川の河谷が広くなって、両岸にやや広い段丘面(標高585〜615m)のある地区に存在します。吾妻川の河床は標高560mであるので、天明泥流の想定水位は50mを越えます。発掘面積1万m2の大部分が天明泥流に覆われていました。厚さ2mの泥流堆積物が残存しており、直径3mを越すような大岩が点在していました。等高線に並行して長野原から琴橋に向かう「草津道」が通っていました。

地点⑥ 中棚U遺跡(長野原町林,山頂から26km付近)
 中棚U遺跡は吾妻川左岸の南西傾斜地に立地しており、標高は543〜565mです。調査区内では天明泥流堆積物の下に畑2ヶ所、ヤックラ(不要石の片付け場所)3ヶ所、石垣2ヶ所の遺構を確認しました。これは泥流の流下後散在する石を片付けて、農地を復旧させようとした農民たちの努力の表れです。また、図10内の写真に示したように、逆級化を示す砂層が、吾妻川左岸の河床より約8m高い場所で見つかりました(伊勢屋,2003)。

地点⑦ 横壁中村遺跡(長野原町横壁,山頂から27km付近)
 吾妻川右岸の横壁中村遺跡は、北縁が吾妻川河床との比高が30mにも達する急崖となっています。標高は570m前後で、吾妻川に向かって緩く傾斜しています。本遺跡では「西側の一段低くなった沢部分で昭和30年代に造成された水田の下から天明泥流に覆われた畑が検出された」ので、天明泥流の流下範囲(高さ)を決定する上で貴重な根拠となりました。ただし、泥流堆積物は薄く、到達水位を明確に確認できませんでした。『横壁区有文書』には、「天明三年十一月卯年御年年貢可納割付之事 田方四斗七升六合、畑方十三石二斗八升、当方火石入引」と被害石高が記載されています。

地点⑧ 河原湯・不動院(山頂から29.3km)
 前述の毛呂義卿は、『砂降候以降之記録』(V,p.142)で、不動院住職の話として、逃げ延びた様子を記しています。この地点では天明泥流は上流から流下してきたのではなく、下の阿闍梨ヶ渕から人間が何とか逃げ延びることができる程度の速度で徐々に水位が上昇してきました。現在はダム湖で水没していますが、上湯原の観音堂(標高552m,不動院の別院として建立)がありました。観音堂にむかう石段の下に不動院がありました(八ッ場ダム湖湛水前は礎石だけが残っていました)。不動院住職は連日続く火山性の地震で気持ちが悪く寝ていましたが、天明泥流が増水してくる音に驚いて飛び起き、階段を走り登り、観音堂を通りすぎると観音堂は泥流に押し倒されたので、石段を登り築地の上まで逃げると、二間(3.6m)下まで泥流が到達しましたが、逃げ延びることができたと記録されています(長野原町やんば天明泥流ミュージ アム,2021)。

地点⑨ 長野原町・上湯原(山頂から29.5km)
 上野国甘楽郡宇田村・横田茂秀『浅間焼見聞実記』(V,p.294)は、「上湯原にて家内四人なりしが亭主は畑へ出しあとにて泥押来りけるに三人の者土蔵へ籠りけるに、頓て土蔵の下へ水つきし故二階へ上りけるに亭主立帰り見るに家内者居んず、尋(たずね)呼ければ土蔵の窓より顔を出し是に是にといふ。蔵は外より地形低き所なりしが忽(たちまち)水勢にて前へ押出し、高きままへおし寄せ土蔵は壁われし故上より手をとりてたすけ出しければ間もなく泥水大きに押来り前なる欠け(崖)へおし落しながれける。」と記しています。

地点⑩ 長野原町・三ツ堂(山頂から30.2km)
 吾妻川右岸にある三ツ堂は、三原三十四番札所の第三十一番でした(図9内の写真)。「浅間押しの時には吾妻川の耶馬渓(峡谷で関東の耶馬渓と呼ぶ)に水がつっかえて、三ツ堂の石段(19段)の下から3段目のところまで水がのった」という伝承があります。ここには「天明三卯年七月八日」と刻まれている馬頭観音像がありました。この地点の標高は548mで吾妻川の河床標高は491mであるので、泥流の水位は57mにも達しました(関,2003)。

