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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
コラム84 ユーハイムとドイツ菓子(バウムクーヘン)②
―2度の世界大戦と関東地震・阪神大水害を経験した独菓子職人―
1.はじめに
 コラム83では、ドイツ人菓子職人カール・ユーハイムが生まれてから第一次世界大戦中の捕虜生活まで、特に、広島・似島での暮らしを説明しました。コラム84では、捕虜生活解放から第二次世界大戦終了の前日(1945年8月14日)に亡くなるまでの数奇な経歴を説明し、ドイツ人菓子職人としての生き方を考えてみました。
2.東京銀座でのカフェー・ユーロップ
 ユーハイム夫妻は、大正9年(1920)1月25日昼に神戸港で再開しました。その日の夜行列車で東京に向かったと思われます。夫の宿舎になっていた鎌倉の海浜ホテルにエリーゼ母子はひとまず落ち着きました。
 カフェー・ユーロップは、東京銀座尾張新町(現、東京都中央区銀座4丁目)にありました。現在の和光ビルの裏側にあたりますが、和光ビルのある角地は大正10年(1921)当時交番となっていました。ユーロップのあるビルは、エリーゼが「マッチ箱ネ」と常に言っていたように、間口は4mしかない細長いビルでした。当時は外国人の経営する店として、最先端を行く店だけになかなか凝っていました。地上3階建で地下室もあるビルでした。地下はソーセージその他の肉類加工場で、ヘルマン・ウォルシュケの職場でした。1階の左側が階段、右側が菓子工場で、カール・ユーハイムが神わざとも言われるドイツ菓子を生み出した職場でした。2階が喫茶室で、コーヒー、ドイツ菓子、サンドウィッチ、洋酒類が出されました。カールの月給は350円と当時としては非常に高給でした(当時の大卒の初任給40円程度)。3階がカール夫妻の居室となりました。
 カールは朝早くから1階右側の製菓場で、製菓作りに汗を流すのが日課となりました。1日の菓子作りが終わる午後になると、2階の喫茶室に上がり「ナニニシマショウカ?」と物腰柔らかに客の応対をしました。大阪、広島・似島の5年間の捕虜生活で窓際に座り、発狂寸前のような暗い影をしていたことなど思い出しようもないくらい活気がありました。カールはドイツ菓子独特の味をもったデコレーションケーキを多く作りました。最も高く評価されたのは、やはりバウムクーヘンでした。
 カールは自分の店で雇った菓子職人を「ベカさん」と呼んで、親しんでいました。しかし、仕事に対してはドイツ本国でコンディーター・マスターになるまでの修行期間を再現するかのように厳格でした。ユーロップで販売された菓子やコーヒーは周辺の店に比べて高価でしたが、銀座で一番おいしいと評判になり、多くの客が訪れました。前日売れ残ったケーキ類はすべて窯に入れて焼き捨てました。前日の製品は絶対商品としない――これはカール・ユーハイムが死ぬまで一貫して守り通した主義でした。このことはその後彼が仕立てた日本人の菓子職人ベカのすべてに受け継がれました。
 ユーロップの経営はかなり順調でした。明治屋との雇用契約の3年が切れる大正11年(1922)2月が近づいてきました。横浜でレストランを出していたリンゾンという男が3年の契約が切れることを知って、自分の店を買い取ってくれと頼んできました。最初はこの申し込みを断っていましたが、カールはエリーゼと一緒に横浜の店を見に行くことにしました。横浜駅(現桜木町駅)から橋を渡って本町通りを1500m行った山下町(居留地60番地)に店はありました。中華街の東口に近く、役所や船会社、洒落た西洋の店などがある町並で、海岸に近く堀川を渡ると磯子方面へ行けました。日曜日を利用して出かけた2人でしたが、メインストリートなのに人通りはあまりなく、リンゾンの店に入る人はほとんどありませんでした。
 2人はリンゾンに店の購入を断るつもりでした。しかし、リンゾンとの交渉の途中で、エリーゼは「買いなさい。」と誰かにささやかれる声を聞きました。これは「神の声?」と思って、購入することに決めました。大正11年(1922)2月のことでした。後日、エリーゼはその時を回顧しながら、「こうしてアメリカに行くはずだった私たちが何十年も日本にいることになるとは、夢にも思わなかったことです。」としみじみと言っています。
3.横浜でのドイツ菓子店の経営と関東大震災
 横浜市中区山下町(居留地60番地)での準備はとんとん拍子に進み、大正11年(1922)3月に開店の運びとなりました。店名の看板はザクセン風の花文字でエリーゼの頭文字を入れて、E・ユーハイムとしました。図1は、コラム82の図1プールの逃避行ルートで、居留地60番地(中華街の東口付近)にあったE・ユーハイムの店の位置を追記しました。リンゾンとの話し合いで、店を3000円で買い取りました。しかし、リンゾンの借金も肩替りする契約となっており、次々と多くの借金が明らかとなりました。このため、夫婦の持ち物(衣類まで)を家主に担保として出さざるを得ませんでした。
図1
図1 プールの逃避行ルート図にE・ユーハイムの位置を追記
