1.はじめに
コラム93と94で、丹沢山地東部、特に大山阿夫利神社周辺の関東地震による被害状況と復興状況について説明しました。現地調査と原稿の執筆中に、秦野市(旧東秦野村)北部にあった諸戸林業株式会社((株)諸戸ホールディングス)と清川村札掛集落の関東地震前後の変遷の状況が分かってきました。このため、NPO法人丹沢自然保護協会の中村道也会長に案内して頂き、井上と相原延光様で5月1日(水)に現地調査を行いました。文献調査の結果を踏まえてその結果を説明します。
2.諸戸林業(諸戸山林)の植林事業の変遷
神奈川県農政部林務課(1984)『神奈川県の林政史』によれば、小田急線の秦野駅から県道70号秦野清川線でヤビツ峠(標高761m,秦野からの路線バスはここまで)に行き、さらに県道を北に2km行った地点に門戸口橋(現在青山荘がある)があります。門戸口橋から藤熊川とタライゴヤ沢(境沢)合流点までが、諸戸林業株式会社((梶j諸戸ホールディングス)所有の諸戸山林(スギ、ヒノキの美林からなる)の範囲(面積938ha)です(図3参照)。合流点付近の北側には清川村の札掛集落があります。
門戸口橋から1km北に行った常世橋付近に、諸戸林業の事務所(丹沢事業所,標高620m)があります。付近には諸戸神社があり、そこから東方に金比羅尾根を登って行くと、大山(標高1252m)山頂の阿夫利神社奥社に着きます。諸戸山林の所在地は、秦野市(旧東秦野村)寺山地内の通称丹沢と呼ぶ地域で、諸戸山林の面積は938haです。諸戸林業株式会社の本社は、三重県桑名市太一丸18(揖斐川右岸で諸戸氏庭園がある)にあります(図1参照)。
図2の諸戸家系図に示したように、諸戸林業の創業者、諸戸清六は弘化三年(1846)に木曽川沿いの三重県桑名郡木曽崎村(現木曽岬町)加路戸新田の庄屋・豪商であった諸戸清九郎の長男として生まれました。父・清九郎は事業に失敗し、田畑を売り巨額の借金をかかえ、桑名に移住しました。清六が15歳になった文久元年(1861)に、不遇のうちに父は早死しました。桑名は昔から木曽川、長良川、揖斐川の3河川を利用した米、木材の集散地でした。清六は父の負債を相続しましたが、持って生まれた精励ぶりと幸運にも恵まれました。18歳になった文久四年(1864)から米穀商として米を買い集め、米市場に売って稼ぎ、2年間で負債を返済しました。東京大学砂防学研究室の初代日本人教授の諸戸北郎(1871-1951)は親せきで、清六とは深い交流がありました。
商売は年とともに繁盛し、26歳になった明治五年(1872)に三重県県令岩村定高と知り合ったのが縁となり、大隈重信、松方正義、金原明善(コラム89参照)らと親しく付き合うようになり、大実業家として成長して行きました。
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図1 揖斐川沿いの諸戸氏庭園と桑名城 地理院地図,自然災害伝承碑は伊勢湾台風) < 拡大表示>
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図2 諸戸家系図 (神奈川県農政部林務課,1984) |
米相場で利益を得て、明治10年(1877)西南の役の頃、大蔵省御用の米買方となって活躍し、34歳になった明治13年(1880)までに30万円の巨額の富を貯えたと言われています。清六は念願であった農業をおこすため、田畑の買入れや開発を考え、3年間の調査期間を設けて徹底的に研究し、37歳になった明治16年(1883)から用地買入所を設けて土地を買い始めました。そして、42歳になった明治21年(1888)までに買い集めた田畑の公定地価が55万円にも達し、当時日本一の大地主であった山形県酒田の本間家の公定地価52万円を超える日本一の大地主となりました。
日本一の大地主になった清六が次に手掛けたのが植林事業でした。時の政府の要人大隈重信、松方正義や御料局長品川弥次郎の勧めによるものでした。品川局長は、ドイツ公使在任中に見分した先進国ドイツの優れた林業振興が急務であると説くとともに、わが国でも静岡の金原明善、愛知の古橋源六郎などが既に真剣に林業経営に取組んでいる事例を話しました。清六も林業進出について真剣に検討を始めました。すなわち、「山に木があれば渇水したり、大水がでる心配は少なくなる。木を山に植え山を良くすれば、田が良くなり米が良く実る。植林は諸戸家にとっても農業経営の手段であるのみならず、一国の急務である。」と悟り、山林経営は将来有望にして安全確実なる財産として最も適していると確信を持ち始めました。