地点⑪ 長野原横屋・猿橋(山頂から32.2km,No.9測線より0.8m下流,同22分後)
 この地点は関東の耶馬渓とも呼ばれる吾妻渓谷で、八ッ場ダム建設前の国道145号(標高505m)は吾妻川の河床(標高445〜460m)より、高さ45〜60mの地点を通過しています。猿橋(鹿飛橋,写真5,現河床より30m上)は旧国道145号より10m下にあります。
写真5 吾妻渓谷の鹿飛橋(長さ15.5m,水面までの高さ,22m 写真6 鹿飛橋から見た吾妻渓谷上流部
写真5 吾妻渓谷の鹿飛橋
(長さ15.5m,水面までの高さ,22m
写真6 鹿飛橋から見た吾妻渓谷上流部
(2012年8月,井上撮影)

 この地点は、八ッ場ダムの直下流の渓谷で、いちじるしく曲流しており、長野原町と東吾妻町との境をなす尾根部が天明泥流の流れをさえぎるように存在します。このため、泥流内にあった巨大な岩塊や流木の嚙み合わせによって、次々と塞き上げられました(写真6)。図9に示したように、湛水高60〜70mの天然ダムが形成されたと考えられます。不動院住職が泥流の流下する音に気が付き、観音堂より上に逃げられたのも水位が徐々に上昇したためでした。群馬県埋蔵文化財調査事業団(1995〜2019)の発掘調査によれば、八ッ場ダムの湛水域とほぼ同じ範囲で、天明泥流に覆われた遺跡が数多く発掘されています。No.9で天明泥流の到達高さを70mとすると、ピーク流量16万m3/s、湛水量5050万m3となりました。狭窄部直下のNo.10(山頂から36.0km)での流量は4.2万m3/sとなっているので、11.8万m3/sが上流部に溜まっていき、5050万m3溜まるのに9分(515秒)かかったと考えられます。

地点⑱ 中之条町伊勢町・山田川橋(山頂から49.0km,同58分後)
 八ッ場付近の狭窄部で塞き上げられて形成された天然ダムは、水圧に耐えられなくなって、数回に分かれて決壊しました。著者は不明であるが、吾妻町(現東吾妻町)金井・片山豊慈氏蔵『天明浅間山焼見聞覚書』(U,p.157)は、中之条盆地を流下する天明泥流を克明に描いています。「四ツ時(10時)頃長野原村追通り九ツ時(12時)頃伊勢町うら追通り、そのさま大山のごとくやら数万の大木竪になり横になり、大石より火が出るやら煙か立やら、浪の高さ五丈(15m)やら拾丈(30m)やらふた目と見て見定し人もなし。一の浪二番の浪三番の浪三度押出し通り候なり。翌朝江戸行とくへ押出し死人山のごとしと云う。」と記しています。中之条町伊勢町では、高さ15〜30mの天明泥流が数万の大木や火石を取り込み、3回に分かれて流下しました。翌朝には多数の死人を巻き込み、江戸行徳(ぎょうとく)に達しました。
 上野国吾妻郡原町(現東吾妻町)の冨沢久兵衛『浅間記(浅間山津波実記)上』(U,p.121〜137)は、中之条盆地付近を流れる天明泥流の流下状況を57歳で実際に見た様子を克明に記載しています。ぜひ、原文をご覧ください。
 地点⑱より下流の吾妻川、利根川流域の天明泥流の流下状況については、拙著(2009)『噴火の土砂洪水災害―天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ―』と、いさぼうネットのコラム19をご覧ください。

