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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
 コラム77 和歌山現地学習会・歴史から学ぶ防災2021
 ―命と文化遺産とを守る―,田辺市・上富田町での現地学習会
1. 現地学習会「歴史から学ぶ防災2021―命と文化遺産とを守る―」
 平成23年(2011)9月の紀伊半島大水害では、多くの命と文化遺産が失われました。和歌山県立博物館では、翌24年(2012)春に、災害時における文化財(未指定も含む)のレスキュー活動の必要性を一般の方に訴える特別展「災害と文化財―歴史を語る文化財の保全―」を開催しました。平成26年(2014)度からは、文化芸術振興補助金(国庫補助)による「地域に眠る『災害の記憶』と文化遺産を発掘・共有・継承する事業」(事業主体:和歌山県立博物館施設活性化実行委員会)で、「災害の記憶」を伝える記念碑や古文書の調査を行い、その成果を地域住民の方々に還元するために、和歌山県各地で現地学習会を開催してきました。その成果として、同実行委員会から『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝える』T〜Z(A5判,16ページ)と高校生版(A4判,16ページ)が発行され、和歌山県立博物館のHPで公開されています。
 T 【御坊市・美浜町・日高川町・那智勝浦町】,平成27年(2015)1月15日
 U 【すさみ町・串本町・太地町】,平成28年(2016)1月17日
 V 【由良町・印南町】,平成29年(2017)1月17日
 W 【新宮市・北山村】,平成30年(2018)1月17日
 X 【日高町・白浜町】,平成31年(2019)1月17日
 「災害の記憶」を未来に伝える−和歌山県の高校生の皆さんへ−,令和2年(2020)3月11日
 Y 【湯浅町・広川町】,令和3年(2021)1月17日
 Z 【田辺市・上富田(かみとんだ)町】,令和4年(2022)2月26日
写真1 『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝える』T〜Zと高校生版冊子
写真1 『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝える』T〜Zと高校生版冊子
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 平成紀伊半島大水害から10年が経った令和3年(2021)度には、上記事業の調査成果を紹介する現地学習会が、令和4年(2022)2月26日(上富田町)と27日(田辺市)に開催されました。
 和歌山県立博物館施設活用化事業実行委員会では、文化庁、田辺市、田辺市教育委員会、上富田町、上富田町教育委員会の後援を受け、和歌山県教育庁文化遺産課、和歌山県立文書館、和歌山大学紀伊半島価値共創基幹の協力を得て、現地学習会の準備を進めてきました。この現地学習会を通じて、参加者の皆さんに過去の東南海・南海地震津波、水害などに関する「災害の記憶」や地域に遺されている文化遺産の情報を共有するとともに、過去の歴史に学ぶ防災教育・地域防災、文化遺産の保存・活用のあり方について考える場としたいと考えていました。
 しかし、新型コロナ禍が全国的に猛威を振るい、和歌山県でも新型コロナウイルス対策の「まん延防止等重点措置」が3月6日まで延長されました。このため、上富田町と田辺市で開催予定だった現地学習会は、一般参加者を入れない無観客で実施され、YouTubeで公開するために発表が撮影されました。これらの映像などは、小冊子『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝える』Z(2月26日に発行)とともに、和歌山県立博物館のHPで、動画(YouTube)が3月末に公表されました。
 以下に、令和3年度(2021)の現地学習会のプログラムを示します。
2022年2月26日(土)13時30分〜16時30分 上富田文化会館小ホール
講演 紀伊半島・富田川流域の土砂災害,p.2-11.
一般財団法人砂防フロンティア整備推進機構 井上 公夫
報告1 円鏡寺に残された富田川災害記―土砂ダムの恐怖を伝える―,p.12-17.
和歌山大学 橋本 唯子
報告2 富田川に刻む130年の歴史―記録に聞く記憶の声―,p.18-27.
和歌山大学 鈴木 裕範
報告3 龍松山城跡と山本氏,p.28-35.
和歌山県立紀伊風土記の丘 田中 元浩
報告4 興禅寺所蔵の文化財について―寛文期から元禄期頃を中心に−,p.36-41.
和歌山県立博物館 新井 美那

