1 はじめに
平成23年(2011)3月11日14時46分に東北地方太平洋沖地震が発生しました。気象庁(2011年3月)によると、地震の規模は モーメントマグニチュードMw=9.0で、国内観測史上最大規模でした。宮城県栗原市で最大震度Zが観測されました。
この地震による災害は総称して「東日本大震災」と呼ばれています。本震とそれに伴う大津波、その後の余震は東日本一帯に甚大な被害をもたらしました。人的被害(2022年3月1日現在,消防庁災害対策本部,2022.3.8,第162報)は、死者19,759人、行方不明者2,553人、負傷者6,242人にも達しました。東日本大震災は、第二次世界大戦後最悪の自然災害となりました。また、国際原子力事象評価尺度で最も深刻なレベル7と評価された福島第一原発事故も発生しました。
近代日本の歴史の中で最大といわれる規模の地震と津波による、広範な地域での災害ですが、海岸部とそれに隣接する地域で特に大きい被害が生じました。生存者の捜索、負傷者の治療、犠牲者の追悼、被災者の保護等被災地の住民への対応とそれに必要な避難所の確保や病院等の施設の復旧、仮設住宅の建設などが実施されました。 同時に報道などでは必ずしも目立ちませんが、強い揺れで緩んだ地盤では、余震によるものも含め、斜面崩壊、地すべり等の土砂災害が多発し、19名の方々が犠牲になりました(砂防学会東北地方太平洋沖地震災害調査委員会,2013;2013年4月14日,国交省砂防部調べ)。
砂防学会では、平成23年(2011)4月14日に鈴木雅一会長が、「東日本大震災に対する砂防学会の対応について」と題する声明を出し、「東北地方太平洋沖地震災害調査委員会」を立ち上げました。委員長は鈴木雅一・砂防学会会長(当時)が務め、短期の緊急調査に加えて、その後の詳細な検討や今後の海溝型巨大地震に備えての提言までを視野に入れ、委員会の設置期間を平成23〜24年度の2年間としました。
平成23年5月19日の理事会で委員会の設置が承認され、その後学会誌上で委員の公募が行われました。委員会事務局からの依頼による委員と公募による委員を合わせて、最終的に委員は40名となりました。委員会は調査・検討内容により、5つの班で構成されており、40名の委員はいずれかの班(複数の班所属の方もいる)で活動しました。
第1班:過去の地震災害のレビュー
第2班:土砂災害の実態
第3班:地震動の性質と土砂災害の発生場
第4班:本震による山地の不安定化
第5班:復旧と復興に向けた課題と提言
第1班から4班までの委員会報告書は、平成25年(2013)9月30日に砂防学会のHPで公表されました。
私は第1班の班長として、「歴史地震の活動」を取りまとめましたので、第1班の活動を振り返り、紹介したいと思います。
2 第1班の活動
第1班では、過去の大規模な海溝型地震において、どのような土砂災害が発生したのかを整理しました。例えば、震央から崩壊発生位置までの距離、地震動の規模と崩壊の相関などが確認できる図表を整理することができれば、今後の東海・東南海・南海地震で懸念される土砂災害の影響を予測する上での基礎的な資料となりうると考えました。
海溝型地震による土砂災害の事例は少なく、かつ古い事例が多くなっています。したがって、表層崩壊などの規模の小さな現象まで記述された資料を整理することは不可能なため、本研究では記録に残りやすい大規模な土砂移動現象(深層崩壊)による災害を主な対象としました。大正関東地震(1923)のように、神奈川県などの山地で発生した土砂災害の克明な記録の残るものについては、海溝型地震による土砂災害事例として示しました。
その結果をもとに、全国の海溝型地震による大規模斜面崩壊の広域的な傾向及び、海溝型地震により発生した実際の斜面災害事例を紹介しました。これらは今後起こりうる東海・東南海・南海地震で懸念される土砂災害の影響を予測する上での基礎的な資料となります。
第1班のメンバーを以下に示します。
井上 公夫:一般財団法人砂防フロンティア整備推進機構
土志田 正二:独立行政法人防災科学技術研究所(現消防庁消防研究所センター)
島田 徹:国際航業株式会社
森嶋 成昭:日本工営株式会社
藤原 伸也:国際航業株式会社
斎藤 仁:東京大学 空間情報科学研究センター(現名古屋大学大学院環境学研究科)
表1は主な海溝型地震の一覧表、表2は海溝型地震による主な大規模土砂移動の一覧表です。
表1 主な海溝型地震の一覧表(委員会報告書,2013を一部修正)
表2 海溝型地震による主な大規模土砂移動の一覧表(委員会報告書,2013を一部修正)
調査対象とした海溝型地震で、土砂移動現象が判明したのは、以下の7地震です。
①白鳳地震:天武十三年十月十四日(684.11.29)
②五畿七道地震:仁和三年七月三十日(887.8.26)
③宝永地震:宝永四年十月四日(1707.10.28)
④安政東海地震:嘉永六年(安政元年)十一月四日(1854.12.23)
安政南海地震:嘉永六年(安政元年)十一月五日(1854.12.24)
嘉永六年に発生した地震ですが、被害が大きかったため、十一月二十七日(1855.1.15)
に安政と改元されました。このため、安政地震と呼ばれるようになりました。
⑤浜田地震:明治5年2月6日(1872.3.14)
⑥大正関東地震:大正12年(1923)9月1日
⑦新潟地震:昭和36年(1961)6月16日
東北地方太平洋沖地震については、第1班から他の班の活動に参加している方もいて、様々な調査報告が作業途中でしたので、第1班の報告には入れませんでした。
