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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
コラム85 明治22年(1889)の紀伊半島災害によって
奈良県・十津川流域から北海道・新十津川村に移住した被災民①
1.はじめに
 令和5年(2023)5月9日(火)〜11日(木)に砂防学会(札幌大会)があり、井上は下記の口頭発表をしました。
 R4-5 井上公夫・足立勝治・佐藤昌人:尾瀬沼南東部の巨大地すべり地の地形特性変動状況について
 発表の詳細は、いさぼうネットのコラム64と81をご覧ください。
 砂防学会終了後、5月11日に新十津川町に行き、町役場で寺田佳正副町長に面会して、色々お話をお聞きするとともに、『新十津川百年史』などを入手しました。その後、新十津川町開拓記念館(昭和55年(1980)開館)などを見学し、ふるさと公園内にある「美緑のグリーンパークしんとつかわ」に宿泊しました。翌12日はふるさと公園内にある津田フキの像などを見学するとともに、新十津川物語記念館(平成6年(1994)開館)を見学しました。物語記念館ではNHKドラマ『新十津川物語』(明治編,大正編,昭和編の総集編,40分)を視聴しました。川村たかし先生の『十津川出国記』(1987)と『新十津川物語』(全10巻,1977〜88)を以前読んでいましたので、かなりよく理解でき面白かったです。
 コラム28でも説明しましたが、紀伊半島では明治22年(1889)に平成23年(2011)以上の激甚な土砂災害が発生し、大規模な天然ダム(当時「新湖」と呼ばれた)が数多く形成されました(宇智吉野郡役所,1891;芦田,1987;平野ほか,1984)。
 国土交通省近畿地方整備局 大規模土砂災害対策技術センターでは、令和3年(2021)3月に以下の冊子を刊行し、センターのHP内の「研究活動」で公開しています。
 「60年毎(1889年,1953年,2011年)に繰り返される紀伊半島の歴史的大規模土砂災害」
 今回、新十津川町を訪問できたので、奈良県・十津川村と北海道・新十津川村(現在は新十津川町)との関係を2回に分けて説明します。
2.明治22年(1889)の紀伊半島災害による被害状況
 図1は、1889年紀伊半島災害による和歌山県、奈良県における死者数を示しています(水山ほか,2011)。この図は明治大水害誌編集委員会(1989)と関係市町村誌などをもとに集計したものです。奈良県十津川流域だけでなく、和歌山県の南部でも激甚な被害が発生していたことがわかります(井上,2019a,b)。
図1
図1 1889年紀伊半島災害による和歌山県と奈良県における死者数
(水山ほか,2011;明治大水害誌編集委員会,1989をもとに作成)
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 明治22年(1889)8月19〜20日の台風襲来によって、奈良県十津川流域(宇智吉野郡)では、大規模な崩壊・地すべりが1146箇所,天然ダムが28箇所(推定移動土砂量の総計2.0億m³)以上発生し、245名の死者・行方不明者が報告されています(田畑ほか,2002)。明治22年の十津川村(当時は北十津川・十津川花園・中十津川・西十津川・南十津川・東十津川の6箇村)の人口は1万2852人で、168名もの死者・行方不明者となりました。これは人口の1.3%に相当します。この十津川流域は幕末時に勤皇志士を多く輩出し、京都御所などの警護にあたりました。
 和歌山県側については、コラム57,58,77もご覧ください。
 図2は、旧版地形図(1908〜1911年測図)の読図による十津川流域の天然ダム多発地点を示しています(田畑ほか,2001;田畑ほか,2002)。河道閉塞を引き越した大規模崩壊(深層崩壊)の範囲を赤色で、天然ダムの最大湛水域を青色で示しました。
図2
図2 旧版地形図(1908-1911)の読図による十津川災害時の天然ダム多発地点
(田畑ほか,2001;田畑ほか,2002)