2022年2月27日(日)13時30分〜16時30分 田辺市立中部公民館大会議室
報告1 田辺市に残る災害の記録―近代文化遺産を中心に―,p.44-49.
田辺市教育委員会 玉置 梨沙
報告2 1707年宝永地震と1715年会津川洪水―田辺城下町・江川の被害と防災対策を 中心に―,
    p.50-57.
和歌山県立博物館 前田 正明
報告3 1854年安政地震津波の記憶,p.58-67.
和歌山県立文書館 藤  隆宏
報告4 郡役所の生字引、明治22年大水害を記録する―宇井可道「璞屋随筆」から―, p.68-73.
和歌山県立文書館 砂川 佳子
報告5 田辺市・上富田町の扇踊りの系譜と現状―田辺市鮎川の調査から―,p.74-79.
和歌山大学 吉村 旭輝
報告6 明治と平成の大水害の記憶と教訓,p.80-85
和歌山大学 後  誠介
 (ページ数は現地学習会の「発表資料集」のページ数です)

 現地学習会は2日間ありましたが、井上は2月26日の上富田町の会場のみ参加とし、東京・羽田空港から南紀白浜空港経由で日帰りしました。この現地学習会のことを、和歌山県民だけでなく、日本全体に紹介すべきだと考え、私の講演内容を中心に紹介します。

 令和2年度(2020)の現地学習会は、令和3年(2021)2月27日(土)に広川町役場、28日(日)に湯浅えき蔵で実施されました、この内容については、現地学習会「歴史から学ぶ2020」として、和歌山県立博物館のHPで公開されています。

 井上は、いさぼうネット「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」というシリーズコラムを2015年4月から開始しています。和歌山県関係については下記のコラムで説明しました(パソコンなどで「いさぼう」と入力して、「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」をクリックすると、コラムのすべてを閲覧できます)。
 https://isabou.net/knowhow/colum-rekishi/index.asp

 >>コラム28 明治22年(1889)紀伊半島豪雨による土砂災害 (2017年2月15日公開)
 >>コラム57 大規模土砂災害と防災施設の現地見学会① (2019年3月28日公開)
   −和歌山県田辺市奇絶峡付近の風穴と巨石積堰堤を歩く−

 >>コラム58 大規模土砂災害と防災施設の現地見学会② (2019年4月25日公開)
   −昭和28年(1953)の日高川町彌谷災害を歩く


2.明治22年(1889)の明治紀伊半島大災害
 紀伊半島では、明治22年(1889)に平成23年(2011)の平成紀伊半島災害以上の激甚な土砂災害が発生し、大規模な天然ダム(当時「新湖」と呼ばれた)が数多く形成されました(宇智吉野郡役所,1891;芦田,1987;平野ほか,1984;鎌田・小林,2006)。
 私たちは、平成23年の平成紀伊半島災害前後に現地踏査や史料調査を行いました(田畑ほか,2002a,b;水山ほか,2011;井上,2012a,b,c;井上・土志田,2012;井上ほか,2013)。
 今回の現地学習会では、砂川佳子が旧田辺城下の被害(27日の報告4)を、後誠介が左会津川上流の長野の被害(同報告6)について、説明しています。
 明治22年(1889)8月19日〜20日の台風襲来によって、奈良県十津川流域(宇智吉野郡)では、大規模な崩壊・地すべりが1146箇所、天然ダムが28箇所(移動土砂量の総計2.0億m3)以上発生し、245名の死者・行方不明者が報告されています。1889年の十津川村(当時は北十津川村,十津川花園村,中十津川村,西十津川村,南十津川村,東十津川村の6箇村)の人口は1万2862人であったことから、死者・行方不明者は全人口の1.9%にも達し、被害の大きかったことが分かります。
 この十津川流域では幕末時に勤皇志士を多く輩出したことから、明治天皇の計らいもあって、被災家族641戸、2587人(全人口の20.1%)が北海道に移住し、新十津川村を建設しました(川村,1987;蒲田・小林,2006)。これらのことから、奈良県の災害状況を調査した論文や本では、「十津川 災害(大水害)」と呼称されることが多くなっています。
図1 紀伊半島の郡・市別の明治22年紀伊半島災害(国土交通省近畿地方整備局 大規模土砂災害対策技術センター,2021
図1 紀伊半島の郡・市別の明治22年紀伊半島災害(国土交通省近畿地方整備局 大規模土砂災害対策技術センター,2021)
   (明治大水害誌編集委員会,1989をもとに作成)