(井上,2018,1/1万旧版地形図「横浜近郊南部」(1922年測図)に加筆)
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 1階の広間を喫茶室とし、丸テーブル5個を置きました。突き当りが菓子売り場、その奥が台所で、地下室を製菓室としました。2階は5室ありましたが、元の持ち主リンゾンがアメリカに出発するまでの期間は貸さねばならず、他の部屋も雇い入れた外国人従業員などに貸しました。したがって、ユーハイム一家は1階に住むしかありませんでした。ベッドを置く場所、買う金もないため、床にじかに寝ることになりました。
 それよりも、新しい店をどうやって成功させるか、その工夫が大変でした。エリーゼは酒飲みが大嫌いだったので、酒を出すことはやめ、喫茶とドイツ風軽食を出す店としました。徹夜を重ねて開店準備をして、やっと3月に開店することができました。カールの作ったドイツ菓子だけでなく、エリーゼの考案したドイツ風軽食も飛ぶように売れました。客もひっきりなしにきて、忙しさに追いまくられ、何が何だか分からないうちに開店初日が終わりました。売り上げも順調でした。初めのうちは昼の食事以外は菓子が中心でしたが、顔見知りの客が来るとエリーゼがコーヒーを出すようになり、優秀な従業員も増えて、店の経営は順調となりました。
 そうして翌年の大正12年(1923)7月9日に2人目の子宝に恵まれました。女の子でヒルデガルド・ユーハイムと名付けました。しかし、女の子が生まれてまもない9月1日11時58分に関東地震の直撃を受けました。
 その日、横浜は朝から大雨でした。10時頃雨がやむと、ものすごい暑さが襲ってきました。関東地震発生時、エリーゼは2階の自分たちの部屋で、生まれて7週間のヒルデガルドに湯をつかわせていました。左側の窓近くに卓上ベビー風呂を置き、我慢ならない暑さにエリーゼは上着を脱いでいました。その時でした、目の前のベビー風呂がひとりで立ち上がり、まともに湯水をエリーゼに浴びせてきました。自分にぶつかってくる裸の赤ん坊を両腕で抱えながら、産後でまだ回復していない体を強く床に打ち付けました。エリーゼは少しの間気を失っていましたが、誰かに呼ばれた声で気が付きました。気が付くと天井から降って来た木材で埋まり、身動きできませんでした。すると天井にぽっかりと空いている1m四方の穴から男のアツミ・ベカの顔が見えました。
 「早く、早く・・・」の声を聞き、エリーゼは四方の木切れを押しのけ、立ち上がりました。腕の中のヒルデガルドをアツミ・ベカに渡しました。「奥さんも早く!早く!」と手を差し伸べてくれました。しかし、何か所もカギ裂きとなっている下着だけの姿にためらっていると、女中の婆やが床を這い寄ってきて、自分の服を脱いで着せかけてくれました。その後、二人は助け合って崩れ落ちた屋根の上の隙間を抜け出すことができました。その四方には、自分の目よりも高いものは何もありませんでした。すべてガチャガチャに叩き潰され、渦巻く土煙の下に残骸をさらけ出していました。
 エリーゼはアツミ・ベカから赤ちゃんを受け取ると、「カール!カール!」と夫の名前を呼び続けました。地下の製菓室にいたカール・ユーハイムは、地震の第一衝撃と同時に出口に向かって飛び出しました。階段を駆け上がるのがやっとでした。一瞬四方から崩れかかるレンガ塀に殴り倒されると同時に、片足を挟まれてしまいました。何とか足を抜こうとしましたが、レンガはびくともしません。そこへ真っ先に天井から抜け出していた長男・カールフランツ(6歳)が泣きながらやってきました。「ママも赤ちゃんも死んだよ。」と言いながら、パパを助けようとしました。カールは妻と赤ん坊の所に行こうとして、全力を振り絞りますが、レンガの積み重なりはびくともしませんでした。「フランツ! どこかでナイフを探し出して来てくれ」といいました。
 フランツは瓦礫の山をよじ登って行きました。カールは懸命に足を抜きにかかりましたが、なんの効果もありません。その間に土埃の中に火の手が上がり始めるのが見えました。その時、「カール!カール!」と呼ぶ妻の声がかすかに聞こえました。妻は生きている。それなら赤ん坊も生きているに違いない。カールは力を取り戻し、「神さま、なにとぞ。」と最後の力に祈りを込めました。その拍子にレンガの1枚がすっぽり抜け落ちました。もう一息と反動をつけてレンガを押すと、足が抜けました。
 「エリーゼ! ここだよ。」 その声はエリーゼの耳にも届きました。タムラ、アツミ、ナカムラと3人のベカが力を合わせて、カールをしっかりと抱き上げました。地震と同時に起こった火事はすさまじい勢いで燃え広がっていました。カールと3人のベカ、エリーゼはしっかりと子供を抱えて走りました。しかし、長男・カールフランツの姿は見えませんでした。みんなは堀川に架かった橋(谷戸橋か)を渡って、外人墓地の下を通り、海岸の埋立地へ逃げました。体の大きなカールを3人のベカが抱いて、やっとのことで走り続けました。
 頭上には火勢にあおられた風が渦を巻き、燃えた畳や障子の断片を降らし続けました。火炎の熱さに加え、大火事のための酸素欠乏で息ができないほど苦しくなりました。一同は海岸でうつ伏になって、空から降ってくる火の粉を避け通しました。