清六は、早速紀州、吉野、天竜、木曽の林業先進地の調査を始めました。これらの調査は自らあたり、必ず使用人を同伴し、主要な山林所有者を訪ね、地味・地利を勘案した林地の選び方、植付け、保育などの方法、経営方法などについて、見聞記録して「山林培養書」を作成し、山林買収、林業経営の指針としました。
このようにして、47歳になった明治26年(1893)から山林買収に着手しました。山林取得第1号は三重県多気郡萩原村(現宮川村)の共有林1600ha、第2号は同郡領内村(現大台町)の1400ha、第3号は三重県鈴鹿郡坂下村(関町)の800ha、第4号は神奈川県中郡東秦野村(現秦野市)寺山の938haで、明治29年(1896)12月に登記を完了しています。第5号は三重県鈴鹿郡加太村(現亀山氏)の400ha、第6号は三重県北牟婁郡尾鷲町(現尾鷲市)の40haで、明治30年(1897)2月に登記を完了しています。取得した6個所の合計は5000ha(50km²)余にもなりました。
造林にあたっては苗木を調達して苗畑を作って仮植し、苗木の管理方法に検討を重ねました。近郷の農家にスギやヒノキの種を無償で配布し、生長した苗木を買い上げました。また、林学の専門家である佐藤銀次郎(後に林学博士、大日本山林会会長となる)を迎えて、林業技術の向上を図るとともに経営計画の樹立に務めました。明治30年(1897)に「諸戸家山林基業規則」を制定しました。
清六が偉大であったのは財産として山を買って持っているだけでなく、乱伐された後の荒廃した山林原野に必ず造林していることです。新規に山林原野を5000haも購入し、この造林にも莫大な資金を要しました。最盛期には1ヶ年の造林面積が500haで植栽本数が300万本に達したと言われています。清六は林業調査を始めてから17年目の明治39年(1906)に61歳で病没しました。
遺言状により、財産は清吾(2代目清六)と清太の共有になりましたが、明治45年(1912)に財産を分割しました。清太が第3号(坂下村)800ha、第4号(東秦野村)938ha、第5号(加太村)400haを所有・経営することになりました。清六が住んでいた家屋敷は清太が引き継ぎました。図1に示したように、この中には諸戸氏庭園(8000坪,2.64ha)があり、三重県文化財(名勝部門)に指定されています。
3.丹沢諸戸山林の造林
写真1は秦野市南部の渋沢丘陵地から丹沢山地を中村道也氏が撮影した写真です。
図3は、1/2.5万「大山」図幅(2014)に、神奈川県農政部林務課(1984)『神奈川県の林政史』の「丹沢諸戸山林位置図」(p.804)と「諸戸山林字図」(p.809)などから、諸戸山林の範囲と字の範囲を追記するとともに、字名を追記したものです。
丹沢の諸戸山林は明治29年(1896)12月に島津忠亮から買収し、登記を完了していますが、買収当時は荒廃した雑木林と萱場でした。表1 諸戸山林の造林状況に示したように、明治30年から雑木林を製炭しながら地拵えを行い、明治31年から植栽に着手しました。植栽樹種は、スギは沢筋、ヒノキは中腹と尾根筋に植えることを原則として植栽(ヒノキの割合が80%強)されました。苗木は三重県産の1年生、2年生の原苗、3年生の山出苗を買い集め、船で中郡二宮町に運搬し、二宮より馬の背に乗せて、秦野から田原三角山、ヤビツ峠を越えて現場まで運搬しました。多い時には1日に200頭位の馬の背に載せて苗木や事業用資材、食料品を運搬し、帰りに木炭を運搬しました。
写真1 秦野市南部の渋沢丘陵から丹沢山地を望む(中村道也氏撮影)
図3 丹沢諸戸山林位置図と諸戸山林の字の範囲と字名(神奈川県農政部林務課,1984)
(1/2.5万地形図「大山」(2014年発行)に追記)
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秦野市(旧東秦野村)西田原には、八幡神社(写真2参照)がありますが、この神社からヤビツ峠に向かって荷物を背負った馬が登って行きました。