3 第1班の活動履歴
2011年12月24日:第1班会議を開催し、第1班の作業内容や役割分担を決めました。
2012年1月17日:東京大学弥生講堂で開催された砂防学会特別シンポジウム,東北地方太平洋沖地震災害調査委員会「海溝型地震による土砂災害を考える」で、井上が「海溝型地震による土砂災害の特徴」と題して説明しました(井上,2012a)。
2012年3月13日:第3回運営委員会で、第1班の平成23年度の活動報告を行い、5月の砂防学会発表会(高知大会)の企画セッションで発表する内容を報告しました。
2012年5月23日の企画セッション2:東南海・南海地震と土砂災害で、井上が「四国・紀伊半島における海溝型地震による土砂災害事例の収集・整理」と題して口頭発表しました(井上,2012b)。
2012年5月24日(金)16時〜25日(土)18時:高知県西部の海溝型地震による土砂災害地点の現地見学会を行いました(5名参加)。
2012年8月3日(金)〜4日(土):東海地方現地見学会「海溝型地震による土砂災害(深層崩壊)」(井上,2012c)を16名の参加で行いました(砂防学会から援助を受けました)。
2012年12月14日(金)〜15日(土):「関東地震(1923)時の神奈川県西部の白糸川の大規模崩壊地の現地見学会」を13名の参加で行いました。
2013年4月27日(土):砂防フロンティア会議室で最終会議を開き、第1班の最終報告の目次案と執筆分担を決定しました。
2013年5月29日(水):砂防学会(静岡大会)の企画セッション1:大規模地震と土砂災害で、土志田が「海溝型地震による大規模斜面崩壊発生地域の分布特性」と題して口頭発表しました(土志田ほか,2013)。また、井上が「東海地方の海溝型巨大地震と土砂災害事例の分布」と題して口頭発表しました(井上,2013a)。
4 全国の海溝型地震による大規模斜面崩壊の傾向
4.1 日本周辺の地震環境
日本周辺は複数のプレート境界に位置することもあり、世界でも有数の地震多発地帯となっています。図1は、過去40年間(1973年1月3日〜2013年2月4日)に発生したマグニチュード4以上の地震を示したもので、その発生数は4万5000回以上にもおよび(USGS,2013)、地震を起因とする斜面崩壊も数多く発生しています。2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(Mw=9.0)においても、多数の斜面崩壊が発生しましたが、地震の規模に比べて斜面災害の発生数は少なく、大規模な斜面災害の発生事例も少なかったようです。その原因としては、地形・地質の特性が大きく寄与していると推測されます(土志田・内山,2012)。今後起こりうる南海トラフ地震などの海溝型地震による土砂災害対策を行うためには、過去の海溝型地震に伴って発生した斜面崩壊の分布・特徴などの傾向を把握することが求められます。
4.2 過去に発生した海溝型地震による斜面崩壊
図2は、過去に発生した海溝型地震のうち、特に大規模で多数の斜面崩壊を誘発した4つの海溝型地震を対象とし、各地震における斜面崩壊発生事例を収集して、分布図としたものです。収集した海溝型地震による斜面崩壊は、宝永地震(1707)で16箇所、安政東海・南海地震(1854)で35箇所、大正関東地震(1923)で131箇所、東北地方太平洋沖地震(2011)で407箇所の計589箇所です。ただし、宝永地震と安政東海・南海地震による斜面崩壊は、歴史文献(史料)に残るほどの大規模な斜面崩壊(体積100万m3規模)しか収集できないため、大正関東地震と東北地方太平洋沖地震による斜面崩壊とは、データの重みがかなり異なります。また、東北地方太平洋沖地震の斜面崩壊には、人工地盤による斜面崩壊や亀裂などの変状は除外しており、自然地盤による斜面崩壊のみを対象としています。なお、2011年3月12日に発生した長野県北部の地震や4月11日に発生した福島県浜通りの地震の斜面崩壊の事例は除外しています。
図2 宝永地震(1707),安政地震(1854),大正関東地震(1923),東北地方太平洋沖 地震(2011)の4つの海溝型地震による土砂災害の分布図(委員会報告書,2013)
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4.3 斜面崩壊位置と震源断層領域との距離比較
斜面崩壊発生位置と地震震源域との距離を算出する場合、過去の地震における震源(震央)の位置の正確さ、及びその形状が問題となります。様々な文献において震源(震央)位置は経緯度で示された点データとして表されているが、海溝型地震のような広範囲に破壊領域を持つと推定される地震を対象とする場合、点データからの距離を算出する方法は適切ではありません。本報告では、J-SHIS(防災科学技術研究所,2012)における海溝型地震推定発生領域を過去に発生した海溝型地震の震源断層発生領域として仮定し、その震源断層領域から斜面崩壊発生位置との距離を算出し、図3に示しました。
図3 斜面崩壊発生位置と海溝型地震推定発生領域(J-SHIS)(委員会報告書,2013)
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それぞれの海溝型地震における結果を、図4、図5、図6、図7に示します。
図4 宝永地震(1707,M=8.6)による斜面崩壊と震源断層領域(委員会報告書,2013)