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表1 明治22年(1889)の紀伊半島災害で形成された天然ダム一覧表
(建設省中部地方建設局,1987;田畑ほか,2001;田畑ほか,2002,水山ほか,2012)
 表1は、明治22年(1889)紀伊半島災害による天然ダムの形成・決壊一覧表で、建設省中部地方建設局(1987)、田畑ほか(2002),水山ほか(2012)の日本の天然ダム事例一覧表をもとに、明治22年(1889)8月19〜20日に形成された奈良県・和歌山県内の天然ダムを抽出・整理したものです。1〜28は、奈良県十津川流域の天然ダム、29〜33は和歌山県側の天然ダム(水山ほか,2012で追記)を示しています。
 図3は、明治22年(1889)と平成23年(2011)の十津川上流域の土砂災害分布図を示しています。旧版地形図の上に明治22年(1899)災害の状況を示すとともに、平成23年(2011)災害の河道閉塞を引き越した大規模崩壊(深層崩壊)の範囲を緑色で、天然ダムの最大湛水域を紺色で示しました。
 平成23年(2011)の紀伊半島災害も激甚だったのですが、明治22年(1889)の災害はさらに激甚だったことがわかります。
 図4は、1/2.5万地形図をもとに、十津川の河床断面図(川原樋川を含む)を作成し、河道閉塞を起こした主な崩壊地形と天然ダムの湛水範囲を示しました(井上ほか,2013;国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)。点線で1889年以前の想定河床断面を示しましたが、天然ダムの形成・決壊によって、30m以上河床が上昇したと考えられます。また、戦後に建設された風屋ダムと猿谷ダムのダム高と湛水位も追記しました。
図4
図4 十津川の河床断面図と天然ダムの湛水範囲(井上ほか,2013;
国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)
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表2 明治22年紀伊半島災害時の天然ダムの経時変化(井上2012a;井上ほか,2013;
国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)
 表2は、明治22年(1889)紀伊半島災害時の天然ダムの経時変化を示したものです(井上,2012a;井上ほか,2013;国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)。和歌山県・奈良県で形成されたことが判明した33箇所の天然ダムのうち、半数以上の18箇所が1日以内、3箇所が7日以内、4箇所が1箇月以内に決壊しており、決壊せずが1箇所、不明が6箇所です。現存しているのは、No.26の大畑瀞のみです(2011年災害で、一部溢れましたが全面決壊はしていません)。
 森(1984)、川村(1987)や蒲田・小林(2006)などによれば、明治22年(1889)災害前の十津川は、丸太を渡しただけの丸太橋で渡れるほどの川幅の狭いV字谷でした。災害後、多数の崩壊・土石流、天然ダムの形成・決壊によって、十津川の河床は30m以上上昇しました。このため石礫が厚く堆積した荒廃河川となり、険しいV字谷から少し谷底の広い谷地形に変わりました。
 明治22年(1889)8月20日7時頃、十津川本川左岸の高津中山で大規模崩壊(移動土塊量370万m³)が発生して河道が閉塞され、湛水高110m(湛水標高360m)、湛水量1.8億m³の林新湖(No.9)が形成されました。林新湖は明治22年災害で形成されたもっとも大きな天然ダムです。高津中山の崩壊地付近には旧国道168号が通っており、記念碑が建立されています(写真1,2参照)。この天然ダムの湛水によって、中山に近い林地区では、湛水高83mにも達し、30戸中27戸が水没し、住民153人中死者21人にも達しました。上野地地区の湛水高は80mで、42戸中34戸が水没し、188人中死者8人となりました。谷瀬地区の湛水高は67mで、55戸中5戸が水没し、333人中死者3人となりました。宇宮原地区の湛水高は63mで、49戸中39戸が水没し、284人中死者18人となりました。上流部の長殿地区でも湛水高は47mに達し、18戸中12戸が水没し、114人中死者28人と最も被災者が多くなりました。