秦野で産出されていた葉タバコを東海道線の二宮駅まで運ぶために、秦野−二宮間(9.0km)に、明治39年(1906)8月に湘南馬車鉄道が開通しました。その後輸送量が増えたため、大正2年(1913)2月に蒸気機関車に変更され、湘南軽便鉄道と改称されました。大正7年(1918)経営難になり一時休止されましたが、湘南軌道となりました。大正12年(1923)9月の関東地震により被災しましたが、1.0km延長して秦野市中心部まで延長(全10.0km)されました。しかし、昭和2年(1927)4月に小田急線(開業当初は大秦野駅)が開通すると、次第に経営難となりました。昭和8年(1933)に旅客営業を休止し、昭和12年(1937)に秦野−二宮間は全線廃止となりました。
図4は、埼玉大学教育学部地形図閲覧サイト「今昔マップon the web」から取得した明治21年(1888)測図の「松田総領」(現秦野)図幅で、左側は札掛〜ヤビツ峠、右側はヤビツ峠〜西田原の状況を示しています。
奥野(2004)によれば、「ヤビツ峠は戦国時代の戦乱の歴史が地名に残されている。群雄が割拠する戦国の世に、甲斐の武田信玄は大軍を率いて小田原に兵を進めたが、堅城を誇る小田原城は4カ月の攻防にも屈することがなかった。信玄はついに囲みをといて、三増峠(相模原市緑区、相川町三増)から甲斐を目指した。小田原の北条氏康は、この機を逸してはならじと追撃に出た。三増峠を血に染めた歴史に残る大激戦が展開された。世に言う三増合戦である。永禄十二年(1569)のことで、武田軍に凱歌があがった。この時ヤビツ峠でも血みどろの戦いが繰り広げられた。峠付近には殺生ヶ原、地獄沢などの地名が残り、昔を語っている。
次のような言い伝えもある。昔この峠を越えようとすると、急に空腹を覚えて歩けなくなる。こんな時は、持っているおむすびを後ろに投げてやると、うそのように歩けるようになる。これは峠で悲惨な最後を遂げた兵たちの亡霊がただよっているからだという。ヤビツの由来は、山道の改修の時に矢櫃(弓矢を入れる武具)が発見されたからだという。旧ヤビツ峠は、現在の峠より岳ノ台寄りにあった(図4、図6参照)。明治25年(1892)の旧版地形図1/2万「塔嶽」には、西田原(旧東秦野村)から尾根伝いに直線状の山道が記されている。
幕末に来日し、駐日公使もつとめたイギリスの外交官アーネスト・サトウは明治6年(1873)にヤビツ峠を越えた。大正2年(1913)にはサトウの息子で植物学者の武田久吉も峠越えを行った」と記されています。
図4の左図には「俚称新宅」と記載された地区があります。この地名は、「地元では新しい家」という意味のようです。藤熊川沿った馬車道に1〜3軒の小さな人家があったと思われます。藤熊川下流に札掛の集落はまだ表現されていません。
図4 旧版地形図1/5万「松田総領」,1888年,左:札掛〜ヤビツ峠,右:ヤビツ峠〜西田原
埼玉大学教育学部時系列閲覧サイト「今昔マップ on the web」より編集
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表1 諸戸山林の造林状況(神奈川県農政部林務課,1984)
麓の西田原地区に苗畑として7反5畝(7400m²)を借地して、ここを中継地点として二宮から運んだ苗を仮植し、育苗するのに使っていました。また、丹沢の山道に沿った平坦地を苗畑にして育苗し、3年生にして山出ししていました。
表1は諸戸山林(面積938ha)の明治31年(1898)〜大正6年(1917)の造林状況を示しています。合計で698haの造林をしており、全面積の74%にも達しました(同じ土地に再造林した面積もあると思われます)。
明治31年(1898)に最下流部の下熊谷の一部2.33町歩(2.33ha)から造林が開始されました。明治37年(1904)には最も多い95.82町歩(95.82ha)を造林しています。諸戸山林の植栽の特色は、1ha当たり植栽本数5000本から1万本と密植を行っていることです。密植することによって、下記の効果がありました。
@下刈を早く切りあげる。
A通直な材を仕立てる。
B間伐を繰返し収入の機会を多くする。
C残存木の品質を高める等のメリットを考えて密植を行う。