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図5 安政東海・南海地震(1854,M=8.4)による斜面崩壊と震源断層領域 (委員会報告書,2013)
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図6 大正関東地震(1923,M=7.9)による斜面崩壊と震源断層領域(委員会報告書,2013)
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図7 東北地方太平洋沖地震(2011,M=9.0)による斜面崩壊と震源断層領域(委員会報告書,2013)
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図4は、宝永地震(1707,M=8.6)において発生した斜面崩壊と震源断層領域との距離を示したものです。震源断層領域から水平距離20km以内に斜面崩壊の50%以上が発生し、水平距離130km以内で、90%が発生していました。なお、宝永地震から49日後の宝永四年十一月二十三日(1707.12.16)に富士山は大規模な宝永噴火を引き起こし、富士山から東方に甚大な被害を発生させました(井上,2007,2014,2015.7.16)。
図5は、安政東海・南海地震(1854,東海M=8.4,南海M=8.4,東海地震の32時間後南海地震が発生)において発生した斜面崩壊と震源断層領域との距離を示しました。震源領域から水平距離30km以内に斜面崩壊の50%以上が発生し、水平距離160km以内で90%が発生していました。ただし、震源断層領域から150kmも離れた宮崎周辺で発生している斜面崩壊に関しては、安政東海・南海地震の数日後に発生した伊予西部を震源とする地震(豊予海峡地震,M=7.3-7.5)を起因とした斜面崩壊である可能性もあります。この場合、上記の震源断層領域からの距離は小さな値となります。
図6は、大正関東地震(1923,M=7.9)において発生した斜面崩壊と震源断層領域との距離を示した図です。震源断層領域内において斜面崩壊の50%以上は発生し、震源断層領域から水平距離10km以内において90%以上が発生しており、斜面崩壊は狭い範囲に集中して発生していたことがわかりました。
図7は、東北地方太平洋沖地震(2011,M=9.0)において発生した斜面崩壊と震源断層領域との距離を示した図です。東北地方太平洋沖地震に関しては、より詳細な震源断層領域の推定がなされていますが、第1班の報告では他の海溝型地震の震源断層領域との位置精度と合わせるため、他の地震と同様にJ-SHISによる海溝型地震推定発生領域データを用いて解析を行いました。その結果、震源断層領域から水平距離90km以内に50%以上の斜面崩壊が発生しており、水平距離120km以内に90%以上の斜面崩壊が発生していたことが分かりました。
各地震の震源断層領域と斜面崩壊発生位置との距離を表したグラフ、及び斜面崩壊数を各地震で正規化して統合した結果を図8に示します。4つの地震を統合した結果では、斜面崩壊は震源領域から水平距離で、30km以内で50%以上、水平距離130km以内で90%以上発生していたことが明らかになりました。
図8 各地震の震源断層領域と斜面崩壊との距離(委員会報告書,2013)
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4.4 斜面崩壊位置における地形・地質的特徴
斜面崩壊位置における地形・地質的特性を考察するため、図9 地すべり地形分布図(防災科学技術研究所,2013)と20万分の1日本シームレス地質図(脇田ほか,2009)を基にして作成された図10 地すべり移動体面積率図(土志田・内山,2012;土志田,2015)との比較を行いました。地すべり移動体面積率図(以後、地すべり面積率図とする)は、20万分の1シームレス地質図詳細版において約400種類に分類された地質ごとに、地すべり地形分布図で判読されている約37万箇所に及ぶ地すべり移動体の面積の占める割合を算出したものです。地すべり現象は過去に地すべりが発生した場所やその周辺地域で発生することが多いことから(土志田,2012)、地すべり面積率は、その面積率が高い地質体ほど地すべり現象が起こりやすい地質であると推定することができます。2013年現在、地すべり地形分布図において地すべりが判読されている範囲における地すべり面積率の平均値は5.2%であり、その値を軸として相対的に地すべり面積率の高低を評価しています。
図9 地すべり地形分布図(防災科学技術研究所,2013)(委員会報告書,2013)
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図10 海溝型地震で発生した斜面崩壊発生位置と地すべり移動体面積率との比較 (土志田・内山,2012,委員会報告書,2013)
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図10は、地すべり面積率に加え、海溝型地震による斜面崩壊位置を追記しました。図11は、各地震における斜面崩壊が分布する地質を地すべり面積率別に示したものです。
図11 海溝型地震で発生した斜面崩壊の地すべり移動体面積率(委員会報告書,2013)
上図:全斜面崩壊対象,下図:斜面崩壊50%以上が発生した領域の外側