 この天然ダムは17時間後の21日0時頃決壊し(半分程度(高さ55m)の天然ダムが残った)、湛水していた人家はすべて流出しました。そして、急激な洪水段波が十津川を流下し、各地に激甚な被害を与えました。
写真1 写真2
写真1 林新湖を形成した高津中山の崩壊地
写真2 高津中山の対岸に残る小丘と崩壊跡地の記念碑
(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)
3.十津川流域の死者・行方不明者の分布
 宇智吉野郡(1891)『明治二十二年吉野郡水災誌』をもとに、最上流部の天川村・野迫川村・大塔村(現五條市の一部)、十津川村の4箇村について解析した結果を紹介します(永田ほか,2016;中根ほか,2017;国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)。図5は十津川流域の大字別大崩数(縦横50間,約91m以上)と大崩率、新湖(天然ダム)数です。
写真3
写真3 明治二十二年吉野郡水災誌の原本(十津川村歴史民俗博物館で撮影)
図5 図6
図5 大字別大崩数,新湖数
図6 大字別死者・行方不明者数(死亡率)
(明治22年(1889)災害の十津川流域(中根ほか.2017))
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 図5 大字別大崩れ数、新湖数によれば、南十津川村の那知合(160箇所)、西十津川村の小山手(105箇所)で、大崩率が10箇所/km²を越えています。西十津川村の上湯川は257箇所と極めて多く、大崩率が5.3箇所/km²となっています。新湖(天然ダム)は十津川本川で多く発生しましたが、川原樋川、神納川、上湯川などの大きな支流でも形成され、その多くが数時間から数日後に決壊し、下流域は天然ダムの決壊洪水によって、激甚な被害を受けました。
 図6 大字別の死者・行方不明者によれば、十津川流域の9箇村(天川・大塔・野迫川・北十津川・十津川花園・中十津川・西十津川・南十津川・東十津川村)で240人が死者・行方不明となりました。野迫川村の立里(死者23人/人口78人,死亡率30%,鉱山があった)、大塔村の辻堂(21/81人,25.9%)、北十津川村の長殿(28/114人,25%)、林(21/153人,14%)、西十津川村の大谷(14/115人,12%)では激甚な被害が発生しました。
表3 吉野郡水災誌による村別の戸数・人口・被害状況、北海道への移住者数
(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)
表3
 表3は、宇智吉野郡(1891)の巻末表を整理したもので、十津川流域12箇村(上記に宗檜・南芳野・賀名生村を加える)の大字別人家戸数・流失戸数・全壊戸数・北海道移住戸数・人口・死者数・北海道移住者数や大規模崩壊数(縦横50間,約91m以上)、新湖数などが記されています。12箇村全体では、4640戸、2万3992人(現十津川村の6箇村では、2401戸、1万2752人)の人たちが住んでいましたが、流家365戸、潰家200戸、死者249人(現十津川村の6箇村で流家267戸、潰家159戸、死者168人)もの被害がありました。
4.十津川流域の被災民の北海道移住の決定
 激甚な災害を受けた後のあまりにも無残な光景に、多くの家族を失った被災民たちは打ちひしがれ、ただ呆然とするだけでした。しかし、時間が経過するうちに、人々は生き延びることの大切さに気付き、全員で話し合い、今後一致団結して現状を乗り切ることを誓い合いました(森,1984;川村,1987;十津川村歴史民俗資料館,2006)。十津川流域は勤皇の歴史が古く、幕末に京都御所警備など、勤皇の活動を活発に行い、「全村士族」の誇りが高かったようです。