 夕方6時、ユーハイム夫妻と赤ん坊は、外国人被災者を収容しに来た英国船ドンゴラ号(大桟橋に繋留中)に誘導されました。生まれて7週間の女児とその母、足に大怪我を負った夫は優先的に乗船させてもらえました。しかし、長男・カールフランツは行方不明のままでした。この地震はちょうど昼食時だったため、炊事場からの火事が何箇所も発生し、猛火で延焼し、多くの死者・行方不明者が出ました。E・ユーハイムの店でもお客9人を含め、11人が悲しい犠牲者となりました。
 被災者を満載にしたドンゴラ号は、9月6日今や廃墟と化した横浜を見捨て、神戸に回航されました。被災者たちは各国領事からの割り当てに従い、それぞれの宿舎に引き取られていきました。ユーハイム一家は、横浜の店にも時折顔を見せていた塩屋(神戸市垂水区)のウイットの家に落ち着きました。
 しかし、まだ行方の分からない長男・カールフランツのことがとても心配でした。激震により産後の体を投げ出されたエリーゼは、夫の介護もしなければならず、疲労が重なっていました。神戸在留のドイツ人の手も借りて、フランツの捜索に四方八方手を尽くしました。エリーゼはせめてフランツの生死だけでも知りたいと、横浜から船が入港するたびに、埠頭までフランツを探しに行きました。そして、最後のフランス船が9月10日に神戸に着くと、避難民のフランス人の中にフランツはいました。エリーゼはすがりつくフランツを抱きしめ、心から神に感謝せずにはいられませんでした。
 フランツはレンガに埋り身動きできない父親から、ナイフを探して来てくれと言われて探しているうちに、猛火に囲まれてしまいました。足がもつれるほど歩いているうちに、横浜公園に迷い込んでいました。少年はそのまま横浜公園で2夜を過ごしました。公園の中まで水(水道管が破裂して水が吹き出していた)がひたひたと押し寄せてきました。その土壇場で見知らぬ女性が「あ!ユーハイムの子供じゃないか。」と声をかけてくれました。フランス人のミス・ピックでした。「どうしてこんなところに一人で。」「パパもママも、赤ちゃんも死んだ。」「いいのよ。私がママになってあげるから。」と言って、避難船に乗る時もフランス人ミス・ピックの子供として登録しました。
 こうして、ユーハイム一家は全員が揃いましたが、カールは大怪我の手当てをする必要がありました。非常事態なので、重病人は入院できましたが、カールの怪我程度では薬の交換だけで、自然に治るのを待つしかありませんでした。しかし、背骨にも異常があり、接骨医にも通う必要がありました。それに頬の痛みは引かず、疲れ過ぎると右目が飛び出しているように見えました。
 大正12年(1923)9月1日、ほんの一瞬の激震によって全てを失い、ユーハイム夫妻は叩き潰されてしまいました。
4.羽ばたく不死鳥(フェニックス)―神戸でのドイツ菓子店の復活―
 カール・ユーハイムの家族が神戸塩屋のウイットの家に身を寄せてから、1か月が過ぎ去りました。1日も早く住む家を探さねばならず、如何にして食べていくかも考えなければなりません。カールは菓子を作って売るしかないのです。菓子だけがオールマイティの神様でした。
 しかし、今は完全に無一文で、神戸は見知らぬ土地でした。どうやって菓子を作り、売ればよいのか。5年間の収容所生活の間にも現在に等しい絶望感がありましたが、食の心配はいりませんでした。食事が支給され、少ないけれど捕虜としての給与もあり、青島の妻子にはドイツ政府から50香港ドル/月の手当てもありました。しかしながら、今は何もありません。
 大正12年(1923)9月末、ドイツ船が神戸から横浜に行くというニュースが入りました。カールも横浜の状況を見に行くことにしました。しかし、横浜は一面の焼け跡だけで、生きる手立ては何もありませんでした。「もし、横浜で菓子店を再開できたら?」と考えることは、甘すぎることだと思い知らされました。そんな焼け跡の真ん中で、タムラ・スエジロー・ベカとばったり会いました。彼は妻の実家の静岡に避難していましたが、E・ユーハイムの店の様子を見たいと思って来たところでした。タムラは「1日も早く店を開いて下さい。その時は他のベカも連れて行きますから」と言いました。
 神戸に戻っても、菓子店を開く見通しは全く立ちませんでした。今は話のあるトアホテル(東亜ホテル,現在の神戸外国倶楽部)で、従業員として働くしかないようでした。ある日色々なことを考えながら、とぼとぼと三宮警察署の前を歩いていると、ロシアの有名な舞踏家アンナ・パブロバ夫人(白浜(1986)によれば、ナタリア・パブロバ夫人であった可能性がある)にばったりと会いました。「まあ、横浜のユーハイムさんじゃないの。」と言いました。
 カールは、横浜の被災のすざましさを語り、神戸で家探し、職探しをしていると話しました。パブロバ夫人は「そんなの心配ないわ。この家で店を開きなさいよ。」と言い、神戸っ子が「サンノミヤイチ」と呼ぶ三宮一丁目電停のすぐ前のレンガ建て3階の洋館を指さしました。カールはあっけにとられて、「そんな!店を持つと言われても、私は無一文です。それにこんな立派な建物・・・とてもできる話では・・」と言いました。