図11の上図では、地すべり面積率の低い地域(0.0−2.6%)で発生した斜面崩壊も多くみられるため、海溝型地震で発生した斜面崩壊は、地すべり面積率との相関があまりないように見えます。しかし、図10では、震源断層領域から離れるにつれて、地すべり面積率の高い地域での斜面崩壊の発生が目立つようになります。図11の下図は、震源断層領域からの距離比較において、斜面崩壊50%以上が発生した領域の外側における地すべり面積率を示したグラフです。上図と下図を比較すると、宝永地震、東北地方太平洋沖地震においては、震源断層領域から離れるほど、地すべり面積率の高い地域(地すべりが発生しやすい地質)で斜面崩壊が発生する確率が高くなっているように見えます。安政地震においては、宮崎県で発生した斜面崩壊データの影響を強く受けていることから、震源断層領域からの距離が離れても、地すべり面積率はほとんど変化がないように見えます。この結果から判断すると、宮崎県で発生した斜面崩壊は、東海・南海地震の2日後の12月26日に発生した豊予海峡地震(M=7.3-7.5)によるものとも考えられます。また、大正関東地震においては、震源断層が陸地にかかり、震源断層領域から10km以内と近距離において、9割以上の斜面崩壊が発生しているため、震源断層領域からの距離と地すべり移動体面積率との比較は困難です。
検討対象とした4つの海溝型地震による作図結果を重ね合わせて、図12を作成しました。これらの図を比較検討した結果、海溝型地震における斜面崩壊の特徴として、斜面崩壊発生数は震源断層領域からの距離に依存すること、震源断層領域からの距離が離れるほど、地すべり移動体面積率が高い地域(地すべりが発生しやすい地質)で発生する確率が高くなりました。
図12 海溝型地震における斜面崩壊発生域の特徴(委員会報告書,2013)
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4.5 今後の海溝型地震における斜面崩壊発生危険地域の推定
前項で述べた特徴を基に、今後の海溝型地震における斜面崩壊発生危険地域の推定を行いました。図13は、東南海地震(東海・東南海・南海地震を含む)における斜面崩壊発生危険地域を図化したものです。東南海地震の震源断層領域からの距離については、対象4地震の中で最大のマグニチュードであった東北地方太平洋沖地震のデータを参照しました。この図を見ると、四国全域、紀伊半島、東海道などの幅広い地域で斜面崩壊が発生する可能性が高いことがわかります。
図13 東南海地震による斜面崩壊発生危険地域(委員会報告書,2013)
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図14は、日本全域における海溝型地震における斜面崩壊発生危険地域を図化したものです。震源断層領域からの距離は、4地震における最大距離を用いました。この図を見ると、北海道北部や中国地方北部、九州西部を除き、ほぼ全域で斜面崩壊の発生する危険性があることが分かります。以上のことから、海溝型地震における斜面崩壊は、日本全域でどこでも起こる可能性があることを認識する必要があります。
図14 海溝型地震における斜面崩壊発生危険地域(4地震最大距離)(委員会報告書,2013)
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5 海溝型地震による土砂災害分布の歴史資料と現地調査
図2は、宝永地震(1707)、安政地震(1854)、大正関東地震(1923)、東北地方太平洋沖地震(2011)の海溝型地震による土砂災害の分布図です。中村ほか(2000)などによる内陸直下型地震の土砂災害分布図などと比較すると、海溝型地震ではより広範囲に土砂災害が発生しています。本項では第1班で行った現地見学会の調査事例を中心に報告します。
5.1 四国の土砂災害発生事例
① 宝永地震(1707)による仁淀川中流・舞ヶ鼻の崩壊と天然ダム
図15は、四国山地での大規模土砂災害事例(四国山地砂防事務所,2004に追記)の分布図です。平成24年度(2012)の砂防学会(高知市)終了後の5月24日(金)16時〜25日に現地調査を行いました。
高知県立図書館(2005)の『谷稜記』(奥宮正明記)によれば、「宝永四丁亥年十月四日未之上刻(1707年10月28日14時頃)、大地震起り、山穿(やまうがち)て水を漲(はり)し、川埋りて丘となる。國中の官舎民屋悉(ことごと)く轉倒す。迯(にげ)んとすれども眩(めくるめい)て壓(おし)に打れ、或いは頓絶の者多し。又は幽岑寒谷の民は巌石の為に死傷するもの若干也・・・。」と、多くの箇所で崩壊が起り、天然ダムが形成されたことが記されていますが、具体的な場所は分かりませんでした。
図15 四国山地での大規模土砂災害事例(国土交通省四国地方整備局 四国山地砂防事務所,2004に追記)(委員会報告書,2013)
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図16 宝永地震による仁淀川中流・舞ヶ鼻の崩壊と天然ダムの湛水範囲(井上・桜井,2009)