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 図1は、明治大水害誌編集委員会(1989)『紀州田辺明治大水害』をもとに作成した紀伊半島の郡・市別の明治22年紀伊半島災害の状況を示しています(国土交通省近畿地方整備局 大規模土砂災害対策技術センター,2021)。左図が山崩れ数、右図が犠牲者数(死者・行方不明者を含む)を示しています。
 山崩れ数は和歌山県西牟婁郡が1万9738箇所と最も多く、日高郡7647箇所、有田郡2944箇所となっており、奈良県の吉野郡は1147箇所と思いのほか少ないようです。これは奈良県側のデータが50間(91m)以上の山崩れのみを計測しているためと思われます。
 犠牲者数でみると、西牟婁郡が906人(表1では907人となっている)で最も多く、奈良県吉野郡249人、日高郡219人となっています。明治22年(1889)災害は、「十津川災害(大水害)」と呼ばれることが多かったのですが、紀伊半島全体に山崩れ、犠牲者が及んでいるので、「明治紀伊半島災害」と呼ぶべきだと思います(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)。
 図2は、明治22年(1889)大水害の和歌山県・奈良県における死者数を市町村別に示したもので、明治大水害誌編集委員会(1989)と関係市町村誌をもとに集計したものです(水山ほか,2011)。明治22年(1889)大水害時に、和歌山県内で死者1247人、半壊2344戸、床上・床下浸水3万3081戸、田畑流出・埋没・冠水8342haもの被害がでていたことはあまり知られていませんでした。昭和64年(1989)当時の市町村別犠牲者数でみると、上富田町が最も多く394人、田辺市300人(旧市域のみ)、白浜町98人となっています。
 図3は、秋津川・富田川流域の明治22年災害時の町村別犠牲者数(当時の町村別)を示しています(明治大水害誌編集委員会,1989)。表1は図3のもとになった表で、田辺・西牟婁郡における町村別被災統計を示しています(明治大水害誌編集委員会,1989)。西牟婁郡役所調では、郡全体の死者数は907人(図1では906人)となっていますが、郡警察署報告の死者数は847人となっています(警察署の集計は災害直後に行われました)。
図2 1889年紀伊半島災害による和歌山奈良県における犠牲者数(水山ほか,2011)
図2 1889年紀伊半島災害による和歌山奈良県における犠牲者数(水山ほか,2011)
   (明治大水害誌編集委員会,1989をもとに作成)

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図3 秋津川・富田川流域の明治22年災害時
の町村別死者者数
図3 秋津川・富田川流域の明治22年災害時 の町村別死者者数
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表1 田辺・西牟婁郡における町村別被災統計
(明治大水害誌編集委員会,1989)
表1 田辺・西牟婁郡における町村別被災統計
(明治大水害誌編集委員会,1989)

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 これらの図・表でみると、西牟婁郡役所の調査では、上富田町内の朝来(あっそ)村で118人、生馬村で111人、岩田村で102人と、富田川流域での死者数が極めて多かったことが判ります。田辺市域(平成17年(2005)以前の旧市域のみ)では、田辺町150人、湊町50人、下秋津村45人、上秋津村22人などで、計300人となっています。

3.奈良県十津川村での激甚な災害と北海道移住
 表2は、宇智吉野郡役所(1891)『宇智吉野郡水災誌』による村別の戸数・人口・被害状況,北海道への移住戸数・移住者数です(国土交通省近畿地方整備局 大規模土砂災害対策技術センター,2021)。当時の村毎に、面積・戸数・流家戸数・潰家戸数・全壊戸数・北海道移住戸数・明治22年(1889)人口・死者数・北海道移住者数・大規模崩壊数・新湖数が示されています。十津川流域の9箇村全体では、3905戸、2万0020人(現十津川村の6箇村で2401戸、1万2852人)の人が住んでいましたが、この災害で、流家365戸、潰家200戸、死者240人(現十津川村で流家264戸、潰家148戸、死者168人)の被害がありました。

表2 吉野郡水災誌による村別の戸数・人口・被害状況,北海道への移住戸数・移住者数
 (国土交通省近畿地方整備局 大規模土砂災害対策技術センター,2021)