明治31年(1898)から植栽した苗木は順調に育ったわけではなく、毎年枯損木が大量に発生し、捕植、改植を頻繁に実施しました。寒気の厳しい場所であるだけに、寒害や雪による被害も多く発生しました。また、雨量も多い場所なので、集中豪雨による林地被害やウサギ等の動物害による枯損も相当数発生したようです。
写真3は昭和42年(1967)撮影の諸戸山林事務所で、関東地震以前からありました。写真5は2024年5月に撮影した写真で、入口付近の柱は関東地震時に変形して戸締りが悪くなっていました。中村道也氏は「関東地震から2週間後の豪雨によって、カスコロバシ沢から土砂が流出し、事務所付近では1mほど堆積した」と言われました。
4.諸戸山林と関東大震災
三重県から二宮まで海路で運ばれた苗木は馬の背に載せられて、ヤビツ峠を越えて奥地まで運搬されました。植林現場では苗木を密植し、下刈、つる切、林内掃除、倒木起し、除伐、間伐等を行い、手塩にかけてスギ、ヒノキ林を育ててきました。しかし、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で大災害を受けました。また、広葉樹林、笹生地についても崩壊が多発し、当時の諸戸の山が真っ赤に見えたそうです。
特に被害が大きかったのは、大山山頂から北に延びる稜線の西向きの斜面(図3参照)で、来光谷、上カスコロバシ、東門戸口、中地獄沢、奥地獄沢、水干、藤瘤等の尾根筋から沢に向かって大崩壊を起こしました。一方、二ノ塔、三ノ塔、行者岳と続く稜線の北向き或は北東向きの斜面である前水沢、中水沢、奥水沢等においても、見るも無残な大崩壊が発生しました。札掛で藤熊川に合流するタライゴヤ沢流域の後熊谷、仏沢では、大規模な崩壊地が全山いたる所で発生しました。
写真2 秦野市(東秦野村)西田原の八幡神社(2024年5月井上撮影)
西田原からヤビツ峠経由の山道を馬の背に乗せて苗木や生活物資を運んだ
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写真3 諸戸山林事務所(1967年撮影) (神奈川県農政部林務課,1984)
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写真4 諸戸神社(2024年5月相原撮影) 諸戸神社の横を通り金毘羅尾根を登って大山山頂に至る
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写真5 現在の諸戸山林事務所 (2024年5月相原撮影)
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写真6 県道秦野清川線の地獄沢橋(2024年5月井上撮影) 地獄沢橋の先左側に地獄沢を登る林道がある(ゲート閉鎖)
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写真7は、神奈川県農政部林務課(1984)『神奈川の林政史』に掲載されている写真で、昭和10年(1935)頃撮影され大山山頂付近から西方の丹沢表尾根の二ノ塔、三ノ塔の北東面の崩壊状況が示されています。写真8は当財団の亀江前理事長が大山山頂から二ノ塔、三ノ塔方向を撮影した写真で、富士山が正面に見えます。
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写真7 諸戸山林の崩壊状況 (神奈川県農政部林務課,1984)
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写真8 大山山頂からのニノ塔〜三ノ塔,富士山 (亀江幸二前理事長が大山山頂から撮影)
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震災直後の9月15日の豪雨による崩壊、大正13年(1924)1月15日の丹沢地震(相模地震)、大正13年9月に起きた暴風雨による崩壊、さらには昭和5年(1930)1月26日の北伊豆地震(豆相地震)、昭和12年(1937)7月14日の台風襲来によって、多くの崩壊等が発生しました。莫大な経費と労力をかけた造林地が被害を受け、残った人工林は約400haとなったそうです。