 パブロバ夫人は「いいえ、何でもいいからやるのですよ。やればできます。この洋館で店を開くのです。」と舞台の上で言うように、格調高い口調で言いました。この会話が、神戸のドイツ洋菓子店として有名になった「ユーハイム」の店が生まれるきっかけとなったのです。
 神戸市生田区三宮町1丁目309番地、家主はチェック、名前はドイツ風ですがフランス人で、夫人は日本人でした。カールは開店準備で急に忙しくなりました。万国救済基金などから開店資金を借りることができ、大正12年(1923)10月15日に家主チェック氏と1階部分だけの賃貸契約を結びました。喫茶室と製菓室の機材準備をするとタムラ、アツミなどの横浜時代のベカを製菓職人として再雇用し、喫茶室にはロシヤ娘や日本娘2人を雇い入れました。用意した資金は見る見るうちに消えていきました。
図2
図2 地理院地図神戸三宮周辺(ユーハイム神戸1号店と現在の神戸元町本店を追記)
 図2は地理院地図の神戸三宮周辺で、ユーハイム神戸1号店と現在の神戸元町本店を追記しました。半月後の11月1日に神戸の菓子店は開店しました。店の名前はカールとエリーゼの二人の店として、商標は“JUCHHEIM’S”とSを加えました。当時、神戸にはこうした外国人経営の喫茶店はありませんでした。神戸にはすでに46ケ国の外国人が住んでおり、欧州系の外国人にとっては思いがけないオアシスの出現でした。ユーハイムは初日から大入りで、2日目にはストックがなくなるほど、ドイツ菓子を売り尽くしました。お陰で菓子などの原材料代は2週間後には返済できました。
 それが済むと、クリスマスの準備です。カールは祖国を思い、ラインの太陽を思い、そして母親を思い、グリム童話にでてくる“お菓子の家(ヘクセンハウス)”を無性に作りたくなりました。しかし、今はその余裕はありませんでした。幸運にも、万国救済基金から借り入れた資金(1500円)は、「クリスマスプレゼントとするから返済に及ばぬ。」という通知がきました。カールは自分が恵まれていると思いました。ユーハイム夫妻やベカたちは、クリスマスや年末をほとんど眠らず働き通しました。
写真1 写真2
写真1 ユーハイム神戸1号店“JUCHHEIM’S”
写真2 カール・ユーハイム(50歳前後)
『菓子は神さま―カール・ユーハイム物語―』(頴田島一二郎,1973)より
写真3 写真4
写真3 ユーハイム神戸1号店のあった場所
写真4 ユーハイム神戸元町本店
2023年2月17日撮影
 カールは東京、横浜時代と引き続き、バウムクーヘン、シュトーレンなどは、他のベカに任せず、自ら手がけました。昼近くに菓子作りが一段落すると、店に顔を出しました。外国人や顔なじみの日本人には愛想よく近寄って、日本語で「キョウワ、ドウデスカ」と声をかけました。手作りだけにその日の菓子の出来具合、味具合を聞いて歩きました。しかし、その言葉や態度の裏側からは十分自信を持った誇りが伺えました。
 以前からカール・ユーハイムを雇いたいと彼の腕を買っていたトアホテル(東亜ホテル)からは、4段、5段というウェディングケーキの注文もよく届きました。注文が来た日には全員徹夜でした。
 トアホテルは明治41年(1908)開業で、神戸市中央区北野町4丁目にありました。日本人建築家下田菊太郎設計の本格的ホテルで、当時「スエズ以東で最高のホテル」と称されていました。現在、居留地からトアホテルまでの1kmはトアロードと呼ばれています。
 このホテルの跡地は昭和25年(1950)に神戸外国倶楽部(Kobe Club)が移設されました。神戸外国倶楽部は神戸市に本拠を置く会員制社交クラブで、関西在住の外国人の相互交流を目的としました。外国人居留地に住むアメリカ人とイギリス人などが中心となって明治二年三月二十四日(1869年5月5日)に設立されたユニオンクラブを前身とします。居留地内の施設(現、東遊園地付近)を購入し、明治42年(1909)法務局に「神戸外国倶楽部」として登録されました。
 大正12年(1923)9月1日に関東地震が発生すると、外国企業の多くが神戸に本拠を移し、クラブの会員数は大幅に増えました。コラム82で説明したように、東京・横浜から多くの外国人避難者が神戸に移り住み、神戸外国倶楽部が復興・復旧の手助けをしました。神戸に避難したO.M.プールもこの倶楽部をよく利用し、ドットウェル商会の再建を実行しました。しかし、太平洋戦争が開戦すると、倶楽部の施設は日本海軍に接収され、後に戦争末期の昭和20年(1945)6月の空襲で焼失しました。
 カールが自慢のバウムクーヘンを切ってゆくのも、いかにも男らしい姿でした。物差し1本用意するでもなく、ざくざくと豪快な手さばきで切っていきました。一分の狂いもない、同じ大きさの出来上がりを見せます。2m大の紡錘形のバウムクーヘンを刃わたり5cm、長さ50cmの大きな菓子用包丁で、客の注文に従い半ポンド、1ポンドと寸分のくるいもなく切っていきます。それにエリーゼが少しおまけを加えて、客に出しました。
 ユーハイムは神戸だけでなく、阪神地方に数店の販売店もでき、経営は順調となりました。しかし、そういう登り坂の時には、得てしてつまずきが待っているものです。カールの身の上にも思わぬ不幸がやってきました。横浜で生まれ、関東地震の中を生き延びた長女ヒルデガルドが突然の発熱で、治療の甲斐も無く、大正14年(1925)3月22日に天国に召されていきました。たった1年9ヶ月の短い命でした。