 被災地の十津川流域に五條や下市から救援物資を運ぼうとしましたが、十津川沿いの道路は各地で崩落し、通行不能となりました。尾根越えの細々とした徒歩道で運搬せざるを得ないため、救援物資を充分に運ぶことはできませんでした。このため、奈良県知事の名で、「一時危険ノ地ヨリ避ケシムル」ために、五條と下市に避難所を設けるように通知が出され、桜井寺・講御堂・宝満寺が指定されました。
 9月4日に「吉野郡水害罹災者避難所」が開設されましたが、そこに避難する人はあまりいませんでした。この一大災難に大阪などの新聞は、被災状況を写真入りで詳しく伝え、義援金を募り、多くの義援金が集まりました。
 奈良県十津川流域は激甚な土砂災害を受けたため、十津川郷出身の在京の有力者は、災害状況を詳しく分析し、もはや十津川流域ではこれまでの人口を養うことができないと判断し、移住先の検討を始めました。奈良県知事の税所篤は北海道長官の永山武四郎(鹿児島で同郷の人)に北海道移住に協力して欲しいと依頼しました。奈良県の税所知事は北海道に移住を希望する被災者を募りました。現十津川村の6箇村(北十津川・十津川花園・中十津川・西十津川・南十津川・東十津川村)の被災民641戸2667人(実際に移住したのは640戸2661人)が北海道に移住することを希望しました。新十津川町史編さん委員会(1991)によれば、被災民600戸2691人(実際に移住したのは600戸2489人)です。
 図7は十津川郷から北海道への行程と船の航路(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)、図8は十津川村から北海道への移住(新十津川町史編さん委員会,1991)を示しています。写真4の朝廷から賜った郷旗「菱十字」を掲げて、被災民は3班に分かれて、北海道へ移住して行きました。
図7
図7 十津川郷から北海道への行程と船の航路
(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)
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図8 写真4
図8 十津川村から北海道への移住
(新十津川町史編さん委員会,1991)
写真4 朝廷から賜った郷旗「菱十字」
新十津川町開拓記念館で2023年5月撮影
 図7に示したように、第1回(北十津川村、十津川花園村)は10月18日に郷里を出発し、徒歩で3泊4日かけて、堺や大阪に到着し、大歓迎を受けました。その後、汽車で神戸に向かいました。十津川郷では見られない黒煙を吐く巨大な機関車に度肝を抜かれたことが記載されています。遠江丸で10月24日に766名(新十津川町史編さん委員会(1991)によれば786名)を乗せて出港し、28日に小樽港に着きました(船中で1名死亡)。
 第2回(中十津川村、西十津川村)は10月23日に郷里を出発し、相模丸で10月28日に812名を乗せて出港し、11月4日に小樽港に着きました(船中で1名出産)。
 第3回(十津川花園村、西十津川村、南十津川村、東十津川村)は10月24日から29日にかけて郷里を出発し、兵庫丸で11月1日に880名を乗せて出港し、11月6日に小樽港に到着しました。
図9 図10
図9 北海道における新十津川町の位置
(三笠ジオパークの資料などをもとに作成) 
図10 新十津川町近隣の市町村
(新十津川町提供の資料)
 しかし、この頃の北海道は冬の始まりで、雪が降り始めていました。第1回は10月30日に汽車で小樽を出発し市来知(いちきしり)に到着しました。
 三笠ジオパークの公開資料などによれば、市来知の近くには幌内炭鉱があり、幌内炭鉱〜小樽間が北海道最初の鉄道として、明治15年(1882)に開通しました。この年に空知集治監が設置され、本州から送られてきた囚人が主に炭鉱労働者として収監されていました。同時期、市来知の石狩川対岸の月形町には明治14年(1881)に樺戸集治監が設置され、道路・鉄道建設労働者として囚人が収監されていました。明治の開拓初期、本州から北海道への移動手段は船で渡るしかなかったため、囚人たちに逃亡の恐れの少ない地区に集治監(現在の刑務所)が設置され、主に刑期10年以上の重罪犯が収監されました。