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四国山地砂防ボランティア協会は、平成20年度土砂災害防止講習会を平成20年(2008)6月30日に高知県長岡郡本山町のプラチナセンターで開催しました。井上(2008)は「大規模地震と土砂災害」と題して講演しました。講演終了後、高知県越知町の山本武美氏から宝永地震時に越知町鎌井田の舞ヶ鼻地先において、仁淀川の谷壁斜面が崩壊し、天然ダムが形成されたという石碑と史料があると紹介して頂きました。このため、山本氏に現地案内して頂き、平成20年(2008)10月3日と12月2日に現地調査を行いました(井上・桜井,2009;井上・山本,2012;井上,2015.11.02)。現地調査前に、越知町の吉岡珍正町長から関連資料をいただき、現地に残る貴重な石碑を調査しました。
越知町(1984)の『越知町史』巻末の越知町史年表によれば、「大地震で舞ヶ鼻崩壊し、仁淀川を堰き止め洪水を起こす」と記されています。越知町柴尾地区の長老・山本佐久實氏によれば、「4日間湛水し、満水となって決壊し、仁淀川下流の高知県いの町に被害をもたらした」と話されました。写真1は天然ダムを形成したと考えられる崩壊地の痕跡地形です。崩壊発生から300年以上経っているため、植生が繁茂して分かりにくくなっていますが、崩壊地形の概要はわかります。崩壊地の対岸には写真2に示したように、河岸段丘の上に巨大な硬質角礫が密集しています。
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写真1 天然ダムを形成した仁淀川左岸の 崩壊地形(鎌井田の林道から望む) (2008年10月,井上撮影)
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写真2 対岸に厚く堆積する巨大角礫層 (対岸に舟で渡る,写真中央の人は 高知県防災砂防課の斎藤楠一元課長) |
地質調査総合センター(2007)の地質図によれば、当地区は秩父累帯北帯の勝ヶ瀬ユニット(中生代ジュラ紀前期)の硬質な泥質混在岩・塊状砂岩・チャートなどからなります。仁淀川は越知盆地からこの地域に入ると、急峻な谷地形をなして陥入蛇行しながら流れています。写真1に示したように、河道閉塞地点は地すべり性崩壊の痕跡地形でした。
平成20年(2008)12月2日に山本氏の案内で、元高知県防災砂防課長の斎藤楠一氏と一緒に、舟で対岸にわたり現地調査を行いました。対岸の地区はイノシシの住処で、多くの足跡がありました。斎藤氏は仁淀川の少し下流の鎌井田出身で、子供の頃に仁淀川で良く遊んでいたと話されました。その当時、対岸の台地はもっと高く、多くの岩塊が存在したと言われました。このため、仁淀川の河積断面が不足し、上流の越知盆地がしばしば氾濫する一要因になっていたので、昭和21〜22年(1946〜1947)に地域の人達は多くの岩塊を撤去し、河積断面を拡幅する工事をしたそうです。
図16に示したように、河道閉塞地点から上流の越知盆地周辺には、標高61mの5箇所(赤字の地名,今成の石碑は存在したようですが、今は見つかりません)に宝永の天然ダムのことを記録した石碑が現存しています。天然ダムの湛水標高を60mとして、湛水範囲を図16に青斜線で示しました。高知県砂防指定地区域図(10mコンター)をもとに、河道閉塞を起こした地すべり性崩壊地の形状を算出すると、面積12.5万m2、移動岩塊442万m3、河道閉塞岩塊240万m3となりました。この天然ダムの湛水面積(S)は1/2.5万地形図で計測すると480万m2(4.8km2)、水深(H)18mであるので、湛水量(V)は2880万m3(V=1/3×S×H)となりました。決壊までの時間(R)が4日(35万秒)ですので、この時の仁淀川の平均流入量(Q=V/R)は83.3m3/sとなります。
石碑の写真を写真3,4に示します。屋外においてある石碑の文字はほとんど読むことができませんが、女川の石碑(写真3)のみ阿弥陀堂の中にあり、「南無大師扁照金剛 宝永七 尾名川村 惣中」と読むことができました。これらの石碑は宝永地震から3年後の宝永七年(1710)に建立されたことが分かります。他の石碑は風化が進み、文字が読みにくくなっていますが、祈願文と年次の文字は同じで、地名だけが建立地点の地名となっています。
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写真3 女川の石碑(越知町女川地先) (2008年10月,井上撮影)
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写真4 洗浄されて読みやすくなった柴尾 の石碑と説明看板(説明される山本佐久實氏) |
平成16年(2004)の台風23号(氾濫水位,標高60.83m)と平成17年(2005)の台風14号(同61.10m)によって、仁淀川流域は激甚な洪水氾濫を受けました。このため、高知県中央西土木事務所では、柳瀬川の氾濫地域の電信柱数10本に標高61mの高さに、柳瀬川の洪水水位標識(写真5,6)を設置し、洪水氾濫に対する注意喚起を行っています。
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写真5 越知盆地の電信柱の洪水水位標識
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写真6 柳瀬川の洪水水位標識 |
(2008年10月,井上撮影)