表2 吉野郡水災誌による村別の戸数・人口・被害状況,北海道への移住戸数・移住者数
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 十津川郷は幕末時、勤皇志士を多く輩出し、京都御所などの警備にあたりました。このことから、明治天皇の配慮もあり、奈良県知事と北海道長官の合意で北海道移住が決まりました。十津川郷(現十津川村)6箇村の被災民の中から、641戸、2667人(明治22年第1次移住と明治23年第2次移住の合計値)が北海道に移住しました。
 川村たかし(1931〜2010)は、奈良県五條市出身の児童文学作家で、全10巻の『新十津川物語』(1977〜1988)を著しています。南十津川村那知合に住んでいた主人公・津田フキは、明治22年(1889)に9歳で大災害を受け、両親を失いました。その後、北海道に移住し、新十津川村で開拓を行い、80歳になるまでの本人や子・孫・曾孫の物語です。市町村の図書館や小・中学校の図書館で借りられると思いますので、ぜひお読みください。また、昭和62年(1987)に北海道新聞社(道新新書)から、『十津川出国記』が成人用として出版されています。
 平成6年(1994)に北海道十津川町に「新十津川物語記念館」が設立され、川村氏は名誉館長となりました。平成10年(1998)に第3代日本児童文芸協会長に就任されました。平成14年(2002)に紫綬褒章を受章され、五條市名誉市民となっています。
 森(1984)、川村(1987)、新十津川町史編さん委員会(1991)、十津川村歴史民俗資料館(2006)によれば、激甚な災害の去った後のあまりにも無残な光景に、被災者たちは打ちひしがれ、ただ呆然とするだけでした。しかし、時間が経過するうちに、人々たちは生き延びることの大切さに気付き、全員で話し合い、今後一致団結して現状を乗り切ることを誓い合いました。十津川地域は幕末に勤皇の活動を行ったため、「全村士族」の誇りが高かったようです。
 移住者は、朝廷から賜った郷旗「菱十字」を掲げて、第一陣は10月18日〜24日に十津川村を出発しました。十津川郷から徒歩で3泊4日を要して堺や大阪に到着し、大歓迎を受けました(当時の新聞記事)。その後、汽車で神戸に向かいましたが、十津川郷では見たこともない黒煙を吐く巨大な機関車に度肝を抜かれたようです。
写真2 奈良県十津川村役場の津田フキの像 写真3 北海道新十津川町役場の津田フキの像
写真2 奈良県十津川村役場の津田フキの像 写真3 北海道新十津川町役場の津田フキの像
(9歳のフキは新十津川村(当時)を向き、17歳のフキは母村の十津川方向を向いています)

図4 森秀太郎『懐旧録十津川移民』の表紙 図5 十津川村から北海道への移住
図4 森秀太郎(1984)『懐旧録十津川移民』の表紙 図5 十津川村から北海道への移住
(新十津川町史編さん委員会,1991)
左上の「菱十字」旗は十津川村歴史民俗資料館で撮影

 第1陣は遠江丸で10月24日に神戸港を出港し、10月28日に小樽港に到着しました。しかし、この頃の北海道は冬の始まりで、雪が降り始めていました。第1陣は10月30日に小樽駅を出発し、市来知(いちきしり)駅(現三笠市)まで到着すると、空知太(そらちぶと)(現滝川市)までの52kmは、雪中を徒歩で歩くことになりました。空知太に着いたのは11月6日ですが、被災民に与えられた人家は隙間風が吹き込み、暖房が殆どない小さな家でした。翌年の7月までに90人もの人が亡くなりました。移住した者の中から260戸が屯田兵に応募し、95戸が合格入隊しました。
 写真2は奈良県十津川村役場前にある津田フキ(9歳)の像、写真3は北海道新十津川町役場の津田フキ(17歳)の像です。9歳のフキは北方向の新十津川村(当時)を向き、17歳のフキは南方向の母村の(十津川村)方向を向いています。