 11月初めの石狩川は流量が少なく、積雪や凍結もあって、船の運航はできませんでした。そのため、奈良県十津川から来た被災民は、鉄道終点の市来知から空知太(そらちぶと)(現滝川市)までの52km間は、歩いて行くことになりました。この間の荷物は上記の囚人に背負って貰らいました。歩けない老人や子供も囚人に背負って貰いました。
 空知太に着いたのは11月6日ですが、被災民に与えられた人家は暖房のほとんどない隙間風の吹き込む小さな家でした。翌年の7月までに、96人(移住者の3.6%)もの人が亡くなったと記されており、厳冬期の生活の困難さが分かります。この年の状況は、川村たかし(1977)『新十津川物語,第1巻 北へ行く旅人達』や森秀太郎(1984)『懐旧録 十津川移民』に詳しく書かれています。明治23年(1890)の春に石狩川対岸の平坦地である樺戸郡トックに入植し、「新十津川村」と命名することが決まりました。なお、移住した者の中から260戸が屯田兵に応募し、95戸が合格入隊し離村しました。
5.森秀太郎著・森巌編(1984)『懐旧録 十津川移民』
 本書は、月刊誌『北方文芸』の182号から198号まで、16回にわたり連載されたもので、新宿書房から1984年11月に刊行されました。著者の森秀太郎は、慶応二年(1866)一月奈良県十津川村(旧北十津川村、神納川流域の内野,図3参照)に生まれました。明治22年(1889)8月の集中豪雨による大災害を23歳で経験し、10月18日に第1回移民として、家族5人と一緒に遠江丸で北海道に移民(移住)した実在の人物です。11月の厳しい寒さが始まる頃に石狩川中流部に着いたため、仮小屋での厳冬期の生活は大変でした。その後、新十津川での開拓事業を苦難の末に続けられ、昭和17年(1942)9月に北海道沼田村で、喜寿(満76歳)を迎えて世を去りました。
 編者の森巌は、秀太郎の末子として、明治40年(1907)4月に北海道新十津川村で生まれました。札幌一中、北海道大学鉱山工学科卒業後、住友石炭(株)に入社されました。定年退職された後、北海道大学に戻り、論文「炭田開発論」で工学博士の学位を取得されました。
 編者のあとがきによれば、父が天理教団を追われて2,3年の間に纏めたものと記されています。この作品のもとになった記録類は、前東計男氏の熱意とご尽力により、新十津川町開拓記念館に保存されています。上下2冊の『懐旧録 十津川移民』数冊の日誌からなります。懐旧録は生まれてからの奈良県十津川村の生活と明治22年の土砂災害と北海道移住後6年の春で終わっており、以後は日誌に記載されています。著者は1世紀以上昔の教育を受けた者なので、片仮名を用いた漢字の多い固い文体で、句読点・濁点もなく、ギッシリ詰まっていて、かなり読みづらいものでした。
 これに対し、本書では編者のご尽力により日誌なども加えて、幼少期から北海道入植後11年間の明治33年(1900)の稲作の始まる頃までを取り上げています。基本的に 『懐旧録 十津川移民』の原著を踏襲し、片仮名をひらがなに変更し、句読点、濁点を入れ、読みやすくされています。
 本書を読むと、秘境の地としての奈良県十津川郷の明治初年(1868)から明治22年(1889)の大災害までの生活の状況が良くわかります。被災後の北海道移住とその後の開拓生活の苦悩が詳しく書かれています。また、3年後の明治25年(1892)に7箇月ほど奈良県十津川村に帰郷しており、十津川村と新十津川村の人々の往来や繋がりを読み取ることができます。
 明治22年(1889)夏、秀太郎は5人の仲間と霊場大峯山(山上ヶ岳1719m)に参拝するため、旅行に行きました。その帰りの8月15日に天川村の洞川(どろがわ)の宿屋に泊まりました。17日に出発し、吉野参りして下市に泊まりました。翌18日早朝発ちましたが、10時頃から大雨になり、西吉野村で昼食を取っているうちに凄い大雨となりました。今日中に天ノ川村を抜け、阪本(旧大塔村)を越えておかねば、十津川を渡る橋が落ちて帰れなくなると急ぎました。しかし、大変な豪雨で夜となり、やっと天ノ辻の峠まで到達して一泊しました。20日の朝、急いで峠道を阪本まで下ったが、橋は流され、十津川は大洪水で渡れませんでした。しばらくすると、天ノ川の山西地区(図3の①塩野新湖)が崩れて十津川を塞ぎ、これが決壊すると阪本は一軒も残らず流失すると警戒されました。表2によれば、@塩野新湖は20日8時決壊となっていますが、昼過ぎに決壊したようです。