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宝永南海地震で形成された天然ダムの湛水標高は61mで、上記の洪水氾濫水位とほぼ同じです。図16に示したように、現在の越知町の集落はこの湛水標高より上位の河成段丘上に大部分が位置しています。地元では、「石碑より下に家を建てるな」という言い伝えが残っています。現在でも標高61mよりも低い地域には人家がなく、大部分が水田となっています。吉岡町長はこれらの碑を見ながら、「平成16年と平成17年の柳瀬川の洪水氾濫では、激甚な被害を受けましたが、300年前の天然ダムの湛水標高が61mであることに驚いた。湛水位を示す石碑を大切に保存して、言い伝えを『貴重な防災教訓』として、越知町民に伝えていきたい」と話されました。写真4に写っている説明看板は、当機構の木村基金の援助で設置されたものです。地元の有志では資金を出し合い、石碑のある4ヶ所と河道閉塞地点に同じ看板を設置しました。高知に行かれたら、ぜひ、越知盆地まで足をのばし、これらの石碑と説明看板や地形状況を確認してください。
② 白鳳地震(684)による仁淀川左岸の崩壊と天然ダム
図17に示したように、「舞ヶ鼻より1km上流の横畠東には大規模地すべり地形が存在し、白鳳地震(684)によって、大規模な地すべりが発生し、仁淀川を塞き止めて天然ダムが形成された」という伝承を山本武美氏から教えて頂きました。
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図17 白鳳地震による仁淀川左岸・横畠東地区 の湛水範囲 < 拡大表示>
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図18 横畠東の大規模土砂移動 赤点はチャートの転石 < 拡大表示> |
(委員会報告書,2013)
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このため、平成23年(2011)10月に山本氏の案内で高知大学の横山俊治先生などと一緒に現地調査を行いました。図18に示したように、横畠東の滑落崖付近には、ジュラ紀のチャートの巨礫が集中して分布しますが、チャートの連続した地層は分布しません。滑落崖直下にはチャートブロックが点在し、地すべり移動体の中にも点在します。地すべり移動体は「砂岩>泥質岩」となっていました。チャートの巨礫は滑落崖に露出していたチャートブロックの崩壊で発生したものと考えられます。
仁淀川対岸の宮地地区にはチャートの巨礫を含む堆積物が存在しました。この地域の基盤は物部川層群からなり、チャート巨礫は異地性であり、対岸の横畠東のチャート礫と同サイズです。したがって、横畠東から大規模で急激な地すべり変動によって仁淀川を河道閉塞し、滑落崖の幅とほぼ同じ範囲に堆積したと判断しました。現在は仁淀川河床にはチャート礫は1箇所しか露出していませんが、天然ダム決壊時に流出したか、河床下に埋まっている可能性があります。
この天然ダムの湛水高の推定は困難ですが、宮地では標高80m付近までチャートの巨礫が存在するので、湛水標高70m程度の天然ダムが形成されたと判断しました。標高70m(湛水高25m)とすると、湛水面積710万m2、湛水量5900万m3となります。舞ヶ鼻の天然ダムが標高61m(湛水高18m)、湛水面積480万m2、湛水量2880万m3であるので、それよりも規模が大きく、越知町の集落はほとんど水没します。
この天然ダムは何時頃形成されたのでしょうか。宮地字宮ノ奥にある小村神社は、「祭神は國常立尊で、神亀元年甲子九年十五日(724.10.06)勘請し、當村の総鎮守とする・・・神様は洪水により杉の端に漂着した神様を日下の神主鈴木忠重が日下の小村神社として勧請した」と記されています。神亀元年(724)に建立された神社は現在地よりも仁淀川寄りにありましたが、その後の豪雨時(時期は不明)に被災し、現在地に移設されたようです。
白鳳地震は、静岡大学防災センター(2020.3.31最終更新):古代・中世地震史料データベース,白鳳地震(事象番号06841129)[日本書紀]の口語訳によれば、
「天武十三年十月十四日(684年11月26日20〜22時頃)に大地震があり、国を挙げて人々が叫び逃げ惑った。山が崩れて河が涌き、諸国の官舎・一般倉屋、寺社の破壊したものは数知れず、人畜が多数死傷した。伊予の道後温泉が出なくなり、土佐の田地50余万頃(しろ)(約12km2)が海水に没した(地震に伴う地殻の沈降か)。」と記されています。
四国で白鳳地震時に大きな地変があったことから、横畠東の地すべりと天然ダムの形成は白鳳地震(684)時に発生したと想定されます。
③ 安政地震(1854)による土佐清水市の土砂災害
図2と図5に示したように、安政元年十一月五日(1854.12.24)の東南海・南海地震では、四国地方で11ヶ所の土砂災害地点を抽出できました。東大地震研究所の都司嘉宣元准教授の高知新聞「歴史地震の話 19」(2008.8.25)によれば、幡多郡三崎村(現土佐清水市)と幡多郡佐賀町伊与木(現黒潮町)で、天然ダムが形成されたことが記されています(都司,2012)。このため、井上・横山・山本で現地調査を行うとともに、地元の教育委員会や関係者にヒアリングを行い、図19に崩壊地と天然ダムの湛水範囲を示しました。
図19 土佐清水市三崎地区の想定天然ダム(1/2.5万図幅「土佐清水」「下川口」)
(委員会報告書,2013を一部修正)
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5.2 東海地方の海溝型巨大地震と土砂災害の分布
① 東海地方の現地見学会