東京大学の鈴木雅一名誉教授に砂防フロンティアに来所して頂き、亀江前理事長と共に色々と教えて頂きました。東大砂防工学研究室の保存資料整理の過程で確認された資料の中に、東京帝国大学林学実科実習報告書として、勝沼恭太郎(1924)『中津川流域荒廃地調査報告』(表紙:大正十三年十一二月と記載)があり、提供して頂きました。図5 諸戸山林の関東地震直後崩壊地分布図は、この報告書の巻末にあった大判図(A1判)を50%縮小し、主な河川(藤熊川とタライゴヤ沢・境沢)、藤熊川沿いの林道(現在の県道70号,秦野清川線)、林班界(林班2〜6)、地名を追記したものです。
原図は明治35年(1902)11月に測量・作成(縮尺1/6000)されたもので、諸戸山林の面積938町歩の範囲が示されています。赤色で示された崩壊地は関東地震後の現地調査の結果をもとに追記されたものです。実習報告書は大正13年(1924)9月末にまとめられていますので、それまでに発生した関東地震直後、2週間後の豪雨、丹沢地震などによる崩壊地が表現されています(多数の崩壊地は番号付きで示されている)。
図5の左上図は、コラム93の図4で示した神奈川県企画部企画総務室(1990)の土地分類基本調査「自然災害履歴図」の一部で、諸戸山林の範囲を示しています。大規模崩壊の位置と形状はかなり似ています。
図6は、旧版地形図1/5万「秦野」,札掛〜ヤビツ峠〜西田原で、左図は震災前の大正11年(1922)、右図は震災後の昭和4年(1929)に修正測図されたものです。震災前には崩壊地はほとんど表現されていませんが、震災後には多くの崩壊(斜面下方に向かう多くの線で示される)が発生したことが判ります。
図6 旧版地形図1/5万「秦野」,札掛〜ヤビツ峠〜西田原
(左:大正11年(1922)震災前,右:昭和4年(1929)震災後)
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これらの崩壊地に対しては、表2に示したように神奈川県林務課により、関東地震翌年の大正13年(1924)から復旧工事が開始され、毎年多くの治山事業費が投入されました。大正13年から昭和16年(1941)までの実績は、表2の通りです。
表2 諸戸家荒廃林地復旧事業経費調書(神奈川県農政部林務課,1984)
5.地点❽ 清川村(煤ヶ谷村)札掛
コラム93で地点❽清川村(煤ヶ谷村)札掛について説明しましたが、山口(2003)『丹澤札掛の話』や奥野(2008)、内山(2018)で、詳しい情報が入手できました。
奥野(2008)によれば、「札掛の地名は、かつてすっくとそびえていた大ケヤキに、山林巡回の札をかけたことに由来している」と記されています。秦野市(1996)『図説・秦野の歴史』によれば、「丹沢御林は小田原北条期から徳川時代には城郭・寺社・船や橋材の御用材として、その需要に応えて来た天領でした。幕府は樅、栂、欅、榧、栗、杉の六木を留木として、農民などが妄りに伐り出すことを禁じました。また、盗伐と山火事防止の山守役として、山麓の寺山・煤ヶ谷・宮ケ瀬・横野の村に命じたが、寛永(1624-1644)中期以降次第に弛緩し、延宝三年(1675)には菩提村を加え5ヶ村とし、御林荒しの取締を厳しくし、名主連判手形の誓約を出させ、1村2名が本谷の石小屋に仮泊し、3日勤めの証の札を大欅に懸けた」と記されています。その大ケヤキは樹高24m、目通り周囲6.4mあったと言われています。しかし、昭和12年(1937)7月14日の台風で、ダライゴヤ沢方向からの土砂流出で、大ケヤキは傷つき枯死しました。
図7は、大正12年9月1日(関東地震)以前の札掛集落(山口,2008)の配置図です。藤熊川とタライゴヤ沢(境沢)の合流点付近に発電所があり、送電線が描かれ、各戸に配電していたようです。発電所の近くに小学校があり、その下流側に山林事務所(加藤半左衛門)があります。合流点下流の布川の左岸側に大ケヤキがあり、札が掛かっています(空洞があり、5mも登ると顔を出せたそうです)。この図の範囲には30戸前後の集落があったようです。
図7 関東地震以前の札掛集落(山口,2003;内山,2018)