4 デレーケの災害直後の現地視察
 明治政府は、荒廃した河川と港湾を再生するために、オランダから数名の水工技術者を招聘しました。その中の一人ヨハニス・デレーケ(1842〜1913,写真4)は、内務省御雇工師として、明治6年(1873)に来日し、日本各地の河川・砂防現場を巡視し、30年もの長期間にわたって様々な技術指導を行っています(上林,1999)。明治22年(1889)頃は淀川河川改修の技術指導のため、大阪周辺にいました。明治紀伊半島災害直後の困難な時期に、高野山から徒歩で奈良県と和歌山県の現地視察を行っています。図6は奈良県側の視察ルートで9月に行っています。その後、和歌山県南部に向かい、三栖村(現田辺市)の西尾岩吉村長(1854〜1894)が現地案内しています。デレーケは水害の原因を以下のように述べています。
 「其初薄々の雲海洋に起こりて、黒風之を送り、幾んど十里郡日高川の海口を劃り、東西に向て進行せり。これに雨を含むこと頗る多くして、太だ重きが為に、高く騰るを得ず。故に東西牟婁二郡の間に峙ち、海面を抜く事三千八百七十尺(1161m)なる大塔峯に、右の一角を障えられ、前面は奈良県に聳えて四千尺(1200m)なる釈迦嶽に遮られ、直行突進能わず。雲将その神鞭鬼取の意の如くならざるを怒り、縦横顚狂噴瀉して遂に二処に近接の関係ある大和の十津川、我紀伊の日置川・富田川に災すること甚し・・・・」(明治大水害誌編集委員会,1989)。
 『西尾岩吉日誌』によれば、デレーケを9月30日に現地案内していますが、具体的にどのような技術指導したのか判明していません。
図6 奈良県内のデレーケの現地視察ルート(井上ほか,2015) 写真3 デレーケの胸像
写真4 デレーケの胸像
京都府・不動池砂防歴史公園 砂防フロンティア整備機構寄贈
図6 奈良県内のデレーケの現地視察ルート(井上ほか,2015)
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5.富田川流域の明治紀伊半島災害と明治期の砂防事業
 図7は、富田川中・下流域の明治22年(1889)の紀伊半島災害土砂災害・洪水氾濫範囲(冨貴建男氏原図,2007年ファイルを閲覧)を明治44年(1911)測図の旧版地形図に示したものです。図3と表1 に示したように、富田川流域では565人もの死者数となりました。今回の現地学習会では、橋本唯子(1日目の報告1)、鈴木祐範(1日目の報告2)が、三宝寺・円鏡寺・観音寺などの記録を説明されています。
図7 富田川流域の氾濫範囲(出典:冨貴建男氏)に追記
図7 富田川流域の氾濫範囲(出典:冨貴建男氏のファイル)に追記
 1/50000旧版地形図「田辺」(1911年測図)

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 図7の下部には富田川支流の生馬川が流れていますが、上流部の篠原谷には崩壊・河道閉塞と上流側に天然ダムの湛水域(青色で表示)が示されています。明治22年(1889)の大災害から4年後の明治26年(1893)8月、上富田町は再び水害に見舞われました。明治26年8月18日午前1時頃、天然ダムは満水となって決壊し、生馬川を決壊洪水が流下しました。住民は4年前の大災害の教訓を活かし、高台にある観音寺に避難していて助かりました。生馬郷土史 小学校百年史編集委員会(1980)『生馬郷土史 小学校百年史』によれば、生馬小学校が流失したと記されています(鈴木,2022,1日目の報告2)。
 図8は、明治44年(1911)測図の旧版地形図(1/5万「龍神」)を示しています。この図を見ると、富田川の各支川の最上流部付近に大規模な崩壊地が確認できます。中には幅が300m近い大規模な崩壊地もあります。これらの崩壊地の多くは、明治22年(1889)に発生したものと考えられます。の箇所は笠塔森林公園の範囲で、富田川右支中川の最上流部・成川谷の最上流付近、笠塔山(標高1049m)の麓にあたります。笠塔山の南麓には大規模な崩壊地が存在し、現地調査によってNo.0〜9地点に石積堰堤が連続して存在することが判りました。これらの堰堤はコンクリートを使用していない空石積7基、使用している練石積5基の堰堤でした。また、図9の赤色立体図を見ると、で示した渓流部にも石積堰堤が存在することがわかります。この地域の現地調査は実施していませんので、他の大規模崩壊地を含めて、新しい情報があれば、教えて下さい。
図8 旧版地形図に記録された富田川上流の大規模な崩 図9 笠塔山山麓の石積砂防堰堤の位置
図8 旧版地形図に記録された富田川上流の大規模な崩
国土地理院,明治44年(1911)測図 1/5万旧版地形図「龍神」
図9 笠塔山山麓の石積砂防堰堤の位置
国土交通省近畿地方整備局
大規模土砂災害対策技術センター(2021)
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 図10の旧版地形図(1911年測図の1/5万「田邊」図幅)によれば、右会津川の中流に高尾山下部の大規模崩壊と天然ダム(湛水区域は奇絶峡と呼ばれています)が示されています。ふるさと上秋津編集委員会(1984)には、右会津川の右支川の左向谷川流域も明治22年(1889)8月の豪雨時に激甚な被害を受けたことが記されています。現地調査によれば、左向谷川の1.5kmの迫戸に、写真5の巨石堰堤がありました。空石積で1m前後の巨石が積まれています。