第1班では、平成24年(2012)8月3〜4日に「東海地方現地見学会 海溝型地震による土砂災害(深層崩壊)」を17名の参加者で実施しました。この現地見学会では、図20,21に示した行程とルートで行い、筑波大学井川演習林の施設に宿泊させて頂きました(砂防学会から援助を受けました)。見学会では、以下の土砂災害地点を中心に土砂移動状況などを議論しました。
② 五畿七道地震(887)による土砂災害
今回のル−トには入っていませんが、平安時代の仁和三年七月三十日(887.8.26)の五畿七道地震(M=7.5)によって、北八ヶ岳の火山体が強く揺すられました(震源域から300km)。このため、大規模な山体崩壊(移動土砂量3.5億m3)を起こし、大月川岩屑なだれが発生しました(井上,2011,2015.5.28,2021.7.14,2021.8.31)。岩屑なだれは千曲川を塞き止め、湛水高130m,湛水量5.8億m3(日本で最大規模の湛水量)の天然ダムを形成しました。その後、303日後の仁和四年五月八日(888.6.20)にこの天然ダムは決壊し、「仁和洪水」と呼ばれる大災害を千曲川流域(河道閉塞地点から150km下流まで確認)に引き起こしました。
図20 東海地方現地見学会(2012.8.3〜8.4)の行程
図21 東海地方現地見学会のルート,参加者一覧(委員会報告書,2013を一部修正)
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富士川上流、釜無川左支・小武川の上流のドンドコ沢では、苅谷(2012,2013)は放射性炭素の年代測定により、9世紀前半に1700万m3の巨大崩壊が発生したことを明らかにしました。このため、井上は苅谷・光谷・土志田とともに、「巨大(深層)崩壊の高精度研究会―年輪年代法による巨大崩壊の発生年代の推定と歴史史料との対比―」と題して、砂防学会の公募研究会に平成27年(2015)1月に応募し、平成27年3月に採択されたので、平成27年7月から研究会を開始しました。現地調査・年輪年代調査などの結果は各年度末に中間報告会を実施するとともに、砂防学会や日本地球惑星科学連合、日本地すべり学会などで報告しました。これらの研究会の活動については、平成30年度(2018)5月17日の砂防学会(鳥取大会)のテーマ別セッション(4)で発表しました。井上は司会進行を行い、5点の口頭発表、2点のポスターとして発表しました。
これらの研究会活動、発表内容については、コラム49をご覧ください。
③ 宝永地震(1707)による土砂災害
宝永四年十月四日(1707.10.28)の海溝型巨大地震(M=8.4)である宝永地震によって、東海地方でも多くの土砂災害が発生しました。
富士川左支・下部川の上流・湯之奥で、大規模崩壊(移動土塊量120万m
3)が発生し、下部川を河道閉塞し、湛水高70m、湛水量370万m
3の天然ダムを形成しました(
井上,2015.12.17のコラム14参照)。下流の下部温泉などの住民が参集して、除石作業を行ったようですが、硬質の巨大な岩塊が多く堆積していたため、効果がなかったようです。決壊洪水による被害記録は見つかっていません。
富士川左支・早川の右支・雨畑川上流で八潮崩れが発生したとされていますが、詳細は不明です(久保田,1989)。
富士川の山梨・静岡の県境の右岸に位置する白鳥山では、大規模崩壊(移動土砂量500万m3)が発生しました。富士川本川を河道閉塞し、湛水高30m、湛水量1400万m3の天然ダムを形成しました(中村ほか,2000)。この崩壊土砂は富士川対岸の長貫集落を襲い、22名が死亡しました。天然ダムは3日後に決壊しましたが、下流には大きな被害を与えませんでした。
白鳥山は、安政地震(1854)時にも崩壊し、富士川に湛水高15m、湛水量860万m3の天然ダムを形成し、1日後に決壊しました。
安倍川の源流部では、大谷崩(移動土砂量1.2億m3)が発生し、大規模な土石流が安倍川を流下しました。この土石流によって、数ヶ所に天然ダムが形成されました。安倍川左支の三河内川を河道閉塞し、湛水高30m、湛水量470万m3の天然ダムを形成しました。この天然ダムは三河内川からの土砂流出で次第に埋積され、広大な土石流段丘を形成しました(中村ほか,2000,国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所,2007)。
静岡県由比町(2008年11月静岡市に編入合併)の薩埵峠付近は、太平洋に面した急崖となっているため、宝永地震(1707)や安政地震(1854)時には山崩れが頻発し、東海道はこの地点で何度も交通止めとなりました(国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所,2007)。薩埵峠付近では東海道は上道・中道・下道に分かれて通行していました。
④ 安政地震(1854)による土砂災害
安政元年十一月四日(1854.12.23)の海溝型巨大地震(M=8.4)である安政東海地震によって、前述したように、白鳥山は大規模な崩壊を起こしました。今回の現地見学のルートから少し外れていますが、富士川右支・早川右支・春木川上流の七面山崩れ(崩壊土砂量7500万m3)は、安政地震で大きく崩壊しました(国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所,2007)。永井・中村(2000)は『身延図鏡』や身延山久恩寺などの史料から、1600年以前からこの大規模崩壊は存在していたと説明しています。