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内山(2018)によれば、札掛集落は明治14年(1881)煤ヶ谷村加藤瀧次郎が移住したのが始まりで、大正4年(1915)には154人の集落になったようです。山口(2003)によれば、「大正12年(1923)9月1日の関東大震災、同年9月15日の大洪水により発電所はもちろん河原付近の家は流失した。さらに翌年大正13年(1924)1月15日に丹沢山地を震源とする丹沢地震で土石流が発生した。このため、河原の少し高台に残っていた家も流されてしまい、札掛は一変してしまった。」と記されています。この後、札掛集落は布川左岸の高台の「上段」、「中段」、「下段」の3ヵ所に移転し、洪水や土石流災害の轍を踏まないようにしました(内山,2018)。
写真9は大欅と御料林下賜記念碑です。写真10は丹沢山札掛の欅(内山,2018)ですが、昭和12年(1937)7月14日の洪水で記念碑と大欅は流失してしいました。ハンス・シュトルテ(1983)は『丹沢夜話』で、昭和12年春に東京から自転車で初めて丹沢を周回した時に、この大欅の下で休憩したことを覚えていると記しています。
藤熊川とタライゴヤ川の合流点付近にあった煤ヶ谷小学校札掛分校も大正12年(1923)の洪水で流失しました。その後、札掛分校は少し高い台地に移転されました。
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写真9 御料林下賜札掛記念碑
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写真10 丹沢山札掛の欅(内山,2018)
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(中村道也氏提唱)昭和12年(1937)年の洪水で欅と記念碑は流出
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写真11 煤ヶ谷小学校札掛分校の通学路
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写真12 札掛分校は平成15年(2003)年に閉校
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分校跡地は丹沢六木学習林となり、六木を平成20年(2008)年に植林した(2024年5月井上撮影)
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写真11は自動車道から登って行く通学路で、札掛分校は平成15年(2003)に廃校となりました。写真12に示したように、現在は丹沢六木学習林となっており、説明看板がありました。
写真13は、昭和21年(1946)2月15日に米軍が撮影した写真(USA M46-A5VT1-12,13,元縮尺S=1/39,498)で、立体視できるように編集してあります。この写真は関東地震から23年後の写真ですが、非常に多くの崩壊地が残っていることが判ります。
写真14は、昭和52年(1977)9月20日に国土地理院が撮影した写真(CKT77-2,C4-15〜17,元縮尺S=1/15,000)で、立体視できるように編集してあります。この写真を見ると、大山周辺にはまだ多くの崩壊地が残っていることが判ります。
写真13 1946年2月15日米軍撮影の立体視写真
(USA M46-A5VT1-12,13,元縮尺S=1/39,498)
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写真14 1977年9月20日国土地理院撮影の立体視写真
(CKT77-2,C4-15〜17,元縮尺S=1/15,000)
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6.諸戸山林と林道
(1) 柏木林道
秦野市蓑毛の蓑毛橋から金目川に沿って幅員2mの林道がヤビツ峠まで通じていますが、これが通称「柏木林道」と言われる林道です。柏木林道は蓑毛橋のかたわらに住む柏木幹田(元秦野市長,柏木幹雄の父)が林産物及び資材の運搬のため、昭和6年(1931)11月に着工しました。昭和7年(1932)3月に蓑毛からヤビツ峠に至る延長2412mの柏木林道を完成させました。
柏木林道が開設されたことにより、諸戸山林や丹沢県有林で働く人々にとって、通勤道路として、また生活物資の運搬道路として、貴重な動脈道となりました。この柏木林道を利用すると、蓑毛からヤビツ峠まで徒歩50分、ヤビツ峠から山林事務所まで30分、合計1時間20分で行けるようになりました。