 このため、阪本から十津川を渡ることができないので、22日早朝尾根筋を登り、大迂回して高野山に向かいました。しかし、各地で山崩れがあり、高野山に行くのも大変でした。峰伝いを経て、22日夕方高野山に着き旅館に泊まることが出来ました。その後、野迫川村経由で自宅付近の北十津川村山天にたどり着きました。翌23日熊野古道を通って神納川の自宅(北十津川村内野)に向かいました。大股から萱小屋へ登ったところで、郷里の者20人と落ち合い、自宅付近の災害状況を聞くことができました。伯母子峠を登り切って、神納川の谷を見下ろした時、至る所の山肌が頂上から抉り取られたような崩壊状況を見て驚きました。23日は五百瀬(いもせ)まで下って、政所の家に泊めて貰いました。
 明けて8月24日、川沿いの道は決壊して通れないので、尾根道を大きく迂回して、山天の頂上に登り詰め、対岸の内野にある無事な自宅を確認できました。自宅にたどり着くと、周辺の建物はほとんど倒壊・流失していました。山崩れの土砂が大量に神納川に流出したため、何十尺も埋まってしまい、川幅は昔の何倍にも広くなりました。幸いなことに、森秀太郎の一家の5人は無事であることが確認できました。秀太郎の嫁・ハルは子供を連れて、十津川花園村風屋の実家に避難していましたが、内野の家に戻ってきました。
 しかし、自宅の周辺は大規模な崩壊が何箇所も発生し、多数の死者がでたため、秀太郎は今後この地域では生活できないと判断し、家族5人と一緒に北海道に移住することを決意しました。
 その後の経緯は本書内に数え歌がありましたので、紹介いたします。
二章 移住の旅 (p.140-159)
1 仕度
 一ツとせ ひとつ本年八月に 水害あったるばっかりに 移住話が始まった
 二ツとせ 墳墓の地を去り北海に 移る移らぬ大騒ぎ 家族親類半喧嘩
 三ツとせ 皆さん行くか行かぬかと 移住話で日を送る 百事の仕事もさし惜いて
 四ツとせ 夜昼役所へ詰めかけて 移住願書をさしいだす 許可は遅しと待ちかねる
 五ツとせ 愈々(いよいよ)日限決まりたら 菱十紋の襟印 皆さん仕度にとりかかる
2 長途の旅
 六ツとせ 無理から荷物を運ばんと 夜昼かけて大騒ぎ 多人の勢で持ち出した
 七ツとせ 情けや憐れと村人が 別れ惜しんで嘆きつつ 暇乞いをばして別る
 八ツとせ ようよう伯母子へよじ上り 住み慣れふる里後にみて 向こうへ一足後に三つ
 九ツとせ 今宵は大股その翌は 弘法大師に参拝し その夜は高野の龍泉院
 十とせ  ()うから整列旗を立て 勇んで下る不動坂 その夜は紀見の大祗屋(おはらいや)
 十一とせ (いと)さんかかさん爺さんまで 十津川移住者通るから (むご)や憐れと(かど)に出て
 十二とせ 二里半行けば三日市 昼飯いたしその晩は 堺薩摩屋に一宿す
 十三とせ 早速九時の汽車に乗り すぐに難波のステーション その日は半日休養す
 十四とせ 四方八方有志者が 手拭き(さらし)と義捐物 降るが如くに贈られた
 十五とせ 五時から仕度し宿を出て 梅田の汽車に打ち乗りて 神戸に赴く嬉しさよ
 十六とせ 六時に宿を出立し 遠江丸(とおとうみまる)に打ち乗りて 正午十二時出帆す
 十七とせ 広き大海浪を切り 白泡立てて飛ぶ如く 五里や七里は夢の間よ
 十八とせ 早く北海北海と 思えば間もなく五日目に 小樽みなとに着したり
 十九とせ 苦痛であったよ船の中 やれ嬉しや宿につき 装束(しょうぞく)とって楽休み
 二十とせ 日本国を七、八分 廻り来るよな夢ごこち 生まれ故里どこじゃやら
3 覚悟決めつつ
 一ツとせ 一番汽車に打ち乗りて 札幌通り市来知(いちきしり) その日は延長二十五里
 二ツとせ 二日の日から大雪で 空知に赴く気の辛さ 年寄り子供は難渋する
 三ツとせ 道は真北に十一里 川を渡りて兵屋に 六日の日より到着す
 四ツとせ 夜昼かけて官吏らが 非常に尽力下されて 船中陸でも保護を受く
三章 兵村の冬 (p.160-165.)