 働き詰めだったエリーゼも、愛娘の死にすっかり精神を痛めてしまいました。医者は応急の処置として、注射で4日間も眠らせました。さすがのカールも愛児の死の悲しみと愛妻への傷心に打ちのめされました。「奥さん!もう死ぬ。」と言って崩れました。当時横浜の知人に預けていた長男・カールフランツも呼び寄せました。
 さらに、カール自身にもひどく疲れた時には右目が飛び出す症状が現れました。エリーゼの主治医だった万国病院のドイツ人医師は、カールの右目を診察して「放置したらガンになる。奥さんが治ったら、ご主人の手術をしましょう。」と言いました。
 10歳となったカールフランツをドイツ流の厳格な学校に入学させることにし、エリーゼは保養を兼ねて、ドイツに帰国することにしました。2人は大正14年(1925)暮に船で3か月かけてドイツに向かい、ドレスデンの厳格第一のギムナジウムに入学させました。1926年12月25日に大正から昭和に元号が替り、ドイツではヒットラーの台頭が目立ってきました。エリーゼはドイツで1年間入院静養して元気になり、カールフランツをドイツの学校に残して、昭和2年(1927)3月に神戸に戻ってきました。
 店から離れて、少し山の手の熊内(くもち)2丁目に自宅を持ちました。ドイツ人が住んでいた純日本風の家でした。妻も健康を取り戻し帰国したので、5月にカールは右目の手術を行いました。手術は成功し、腫瘍をすべて摘出することができ、元気になりました。
 しかし、昭和2年(1927)3月から大不況(昭和金融恐慌)となりました。大丸デパート神戸店が現在地の中央区明石町に移転開業すると、菓子部門への進出もあって、ユーハイムの売り上げが減少しました。また、従業員が機械に挟まれる事故も起きました。元気になったエリーゼと協議し、新潟県から辛抱強い若者を数人採用したため、経営は少し持ち直しました。紆余曲折はありましたが、ユーハイムの店は繁盛し、谷崎潤一郎の『細雪』(1946〜49)などでも、ユーハイムの店のことが紹介されました。『細雪』は昭和11年(1936)秋から昭和16年(1941)春までの大阪の旧家を舞台に、4姉妹の日常生活の悲喜こもごもを綴った作品です 。
5.阪神大水害(1938)とユーハイム
 青島の店を戦争で奪われ、横浜の店を大震災で奪われたユーハイムでしたが、カールの振るう“魔法の杖”によって、阪神地区だけでなく、日本の「ユーハイム」として成長していきました。昭和7年(1932)の夏に長男・カールフランツが神戸に帰ってきました。学校はあと2年ある筈で、すでに授業料は前納してありました。夏休みを利用しての帰省と思っていましたが、17歳のフランツは「もう学校には行かない。この店を引き継いで、菓子職人になる。」と言いました。夫妻は思わず顔を見合わせ驚くとともに、息子を菓子職人にしようとは考えていないと言いました。しかし、フランツはドイツの学校で上級生たちが交わす会話から、敗戦国として大きな苦難を背負っているドイツでは就職の道はほとんどない不況のどん底にあることを知りました。「むしろ腕に職をつけた方が良いのでは。幸いパパは立派にやっている。やがて店を継ぐ経営者も必要なのだ。」とフランツは考えて、学校を退学して日本に帰り、菓子職人になる決意でした。
 カールは「この仕事は大変なんだよ。ドイツでは“バウムクーヘンを焼くベーカーは早死にする”と言われている。」と息子に言い聞かせました。「知っています。」と少年には押し返す気概がありました。彼は菓子職人の手伝いとして、父親と約束した通り、鉄板磨きなどの下働きに精を出しました。カールは息子の働きぶりを見て、良き後継者を得たという安ど感がありました。
 しかし、順風な日ばかりではなく、昭和9年(1934)9月21日の室戸台風、昭和13年(1938)7月5日の阪神大水害が襲ってきました。室戸台風が接近する中、大阪配給所の植村常吉は早朝大坂から三宮に来て、大きな菓子包み2個を担いで、阪神電車で帰路につきました。その頃から阪神地区は台風の暴風雨圏内に入り、電車は甲子園駅で立往生しました。目の前で電話ボックスが吹き飛ばされ、駅のベンチがガード下に転げ落ちて行きました。植村は甲子園駅に荷物を預け、大阪まで歩く決心をしました。暴雨に揉みくちゃにされながら、やっと梅田駅に着きましたが、梅田駅はほとんどの電車が止まり、大変な混雑でした。それから堺筋の自宅に帰ると、妻と若い店員が店の表障子を懸命に押さえていました。この台風で阪神地区は大被害となりましたが、ユーハイム店は大きな被害はありませんでした。
 昭和13年(1938)の阪神大水害は、六甲山地周辺で激甚な土砂・洪水災害となりました。図3は、『神戸市水害誌』(神戸市役所,1939)の附図「災害地図」(全8枚)のNo.3西郷川・生田川間とNo.4新生田川・宇治川間を貼り合わせたものです。
図3
図3 『神戸市水害誌』(神戸市役所,1939)の附図「神戸市災害地図」
(No.3西郷川・生田川間とNo.4新生田川・宇治川間を貼り合わせた)