(2) 丹沢林道
地域住民や林業関係者の多年の念願であった丹沢林道は、神奈川県林務課の手によって、昭和7年(1932)11月に着手され、昭和9年(1934)1月に完成しました。この林道は、蓑毛からヤビツ峠、諸戸、札掛を経由して、宮ケ瀬に至る26.6kmの林道で、幅員4mの県営林道として開設されました。
諸戸山林が明治31年(1898)に造林に着手してから苗木、木炭、林業用資材の運搬は、馬の背に乗せヤビツ峠を越えていましたが、38年目にして待望の車道が開通しました。林道が開通して諸戸山林の間伐が本格的に始まりましたが、太平洋戦争が始まると、労務者の不足により、林業活動は中断されました。
戦後、昭和20年(1945)10月5日〜6日の豪雨による水害によって、林道は寸断されたままの状態となりました。しかし、地元の熱烈な復旧陳情と、昭和22年(1947)9月13日〜20日のカスリーン台風(コラム44参照)による甚大な被害を受けたため、国庫補助対象事業となり、昭和22年(1947)11月から緊急個所の復旧工事が行われました。引き続いて、昭和23年度においても一部復旧工事が実施されましたが、同年9月16日〜17日のアイオン台風で被害が増大しました。その後、緊急復旧工事が行われ、昭和24年(1949)3月にやっと丹沢林道は開通しました。
しかし、開通はしたけれども、補強を要する箇所が多く、昭和24年度においても各所で復旧工事が行われました。そして、昭和25年(1950)6月1日に県道に移管され、宮ケ瀬秦野線となり、昭和57年度(1982)から県道70号秦野清川線となりました。諸戸山林の間伐作業は、昭和24年(1959)の丹沢林道の全面的開通によって本格的に再開されました。
(3) 境沢林道
境沢林道は、札掛を起点として県営林道として、昭和29年(1954)に着工されました。この林道はタライゴヤ沢(境沢)に沿って左岸を金林沢、押出の沢、女郎小屋の沢等を渡り、延長2943m、幅員4mの林道で、昭和34年(1959)に完成しました。
昭和28年(1953)にタライゴヤ沢に面する仏沢、奥水沢の第1回目の間伐が実施されましたが、まだ林道が開通しておらず、ヨモギダイラの峰越えの索道で県道迄間伐材を搬出した経緯があります。しかし、この林道の開設により、タライゴヤ沢に面した第2回目の間伐は境沢林道を利用して搬出されました。
7.藤熊川沿いの砂防施設
神奈川県県土整備局河川下水道部砂防課に行き、藤熊川沿いの砂防施設について、図8と表3に示した資料を頂きました。昭和30年(1955)から平成6年(1994)まで様々な形式と規模の砂防ダムが建設されています。
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@藤瘤ダム(1990)
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C金時堰提(1973)
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A熊谷堰提(1981)
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D上熊ケ谷ダム(1994)
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B諸戸堰提(1955)
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E藤熊堰提(1957)
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引用・参考文献
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守屋二郎・守屋益男(2012初版・2018新版):新版東丹沢登山詳細図,大山・塔ノ岳・丹沢山・蛭ヶ岳・鍋割山・焼山・仏果山・弘法山,全130コース,縮尺1:16,500,吉備人出版
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