1 物価問題(原著で順番が変わっています)
 五ツとせ 移住者来るよと諸商人(あきんど) この時剥がねばいつ剥ごと 小屋掛け並べて客を待つ
 七ツとせ 何でも売ろうと兵屋へ 朝から晩まで詰めかける 我も我もと押し売りに
 八ツとせ やれ有難やこの頃は 土倉さんが店を出し ほかの商人めし上り
 六ツとせ 無理な口銭とるからに 日に日に減りに客が減る 小屋店次第に疲弊する
 九ツとせ くどく役場の御諭(おさと)しで ほかの店より買わぬよう 小屋店ますます疲弊する
2 どこまでも人は人
 十一とせ 一・二・三とみな着し 上杉・久保の指令にて 更谷さんが総代よ
 十二とせ 日曜も土曜も休みなく 朝から晩まで事務をとる 用が多用で是非もない
 十五とせ 五十組長什長(じゅうちょう)と役割設け組内の 用事万端整理する
 十三とせ 山中なれど空知太 鳥もとまらぬ賑わいで 人馬の通行絶え間ない
 十四とせ 市街の如くに兵屋が 縦横基盤に立ち並び 道は七つの横道よ
 十とせ  屯田兵に移住者も 九十三名志願して 去年三十日入隊す
 北海道・新十津川村(昭和32年(1957)より町制施行)の開拓・発展の経緯については、コラム86で説明します。
引用・参考文献
芦田和男(1987):明治22年(1889)十津川水害について,社団法人全国防災協会,二次災害の予知と対策,No.2,河道埋没に関する事例研究,p.37-45.
井上公夫(2012a):紀伊半島における1889年の天然ダム災害,砂防と治水,206号,p.56-61.
井上公夫(2012b):1889年と2011年に紀伊半島で発生した土砂災害の比較,砂防学会台風12号による紀伊半島で発生した土砂災害中間報告会,キャンパスプラザ京都,34p.
井上公夫(2012c):形成原因別(豪雨・地震・火山噴火)にみた天然ダムの比較,砂防と治水,207号,p.88-93.
井上公夫(2017):コラム28 明治22年(1889)紀伊半島豪雨による土砂災害,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,丸源書店,Ⅰ,p.215-223.
井上公夫(2019a):コラム57 大規模土砂災害と防災施設の現地見学会①−和歌山県田辺市奇絶峡付近の風穴と巨石積堰堤を歩く−,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,丸源書店,V,p.77-93.
井上公夫(2019b):コラム58 大規模土砂災害と防災施設の現地見学会②−昭和28年(1953)の日高川彌谷災害を歩く−,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,丸源書店,Ⅲ,p.94-109.
井上公夫(2019c):コラム64 群馬県北東部尾瀬沼南東部の巨大地すべり地形,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,丸源書店,Ⅲ,p.196-213.
井上公夫(2022a):コラム77 和歌山現地学習会・歴史から学ぶ防災2021―命と文化遺産とを守る―,田辺市・上富田町での現地学習会,20p.
井上公夫(2022b):コラム81 尾瀬沼南東部の巨大地すべり地を歩く−(2),20p.
井上公夫・足立勝治・佐藤昌人(2023):尾瀬沼南東部の巨大地すべり地の地形特性と変動状況について,令和5年度(公社)砂防学会研究発表会,R4-5.
井上公夫・土志田正二(2012):紀伊半島の1889年と2011年の災害分布の比較,砂防学会誌,65巻3号,p.42-46.
井上公夫・土志田正二・井上誠(2013):1889年紀伊半島災害によって十津川流域で形成・決壊した天然ダム,歴史地震,28号,p.113-120.
井上公夫・今村隆正・島田徹(2015):旧版地形図による1889年と2011年の十津川流域の土砂災害分布図作成,平成27年度砂防学会研究発表会概要集,A-142-143.
今森直紀・田中健貴・井上公夫・永田雅一・中根和彦・今村隆正(2017):十津川流域における明治22年(1889)災害の土砂災害分布についての考察,平成29年度砂防学会研究発表会概要集,R5-2, p.262-263.
宇智吉野郡役所(1891):吉野郡水災史(十津川村,1977-81復刻),巻之壹:天川村,巻之弐:大塔村,巻之三:野迫川村,巻之四:北十津川村、巻之五:十津川花園村,巻之六:中十津川村,巻之七:西十津川村,巻之八:南十津川村,巻之九:東十津川村,巻之十:宋檜村・南芳野村,巻之十一:賀名生村.
NHKサービスセンター(1993):ドラマ「新十津川物語」,NHK番組情報,10p.
蒲田文雄・小林芳正(2006):十津川水害と北海道移住,シリーズ日本の歴史災害-2,古今書院,181p.