 
9.むすび
 浅間山の北麓に平成5年(1993)にオープンした長野原町営浅間火山博物館は、令和3年(2021)に閉館し、令和3年(2021)4月に長野原町やんば天明泥流ミュージアムが開館しました。群馬県長野原町と嬬恋村は浅間山をジオパークにしようと活動してきましたが、浅間山北麓は平成28年(2016)9月9日に「日本ジオパーク」に正式に認定されました。国土地理院は、1:25,000火山土地条件図「浅間山」を令和4年(2022)3月に公開しました。解説書もまもなく公開されるようです。

 令和4年(2022)5月15日に長野原町住民総合センター大ホールで、長野原町やんば天明泥流ミュージアムの開館1周年記念講演会が開催され、日本大学文理学部教授の安井真也先生が、「活火山・浅間山の噴火史と謎だらけの天明噴火」と題して講演されました。私も聴講しましたが、講演参加者130名で、萩原睦男町長も冒頭にあいさつされ、大変盛り上がった講演でした。
 来年(2023)は浅間山天明噴火から240周年となり、嬬恋村郷土資料館や長野原町やんば天明泥流ミュージアムなどでは、記念行事が計画されています。
 これらによって、浅間山についての関心が高まり、天明噴火の状況が解明されて少しでも浅間山周辺の火山防災に役立てば、幸いです。