 巨石堰堤のある左向谷川の上流には「護郷之碑」があり、裏面に「明治堰堤」(明治41年(1908)完成)と記されています。しかし、ふるさと上秋津編集委員会(1984)によれば、この堰堤の規模(20〜30mと書かれているが、高さなのか意味不明)や建設経緯、並びにデレーケとの関係は不明です。
写真5 迫戸の巨石堰堤(2018年撮影)
写真5 迫戸の巨石堰堤(2018年撮影)
(国土交通省近畿地方整備局
大規模土砂災害対策センター,2021)
図10 明治22年(1889)に大崩壊した高尾山
図10 明治22年(1889)に大崩壊した高尾山
(1911年測図1/5万旧版地形図「田邊」)

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6.昭和紀伊半島災害
 昭和28年(1953)7月17日〜18日の災害は、有田川の中・上流域(有田郡・伊都郡)で大規模な土砂災害を発生させたため、「有田川災害」と呼ばれることが多いのですが、図11、図12に示したように、和歌山県・奈良県のほぼ全域で、土砂・洪水災害が発生しています。このため、「昭和28年紀伊半島災害」と呼ぶべきだと思います。特に、有田川上流域では深層崩壊・天然ダムが多数発生・決壊し、大きな被害が発生しました(和歌山県編,1963;和歌山県伊都郡花園村,1982;藤田・諏訪,2006)。
 和歌山県内で死者・行方不明者1066人,重傷者6619人、家屋の全壊4193戸、流失4407戸、罹災者は24万人にも上りました(近畿大学連合水害科学調査団,1953)。災害を引き起こした豪雨は、7月17日19時頃から降り始め、18日早朝まで降り続きました。有田川流域では18日3時〜5時頃が最も激しく、総雨量は500〜1000mmにも達しました。
図11 昭和28年(1953)災害の被害状況 図12 昭和28年(1953)災害の郡市別・行方不明者数
図11 昭和28年(1953)災害の被害状況
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図12 昭和28年(1953)災害の郡市別・行方不明者数
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(近畿大学連合水害科学調査団,1953)