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 茶色は崩壊地で、上流部の山間部では非常に多くの崩壊が発生し、多くの支渓流から土石流が流下してきました。旧生田川沿いにはそれらの土砂と流木を交えて泥流が流下してきました。図3の赤色は6尺(1.8m)以上、濃紺色は3〜6尺(0.9〜1.8m)、黄色は1〜3尺(0.3〜0.9m)、緑色は1尺(0.3m)以下の浸水高を示します。
 旧生田川は神戸市街地を流れる2級河川で、六甲山地を抜けて平野部に達すると土石流扇状地を形成し、何度も氾濫していました。慶応三年十二月七日(1868年1月1日)の神戸港開港に合わせて、外国人居留地が整備されました。旧生田川は現在のフラワーロード(新神戸駅から三宮方向)付近を流れていましたが、加納宗七が800m東側に流路変更(現在の新生田川)工事を行い、明治四年(1871)に完成させました。旧生田川の区間は加納宗七に払い下げられたため、加納町と呼ばれるようになりました。付け替え工事が終わり、天井川だった旧生田川がなくなったことで、この付近の市街地化が急速に進みました。昭和に入り、新生田川の暗渠化工事が進められ、昭和7年(1932)に市街地部分の暗渠工事が完成しました。暗渠の上には道路や公園(布引遊歩道)が整備されました。しかし、昭和13年(1938)の阪神大水害では、豪雨で流されてきた巨岩や巨木が新生田川の暗渠の入口付近を塞いでしまい、行き場を失った泥水は旧生田川であるフラワーロードを濁流となって流下し、周辺街区一帯に大きな被害をもたらしました。この教訓から、生田川の暗渠は撤去されて、再び開渠化され、現在の新生田川となりました。戦後になってから河岸に生田川公園が再整備されました。
 阪神大水害で旧生田川(図3で赤色に塗られた部分)を土石や流木を含む濁流が流下し、生田神社の横を通過し、加納町一帯を襲いました。そして、三ノ宮駅の駅舎と線路敷にぶつかり、国際道路部分から南側の神戸居留地付近まで大氾濫しました。
写真5 写真6
写真5 三宮駅南側を流下する泥流(7月5日)
右の建物はそごう
写真6 翌日の三宮駅前(7月6日)
右の建物はそごう
写真7 写真8
写真7 濁流が流下した国際道路とそごう(7月8日)
写真8 土砂が撤去された状況(10月8日)
写真5〜8は神戸市役所(1939)『神戸市水害誌附図』(第五 新生田川沿岸并に其附近)より
 神戸市役所(1939)『神戸市水害誌附図』(第五 新生田川沿岸并に其附近)から数枚の写真とスケッチ図を紹介します。写真5は三宮駅南側を流下した泥流(7月5日)で、写真6は翌日の三宮駅前の状況で、右側のビルはそごうの1・2階を写しています。写真7は三宮駅南側にあるデパートそごうとその前を濁流が流下した国際道路の状況(7月8日)で、写真6は土砂が撤去された3ヶ月後の状況(10月8日)を示しています。図4はデパート大丸前の濁流の状況を描いたスケッチです。人々が膝上まで水に浸かって歩いていることから、1〜3尺(30〜90cm)も湛水していることが分かります。
図4
図4 大丸前の濁流のスケッチ
神戸市役所(1939)『神戸市水害誌附図』(第五 新生田川沿岸并に其附近)より
 そごうと大丸の中間にあるユーハイムの店付近でもぐんぐん泥流の勢いが増し、あっという間に3段の石段の上まで達しました。JUCHHEIM’S と金箔で書いてある扉 の下から、店内に水が入ってきました。三宮本通りの角からユーハイムの工場の通りは濁流と化していました。道路の水は男の腰あたりまでありましたが、ユーハイムの工場前は浅い方で、それでもスネまでありました。瞬く間に、工場と店は往来のできない状態になりました。洪水は大量の石と木を押し流してきました。
 猛威を振るった鉄砲水は意外と早く引いていきましたが、阪神電鉄の地下は土砂で埋まり、相当の死者が出たことが真っ先に伝わってきました。多くの橋も流されました。青葉を付けたままの流木がどの家にも闖入してきました。上流部では山崩れによって、松の大木で押しつぶされた家もありました。真ん中に大きな穴が空いた家もあり、まるでトンネルを通したような状態でした。カマチまで土砂に埋まった家々など、まったく目を覆うような惨状でした。ユーハイムでは閉店の時間が来ても、帰るに帰りようがありませんでした。エリーゼは「みんな、私とこの店で寝ましょう。」と女店員に言い、2晩熊内の自宅には帰りませんでした。自宅にいたカールは、上野通りのバス停も土砂で埋まっていると聞かされると、そのまま六甲山ケーブルで六甲山頂の阪急ホテルに避難し、下界の自宅や店・工場には降りてきませんでした。
 横浜で大震災を経験したカール・ユーハイムは、この大水害に大変なショックを受けたようです。
 谷崎潤一郎の『細雪』では、以下のように記しています。