静岡県島田市川根町笹間上では、安政地震で笹間川の右岸斜面で、43万m3の崩壊が発生し、湛水高30m、湛水量170万m3の天然ダムを形成しました(国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所,2007)。この天然ダムは、崩壊から4km上流まで湛水しましたが、2か月後に決壊しました。
⑤ 海溝型地震以外の土砂災害
現地見学会のルートには、口坂本地すべりなどのように、大規模な地すべり地形や崩壊地形が多く存在しますが、地震との関係は良く分かっていません。百数十年毎に発生する海溝型地震の間にも、直下型地震や豪雨によって、多くの土砂災害が発生しています。
安倍川川中流・蕨野では、大正3年(1914)8月24日の台風襲来によって、右岸斜面が崩壊して河道閉塞を起こしました。湛水高15m、湛水量160万m3の天然ダムを形成し、すぐに満水となって決壊したため、大洪水が静岡市街地を襲い、溺死者45名、流失家屋1000戸、浸水家屋1万戸の大被害となりました(井上ほか,2008;井上,2017.8.4)。
安倍川は文政十一年(1828)にも大洪水を引き起こしていますが、発生源の大規模崩壊の位置は特定されていません。
大井川流域でも、赤崩などの大規模崩壊地が存在することを、筑波大学井川演習林の今泉文寿、西川綾子様に案内して頂きましたが、江戸時代以前の災害記録は見つかっていないようです。
大正関東地震による土砂災害については、井上(2013b),いさぼうネットのコラム37,38,39,40をご覧ください。
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井上公夫(2012c):砂防学会東北地方太平洋沖地震災害調査委員会,第1班(歴史地震)東海地方現地見学会案内資料「海溝型地震による土砂災害(深層崩壊)」
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井上公夫(2014):富士山宝永噴火後の土砂災害,特集▲火山災害は噴火だけじゃない,地理,2014年5月号,口絵,p.2-3.,本文,p.42-50.
井上公夫(2015.5.28):コラム3 八ヶ岳大月川岩屑なだれによる天然ダムの形成(887)と303 日後の決壊,7p.
井上公夫(2015.7.16):コラム6 1707年富士山宝永噴火〜長期間に及んだ土砂災害〜,8p.
井上公夫(2015.11.02):コラム12 1707年の宝永地震による仁淀川中流・舞ヶ鼻の天然ダム,いさぼうネット「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」,7p.
井上公夫(2015.12.02):コラム13 1707年の宝永地震による高知県東洋町名留川の大規模崩壊,いさぼうネット「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」,10p.
井上公夫(2015.12.17):コラム14 1707年の宝永地震と富士川・下部湯之奥の天然ダム,いさぼうネット「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」,8p.
井上公夫(2016.11.24):コラム24 天保五年(1834)の富士山の大規模雪代災害,8p.
井上公夫(2017.1.12):コラム26 安政東海・南海地震(1854)による土砂災害,いさぼうネット「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」,8p.
井上公夫(2017.8.4):コラム36 豪雨(1914)による安倍川中流・蕨野の河道閉塞と静岡市街地の水害,12p.
井上公夫(2017.8.28):コラム37 関東大震災(1923)による横浜の土砂災害―9月1日のプールの逃避行ルートを歩く―,12p.
井上公夫(2017.9.14):コラム38 関東大震災(1923)による神奈川県東部の土砂災害―横須賀地区と浦賀地区の土砂災害地点を歩く―,13p.
井上公夫(2017.10.05):コラム39 関東大震災(1923)による丹沢山地の土砂災害―秦野駅から震生湖周辺の土砂災害地点を歩く―,15p.
井上公夫(2017.10.18):コラム40 関東大震災(1923)による小田原市の土砂災害―根府川・白糸川流域の大規模土砂災害地点を歩く―,14p.
井上公夫(2018.7.26):コラム49 富士川右支小武川・ドンドコ沢の巨大深層崩壊と岩屑なだれ(887),22p.
井上公夫(2018):歴史的大規模土砂災害地点を歩く,丸源書店,コラム3,p.12-17.,コラム6,p.30-37.,コラム12,p.75-81.,コラム13,p.82-91.,コラム14,p.92-98.,コラム24 p.186-193.,コラム26,p.200-207.
井上公夫(2019):歴史的大規模土砂災害地点を歩くU,丸源書店,コラム36,p.66-77.,コラム37,p.78-90.,コラム38,p.91-104.,コラム39,p.105-119.,コラム40,p.120-133.,コラム49,p.237-258.
井上公夫(2021.7.14):コラム72 五畿七道地震(887)による北八ヶ岳の大規模崩壊と千曲川に形成された天然ダム,その後の稲子岳周辺の変位,18p.
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