 図13は、昭和28年災害で最も被害の大きかった有田川最上流部の花園村災害調査図で、 旧花園村の坪井初太郎議員が昭和28年(1953)11月に作成したものです。花園村は、明治22年(1889)4月1日に町村制の施行により、簗瀬村・北寺村・新子村・池ノ窪村・中南村・久木村が合併して発足しました。花園村(現かつらぎ町花園支所)は、平成15年(2003)の人口が573人、面積47.44km2の小さな村でした。明治に至るまで、高野山の直轄寺領として手厚い保護を受けてきました。花園という地名は、高野山の寺院仏閣へ花を奉献する土地であったと伝えられています。村内には100に近い寺院が営まれ、学僧たちが思考を深める修行の場となっていました。平成17年(2005)10月1日にかつらぎ町に編入され、現在はかつらぎ町大字花園となって地名が残っています。
 明治22年(1889)以降、村の中心は北寺で、花園村役場がありました。昭和28年(1953)の激甚な豪雨災害で、村は激甚な被害を受けました。図11は、災害当時村会議員であった坪井初太郎らが災害状況を詳細に現地調査して作成(11月完成)したものです。この図には道路入りと無しの2枚が作成されていますが、図11は道路入り地図で、元京都大学防災研究所の諏訪浩様(2021年10月逝去)が撮影されたもので、電子データを頂きました。これらの地図は傷みがひどかったのですが、現在は補修され、和歌山県立文書館に保管されています。
 図の欄外には、当時の花園村の被災状況が詳しく描かれていて、当時の村の悲惨な状況を読み取ることができます。昭和28年(1953)7月18日の災害前の花園村は、戸数345戸、人口1965人でしたが、死者111名(人口の5.6%)、全壊・流失118戸(全戸数の34.2%)、半壊62戸(同17.9%)と半数以上の人家が激甚な被害を受けました。
図13 花園村災害調査図(坪井初太郎村会議員,昭和28年11月作成 道路入り地図)
図13 花園村災害調査図(坪井初太郎村会議員,昭和28年11月作成 道路入り地図)
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 写真6に示したように、村の中心であった北寺集落は、7月18日の大崩壊によって、村役場を含めてほぼ全壊・埋没し、97名が死亡する悲惨な災害となりました。崩壊地の右側にある観音堂のみ残り、その中にいた少女一人が助かりました
 一時は花園村全域がほぼ完全に孤立状態となり、北寺地区の住民は細い尾根道を登って、高野町に避難しました。避難物質の多くがこの道を通って、人肩で花園村の各地区に運ばれました。花園村役場も被災後しばらくは、高野山の寺院におかれました。
 図14の赤色立体図に示したように、瀬の谷の崩壊は7月18日朝発生し、瀬の谷沿いの人達は大日堂に避難しました。しかし瀬の谷上流からの崩壊・土石流が発生したため、大日堂は破壊・流出しました。直前に大日堂から逃れた人達は、金剛寺と瀬の谷の崩壊地の間の尾根部を登って、高野町に徒歩で避難しました。
 金剛寺で発生した大崩壊(崩壊土砂量520万m3)は、雨が降りやんだ7月20日午前1時頃発生し、有田川は河道閉塞され、高さ60m、湛水量1700万m3の天然ダムが形成されました。図14に水色で示しましたが、湛水域は6.6km上流の久木(くき)地区まで達しました。
 2か月後の9月25日に、台風13号の襲来によって、豪雨が降り続いたため、天然ダムは決壊し、決壊洪水が有田川下流部を襲いました。この決壊洪水によって、金剛寺・瀬の谷地区では全壊・流出13戸という被害を受けましたが、住民は事前に避難して無事でした。
写真6 北寺の大規模崩壊 図14 金剛寺・瀬の谷付近の赤色立体図
写真6 北寺の大規模崩壊
(和歌山県花園村,1992)

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図14 金剛寺・瀬の谷付近の赤色立体図
(大規模土砂災害対策センター,2021)

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 図15は、有田川中・上流域の崩壊地分布図で、和歌山県土木部砂防利水課(1957)『有田川上流崩壊調査書』の附図を貼り合わせて、渓流名と流域界を追記したものです。この報告書は、「昭和28年7月18日及び9月の13号台風により発生した土砂災害をもとに有田川流域の砂防全体計画を樹てるため、水源地の崩壊状況、林相・地質・渓流の状況、流出土砂量を把握する」ことを目的として実施されました。このため、昭和28年(1953)災害直後に林野庁が撮影した航空写真(11月15日〜24日撮影,京都大学防災研究所で保管されている)をもとに写真判読を行い、「1/1万有田川上流々域崩壊箇所図」(1)〜(6)が作成されています。図に示された崩壊地にはすべて番号が付され、崩壊地の規模(幅・長・面積・最大深・平均深)、傾斜角、地質、崩壊現況(全土量・流下量・残土量)・拡大見込量などが有田川本川・支流別に一覧表として示されています。また、水系図、地形解析図、地質図、林相図、河床変動図、崩壊地箇所図が附図にあります。
 表3は、調査書第4章 総括にある「崩壊総括表」を示しています。清水から上流の有田川流域(面積197.7km2)について写真判読されていますが、全崩壊数は2272箇所でした(11.4箇所/km2)。全崩壊面積は384万m2(3.84km2,流域面積の1.9%)にも達しています。調査流域全体の崩壊全土量は2090万m3、崩壊残土量は785万m3、拡大見込量450万m3、渓間堆積量1590万m3と見積もられています(金剛寺の崩壊土砂量520万m3)。
 清水より上流の有田川流域で、崩壊全土量が2090万m3という値は、極めて大きな値だと思います。このような崩壊総括表が他の災害事例でも作成されていれば、比較検討ができると思います。
表3 昭和28年(1953)災害有田川流域崩壊総括表
(和歌山県土木部砂防利水課(1957)をもとに作成