 「・・・7月に入ってからも雨は降り続き、5日明け方から大変な豪雨となり、阪神間に記録的な大水害が発生した。・・・この豪雨で、布引山一帯から柏谷(おがわだに)を流下してきた土砂流木が新川の暗渠口を塞いでしまった。豪雨を集めた水は元の古巣であった旧生田川の水域を慕って、加納町一帯を襲いながら三宮駅の方向へ押し寄せた。後日開かれた神戸史談会の例会で、郷土史家は「生田神社はもと柏谷にあった。それが生田川に流されて、現在の地に祭られることになった。つまり、それが本来の柏谷(生田川)の水の流れる本来の道筋だった。だから、無理に新川に流れを変えたのは、役人たちの便利主義というか、自然の理を無視したやり方で、近いうちに必ず氾濫する。」と予言していたという。・・・至る所に堆積している土砂の片付けは、早急には運びようもなく、炎天の往来を行く人々が真っ白な埃を浴びている光景は、往年の大震災の東京・横浜の街が再現されたようであった。」
 ユーハイムの店の周りは、寺院その他の屋根、家の破片、根こそぎの大木、箪笥などの家具、岩石、土砂で埋まっていましたが、復旧作業は意外と早く数日のうちに元の通りになりました。人々は「警察署の前やさかい、早く済んだ。」と言いました。しかし、ユーハイムの店の中の復旧作業は長くかかりました。
6.戦争の激化とカール・ユーハイムの死
 長男のカールフランツは、1年間の兵役を終了して、昭和14年(1939)6月(24歳になっていた)に神戸に戻ってきました。昭和12年(1937)11月にマルガリータと結婚しており、すでに男の子が生まれていました。新しい家族と初孫の生誕を祝して、盛大な歓迎会が行われました。
 しかし、その少し前から日本軍の中国の華北侵略は進められており、カールには異常な行動が見られるようになりました。第一次世界大戦での5年間の抑留生活で辛酸を舐めており、戦争への憎悪、恐怖には人一倍敏感でした。青島以来の心労、大震災の衝撃、神戸開店の苦労、阪神大水害などの積み重ねが忍従の限界を超えてしまったのかもしれません。
 カールの病状が良くならないので、エリーゼは植村などと相談して、ドイツの精神病院で治療してもらうことにしました。
 カールを乗せたドイツ船はハンブルクに向かって神戸港を出港しました。ドイツでカールが入院した精神病院は、長男カールフランツが妻マルガリータと結婚したニンローデの街にありました。カールはこの病院で入院加療に務めました。しかし、日本とドイツ、そして世界は第二次世界大戦が近づきつつあり、暗雲とした時代になっていきました。昭和14年(1939)頃から、ユーハイムの店・工場の職員からも初めて召集者が出るようになりました。また、工場で中心となって働いていたタムラ・チーフが脳内出血の発作で亡くなったという知らせが届きました。
 昭和14年(1939)9月1日にナチス・ドイツはポーランドに侵入したので、9月3日英仏はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。遠く日本を離れて加療中のカールはようやく病魔が回復してきました。エリーゼはドイツに夫を迎えに行くため、昭和15年(1940)6月に神戸を発ちました。幸いカールの病状はかなり良くなっていたので、その年の暮に夫婦で連れ立って神戸に帰ってきました。カールは店にも工場にも出ましたが、あまり仕事もしなくなりました。カールの性格は一変し、3人の孫ともあまり口をきかなくなりました。
 昭和16年(1941)6月22日、ドイツ軍はソ連に電撃作戦を開始しました。カールやエリーゼがかつて青島に向かったシベリア鉄道のベルリン・モスクワ間も戦場となりました。カールが青島で捕虜になってから20年が経っていました。表面上は寡黙なカールでしたが、心の奥底ではかつての戦争捕虜の記憶が不安となって重くのしかかっていました。さらにその年の12月8日、日本軍はハワイに奇襲攻撃を行い、太平洋戦争が勃発しました。
 昭和17年(1942)8月、カールフランツに神戸の領事館から呼び出しがありました。彼は母エリーゼと相談しましたが、応召を決意しました。また、残り少なくなった従業員(ベカ)たちも次々と召集されていきました。
 戦線は次々と拡大し、日本の国力は見る見る低下していきました。ユーハイムの店では配給きっぷで支給される材料でわずかに菓子類を作って販売していました。工場はドイツ戦艦の水兵150人分のパンを週3回作るようになりました。しかし、カールはこのパン焼きもできなくなっていました。ナチス・ドイツ軍の敗勢に比して、カールの病状は進み、さらに寡黙となりました。
 カール夫妻ほど、食べ物の乏しさを経験した人はいないでしょう。第一次世界大戦で陥落した後の青島がそうでした。大阪俘虜収容所、似島俘虜収容所がそうでした。関東大震災に焼け出され、神戸に流れ着いた時がそうでした。阪神大水害と第二次世界大戦の時には、カールは自宅でひっそりとしていました。昭和17年(1942)後半、息子カールフランツが祖国の戦線に赴いたころから、ドイツと日本の敗戦は色濃くなってきました。昭和20年(1945)5月8日、ドイツは連合国軍に降伏しました。
 昭和20年(1945)6月に神戸の空襲があり、ユーハイムの店など三宮周辺は燃えてしまいました。ユーハイム一家は六甲山ケーブルで六甲山頂のホテルに避難しました。エリーゼは眼下に見える神戸の街が燃え尽きていくのを見ていました。カールは六甲ホテルに移ってからは、ひどく明るくなり、エリーゼも少しほっとしました。