引用・参考文献
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浅間火山防災協議会(2019):浅間山火山防災マップ,群馬県,長野県,周辺6市町村(長野原町,嬬恋村,小諸市,佐久市,軽井沢町,御代田町)から発行されています。
浅間山麓埋没村落総合調査会・東京新聞編集局特別報道部編(1992):嬬恋・日本のポンペイ(最 終増補版),東京新聞出版局,183p.
浅間山真楽寺(2002):真楽寺三重塔および諸堂調査修理報告書,131p.
浅間山ハザードマップ検討委員会監修(2003):浅間山火山防災マップ2003年版―活火山浅間山を知り,火山と共生するために
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新井房夫編(1993):火山灰考古学,古今書院,p.264.,2001年5月25日に第4刷発行
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荒牧重雄(1993a):浅間火山地質図,火山地質図6,地質調査所
荒牧重雄(1993b):浅間火山の噴火の推移と問題点,新井房夫編:火山灰考古学,古今書院,p.83-110.,2001年5月25日に第4刷発行時にp.110に「第4刷発行に際してのメモ」が追加されている。
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井上公夫(2016a):コラム18 天明三年(1783)の浅間山噴火と鎌原土石なだれ,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,16p.
井上公夫(2016b):コラム19 天明三年(1783)の浅間山噴火と天明泥流,歴史的大規土砂災害地点を歩く,12p.
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群馬県土木部砂防課,中之条土木事務所(1997a):浅間山の噴火と防災―浅間山を知り,浅間山と向き合って暮らすために―,43p.(同名の広報ビデオあり)
群馬県土木部砂防課,中之条土木事務所(1997b):浅間山の噴火と防災―わたしたちの郷土(小学生版)―,20p.
群馬県埋蔵文化財調査事業団(1995-2019):遺跡は今
 1号(1995):長野原−本松遺跡,4p
 2号(1996a):長野原一本松遺跡「人々の集まる村」,4p.
 3号(1996b):横壁中村遺跡「ムラのまつりの場」,4p.
 4号(1996c):出土文化財巡回展示会特集「次々と見つかる縄文人の祈りの場」,8p.
 5号(1997):天明3年8月5日の泥流に埋まった畑,8p.
 6号(1998):横壁中村遺跡のウッドサークルと黒燿石,8p.
 7号(1999):横壁中村遺跡で見つかった大型敷石住居跡,4p.
 8号(2000a):横壁中村遺跡で見つかった中世の館,4p.
 9号(2000b):徐々に遡る長野原の歴史,4p.
 10号(2000c):発掘された天明三年畑跡の特集,8p.
 11号(2002):稲作農業が始まった頃の西吾妻,8p.
 12号(2003):上郷岡原遺跡の調査,8p.
 13号(2004):特集「長野原の縄文から弥生へ」,8p.
 14号(2006):長野原一本松発掘調査のあゆみ,8p.
 15号(2007):特集「平成18年度の成果」,8p.
 16号(2008):平成19年度の調査から,8p.
 17号(2009):平成20年度の調査から,8p.
 18号(2010):平成21年度の調査から,8p.
 19号(2011):平成22年度の調査から,4p.
 20号(2012):平成23年度の調査概要,4p.
 21号(2013):平成24年度八ッ場ダム建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査概要,4p.
 22号(2014):平成25年度八ッ場ダム建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査概要,4p.
 23号(2015):平成26年度八ッ場ダム建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査概要,4p.
 24号(2016):平成27年度八ッ場ダム建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査概要,8p.
 25号(2017):平成28年度八ッ場ダム建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査概要,8p.
 26号(2018):平成29年度八ッ場ダム建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査概要,8p.
 27号(2019):平成30年度八ッ場ダム建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査概要,8p.
群馬県埋蔵文化財調査事業団(2013):自然災害と考古学―災害・復興をぐんまの遺跡から探る―,上毛新聞社,224p.
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「ぐんまの自然と災害」編集委員会(2018):ぐんまの自然と災害―過去を解き明かし将来に備える―,上毛新聞社,195p.
小菅尉多・井上公夫(2007):鎌原土石なだれと天明泥流の発生機構に関する問題提起,平成19年度砂防学会研究発表概要集,p.486-487.
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国立歴史民俗博物館(2003):図録「ドキュメント災害史1703-2003−地震・噴火・津波,そして復興」,167p.
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 2.3 浅間山の天明噴火(井上公夫・古澤勝幸・荒牧重雄),p.83-94.
児玉幸多(1982):天明3年(1783)浅間山大噴火による埋没村落(鎌原村)の発掘調査,昭和56年度科学研究補助金(総合研究(A))研究成果報告書,学習院大学,62p.,図版,12p.
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渋川市教育委員会(2021):浅間山大噴火,泥流に流された村−江戸名主文書の世界−,展示解説図録,22p.
宗教法人回向院(1992):回向院史,223p.
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関俊明・小菅尉多・中島直樹・勢藤力(2016):1783天明泥流の記録―天明三年浅間山噴火災害・泥流の到達範囲をたどる―,みやま文庫,240p.
関俊明(2018,普及版2020):災害を語り継ぐ—複合的視点からみた天明三年浅間災害の記憶―,雄山閣,400p.
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早川由紀夫(2017):鎌原村を襲った土石なだれは、鬼押出し溶岩から発生した,鳥の目で地形や風景を見て見よう,地理,62巻8号,巻頭図p.6-7.,本文p.4-9.
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安井真也(2012):安山岩質降下軽石と溶岩流の結晶破砕度─浅間火山と桜島火山の噴出物の場合─,火山,57巻4号,p.145-158.
安井真也・高橋正樹(2015):浅間前掛火山山頂部と黒斑火山崩壊カルデラ壁に記録された火砕噴火による安山岩質溶結火砕丘の形成,火山,60巻,p.109-123.
安井真也(2017):第13講 生きた地球を探る−火山地質学の魅力,p.199-210.;日本大学文理学部編:知のスクランブル,文理的思考の挑戦,筑摩書房,筑摩新書,1239.
安井真也・高橋正樹・金丸龍夫(2019):浅間火山火車岩屑なだれ堆積物の発見―浅間家畜牧場と周辺地域の火山地質―,日本大学文理学部自然科学研究所研究紀要,54号,p.123-142.
安井真也(2022.5.15):活火山・浅間山の噴火史と謎だらけの天明噴火,開館1周年記念講演会レジメ,やんば天明泥流ミュージアム,2p.
山田孝・石川芳治・矢島重美・井上公夫・山川克己(1993a):天明の浅間山噴火に伴う北麓斜面での発生・流下・堆積実態に関する研究,新砂防,45巻6号,p.3-12.
吉田英嗣(2004):浅間火山を期限とする泥流堆積物とその関東平野北西部の地形発達に与えた影響,地理学評論,77巻p.544-562.
渡辺尚志(2018):浅間山大噴火,歴史文化ライブラリー,166,吉川弘文館,205p.

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