河南良男・吉村元吾・今森直紀・田中健貴・千東圭央・井上公夫・永田雅一・中根和彦・今村隆正(2017):有田川上流域における昭和28年(1953)災害の土砂災害分布について,平成29年度砂防学会研究発表会概要集,Pa-12, p.410-411.
川村たかし(1977-88):新十津川物語,第1巻 北へ行く旅人たち,255p.,第2巻 広野の旅人たち,253p.,第3巻 石狩に立つ虹,245p.,第4巻 北風にゆれる村,261p.,第5巻 朝焼けのピンネシリ,261p.,第6巻 雪虫の飛ぶ日,277p.,第7巻 吹雪く台地,287p., 第8巻 吠える海山,311p.,第9巻 星の見える家,295p.,第10巻 マンサクの花,303p.,偕成社,(1992年から偕成社文庫刊行)
川村たかし(1987):十津川出国記,北海道新聞社,道新選書,北海道新聞社,285p.
川村優里・川村たかし監修(2004):「新十津川物語」と北海道,16p.
菊池万雄(1986):日本の歴史災害―明治編―,古今書院,396.
建設省中部地方建設局(1987):天然ダムによる被災事例調査,実例資料の統計的分析,財団法人砂防・地すべり技術センター,74p.
国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター(2021):60年毎(1889年,1953年,2011年)に繰り返される紀伊半島の歴史的大規模土砂災害,125p.
新十津川町開拓記念館(2014):ようこそ新十津川町開拓記念館へ,9p.
新十津川町観光協会(2019):北海道新十津川町,31p.
新十津川町教育委員会(2020):新十津川町の歩み,新十津川町開拓記念館,9p.
新十津川町史編さん委員会(1991):新十津川百年史,新十津川町,1356p.
新十津川町総務課企画調整グループ(2021):お米のまち新十津川町,HOKKAIDO MAGAZINE,JP01,35p.
新十津川町史編さん委員会(1991):新十津川百年史,新十津川町,1356p.
田畑茂清・水山高久・井上公夫(2002):天然ダムと災害,古今書院,口絵カラー,8p.,本文,205p.
田畑茂清・井上公夫・早川智也・佐野史織(2001):降雨により群発した天然ダムの形成と決壊に関する事例研究−十津川災害(1898)と有田川災害(1953)−,砂防学会誌,53巻6号,p.66-76.
千葉徳爾(1975):明治22年十津川災害における崩壊地の特性について,(1),(2),水利科学,19巻2号,p.38-54.,4号,p.20-38.
十津川村史編さん委員会(2021):十津川村史,地理・自然編,670p.
十津川村役場総務課(2012):平成23年台風12号「紀伊半島大水害」,23p.
十津川村歴史民俗資料館(2006):大水災害,明治22年十津川郷における大水害と北海道移住の記録,20p.
永田雅一・井上公夫・大矢幸司・今森直紀・奥山悠木・今村隆正(2016):奈良県十津川村における土砂災害と55の地区別(大字)の人口の変遷,平成28年度砂防学会研究発表会概要集,R1-24,B,p.48-49.
奈良県大和移住・交流推進室:十津川の縁,特集新十津川物語,Vol.3,6p.
平野昌繁・諏訪浩・石井孝行・藤田崇・後町幸雄(1984):1889年8月災害による十津川災害の再検討―とくに大規模崩壊の地質構造規制について―,京都大学防災研究所年報,27B-1,p.369-386.
三笠ジオパーク:三笠エリア〜開拓を担った囚人たちの足跡,インターネット公開資料
https://www.city.mikasa.hokkaido.jp/geopark/detail_sp/00003767.html
https://www.city.mikasa.hokkaido.jp/geopark/detail/00003383.html
水山高久監修・森俊勇・坂口哲夫・井上公夫編著(2011):日本の天然ダムと対応策,古今書院,202p.
明治大水害誌編集委員会(1989):紀州田辺明治大水害―100周年記念誌―,207p.
森秀太郎著・森巌編(1984):懐旧録 十津川移民,新宿書房,296p.
吉村元吾・木下篤彦・田中健貴・菅原寛明・坂口武弘・西岡恒志・井上公夫・中根和彦・今村隆正(2018):和歌山県有田川上中流域における昭和28年(1953)の土砂災害について,平成30年度砂防学会研究発表会概要集,P-094,p.557-558.
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