 昭和20年(1945)8月6日、原子爆弾が広島に落とされました。8月14日カール夫妻は安楽椅子に向かい合って座っていました。カールはゆったりとした口調で「戦争はもうすぐ終わるよ。本当にもう一度奈良・京都に行ってみたいね。」といいました。エリ−ゼは「ええ、本当に戦争がすんで、フランツが帰ってきたら、・・・」というと、カールは「いや、フランツは帰らない。」といいました。エリーゼは夫が言った言葉に耳を疑いました。
 カールは最後に「私は死にます。」と言いました。また、神のお告げを伝えるように、「神様か、菓子は」と言ったようです。そのまま、カールは8月14日18時に59歳で静かに亡くなりました。
 「私は死にます。・・・けれども平和はすぐに来ます。」というカールの言葉は、預言者の言葉より正確に、しかも迅速に実現されました。
 翌日の8月15日正午に日本の天皇は、連合国軍に無条件降伏をしたことをラジオで伝えました。
7.ユーハイムの復興
 エリ−ゼは昭和22年(1947)2月10日、敵国人であるがゆえに、ほとんど着のみ着のままでドイツに強制送還されました。第二次世界大戦中にエリーゼがドイツ婦人会の副会長を務めていたこと、ドイツに帰国した経験があること、息子カールフランツがドイツ軍に在籍していたことが問題視されました。
 エリーゼはドイツに戻ってから、息子カールフランツを懸命に探し廻りました。その結果、ハンブルクで息子の戦友5人と会えました。しかし、カールフランツは昭和20年(1945)5月6日に30歳で不幸な死を遂げたことが伝えられました。
 昭和23年(1948)10月に神戸のユーハイムに勤めていた菓子職人によって、任意組合ユーハイム商店が設立されました。
 昭和28年(1953)3月にはエリーゼがドイツから戻り、帰国直後から会長に、昭和36年(1961)10月からは社長に就任します。エリーゼは「死ぬまで日本にいる」と宣言しました。昭和38年(1963)から株式会社ユーハイムに商号を変更しました。そして、夫の生前の最盛期だった頃よりも大きくユーハイムを発展させ、神戸から全国に展開する洋菓子店として成長しました。
 エリーゼは昭和46年(1971)5月2日に兵庫県神戸市で息を引き取ります。現在、カール・ユーハイム、エリーゼ・ユーハイム夫妻は、芦屋市朝日丘の芦屋霊園の一つの墓で安らかに眠っています。2023年2月17日の現地調査の最後に芦屋霊園に行き、ユーハイム夫妻のお墓にお参りしてきました。お墓には、「平和を創り出す人達は幸せである」と記され、カール(1886年12月25日生、1945年8月14日死)、エリーゼ(1892年3月7日生、1971年5月2日死)と記されていました。
 ご冥福をお祈りします。
引用・参考文献(コラム83も参照して下さい)
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伊藤泉美(2014):ある英国人女性の手紙 関東大地震からの逃避行,【史料紹介−関東大震災関係2】,横浜開港資料館紀要,32号,p.73-87.
井上公夫(2017):コラム37 関東大震災(1923)による横浜の土砂災害―9月1日のプールの逃避行ルートを歩く―,2017年8月28日公開
井上公夫(2019):コラム70 兵庫県南部地震(1995)と土砂災害を振り返って,いさぼうネット,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,2021年4月28日公開
今井精一(2007):『横浜の関東大震災』,有隣堂,307p.
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時事新報社編(1923):大正大震災記,時事新報,第14504号付録,67p.
白浜研一郎(1986):七里ヶ浜パヴロバ館−日本に亡命したバレリーナ,文園社,272p.
田井玲子(2013):外国人居留地と神戸,神戸新聞総合出版センター,263p.
谷崎潤一郎(1946,47,48):細雪,上巻,中巻,下巻;新潮文庫(1955),上,352p.,中,416p.,下,512p.;角川文庫(2016),上,302p.,中,329p.,下,364p.
東京紅団:「ユーハイムを歩く」,神戸編,初版2014年7月12日,最終更新日2018年7月14日,12p.  http://www.tokyo-kurenaidan.com/juchheim6.htm (2023年4月1日確認)
東京紅団:「ユーハイムを歩く」,東京・横浜編,初版2014年5月31日,最終更新日2018年6月07日,11p. http://www.tokyo-kurenaidan.com/juchheim4.htm(2023年4月1日確認)
ノエル・F・ブッシュ,向後英一訳(2005):正午二分前−外国人記者のみた関東大震災,早川書房,293p.
Poole, O. M.(1966): The Death of Old Yokohama in the Great Earthquake of 1923,135p.,金井圓訳(1976): 『古き横浜の壊滅』,有隣堂,220p.
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