表3 昭和28年(1953)災害有田川流域崩壊総括表
図15 有田川中・上流域の崩壊地分布図
図15 有田川中・上流域の崩壊地分布図(和歌山県土木部砂防利水課(1957)に渓流名と流域界を追記)
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 有田川中・下流の清水町・吉備町・金屋町は、平成18年(2006)1月1日に合併して、有田川町となりました。
 旧清水町役場(現有田川町清水行政局)のある清水地区は、有田川が大きく蛇行してかなり広い河床平坦地と河岸段丘が発達しており、かなり大きな集落となっています。昭和30年(1955)5月10日に城山町・八幡村・安諦(あで)村が合併して清水町となっています。その後、昭和34年(1959)5月10日に五村と岩倉町の一部を編入しました。清水地域の昭和28年(1953)災害当時の人口は2918人で、各地で土砂・洪水災害が発生し、死者53人となっています。
 昭和28年7月18〜19日の水害では、有田川と左支・湯川川の洪水がぶつかりあって、水位が上昇し、清水の市街地の多くが浸水しました。棚田で有名な「あらぎ島」では3戸あった家が全部流され、一番上にあった田んぼだけ残りました。
 2か月後の台風13号の襲来により、金剛寺の天然ダムは9月25日に満水となって決壊しました。有田川を流下した決壊洪水が清水地区を再び襲いました。決壊洪水時には事前に高台にある寺や小学校に避難しており、犠牲者は出ませんでした。現在でも蔵や壁に洪水痕跡が残っている人家もあります。山際の洪水到達地点には、「昭和28年7月水害水位碑」が建立されています。
 有田川に面した二川地区は、明治・大正期には林業が盛んでかなり栄えた集落でした。写真7は昭和28年災害前の二川集落で、写真8は大規模地すべりと金剛寺の天然ダムの決壊洪水による激甚な被害を示しています。昭和28年災害の前から二川集落の直上流・右岸部には地すべり地形が存在し、有田川沿いの街道も地すべり地上部の緩斜面部を通っていました。7月17日〜19日にかけて集中豪雨となり、18日午前中に洪水が発生しました。浸水範囲を図16に水色で示しました。で示した人家が流失しました。雨が降りやんだ後の20日に有田川の右岸斜面で地すべり(推定移動土砂量270万m3が発生し、図17に示したように、有田川を河道閉塞し、天然ダム(湛水高25m,湛水量138万m3)を形成しました。地すべりを起こした緩斜面に住んでいた住民は、事前に避難していたため、犠牲者は出ませんでした。天然ダムは満水となって少しづつ決壊していきましたが、9月25日の金剛寺の天然ダムの決壊による洪水で二川集落は一気に流されました(清水町誌編さん委員会(1998):清水町誌,下巻)。二川地区では、江戸時代や明治22年(1889)の紀伊半島災害などでも多くの土砂災害が発生しました。
 日高川流域でも多くの土砂災害が発生しました。特に、彌谷では昭和28年(1953)の災害では、大規模な山崩れによって85人もの死者を出し、「死の谷」と表現されて語り継がれています。詳しくは、いさぼうネットのコラム58をご覧ください。
 >>コラム58 大規模土砂災害と防災施設の現地見学会② (2019年4月25日公開)
  −昭和28年(1953)の日高川町彌谷災害を歩く
図16 二川地区の大規模地すべりと被災状況 図17 二川地区の天然ダムの湛水範囲
図16 二川地区の大規模地すべりと被災状況
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図17 二川地区の天然ダムの湛水範囲
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(国土交通省近畿地方整備局 大規模土砂災害対策技術センター,2021)
写真6 災害前の二川集落 写真7 大規模地すべり発生後の二川集落
写真7 災害前の二川集落 写真8 大規模地すべり発生後の二川集落
(清水町誌編さん委員会(1998):清水町誌 下巻)


引用・参考文献
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井上公夫(2018):コラム28 明治22年(1889)紀伊半島豪雨による土砂災害,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,丸源書店,p.215-223.(いさぼうネット公開日:2017年2月15日)
井上公夫(2020a):コラム57 大規模土砂災害と防災施設の現地見学会①―和歌山県田辺市奇絶峡付近の風穴と巨石堰堤を歩く―,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,V,丸源書店,p.77- 93.(いさぼうネット公開日:2019年3月28日)
井上公夫(2020b):コラム58 大規模土砂災害と防災施設の現地見学会②―昭和28年(1953)の日高川彌谷災害を歩く,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,V,丸源書店,p.94-109.(いさぼうネット公開日:2019年4月25日)
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