関東大震災の土砂災害について中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書(2006)は、「横浜や横須賀など市街地及びその周辺に及び、現在では宅地化が進み、同様の土砂災害が発生した場合には多くの人命が失われる可能性がある」と警告しています(井上・伊藤,2006)。
コラム37,82でも説明したように、現在の横浜は震災と戦災を経て石積み擁壁の修復や急傾斜地対策工事の進捗も見られますが、低地にも崖地にもマンションが乱立しています。
相原(2023a)は、発災時の気象状況が大規模災害につながったことから、当時の新聞記事や気象記録を引用して、「複合災害としてみた神奈川・横浜の関東大震災」と題した発表をしました。100年目を迎えた令和5年(2023)には、横浜国立大学を会場に「ぼうさいこくたい 2023in 横浜」が盛大に開催されました。また、筆者等は日本災害食学会横浜大会で講演と巡検案内をしました(相原,2023b)。
相原は、横浜山手地区の関東大震災による土砂災害地点の地形・地質状況について調査・研究を続けています(相原,2024)。本コラムでは、改めて被災地を歩き、関東大震災による土砂災害の教訓を継承する情報を提供したいと思います。
横浜は多摩丘陵南部とそれに続く末端の台地に位置し、市域の北側の帷子川と南側の大岡川などの河口デルタに新田・塩田が開発され、開港以後に海面を埋め立てて発展した都市です。震災時の横浜駅は2代目、現在の高島町駅付近で、市街地の中心は桜木町駅(初代横浜駅)周辺の大岡川の下流域で発展していました(図1)。
田邊・古谷(2014)は、横浜市大岡川・中村川下流域における運河の発展と衰退について研究しています。それによると、大岡川と中村川の間の埋め立て地は吉田新田といい、明暦二年(1656)に幕府の許可を受け、翌年から9年の歳月を要し完成しました。新田完成後、代々の継承者が多くの小作人を率いて土地をならし、埋め立て・開墾の事業に努めました。
埋め立てには台地の崖地を切り開いて出た土砂を使用しました。土砂の切り出しは「石川・中村・大丸山(現在の南区中村町)」、「天神山(現在の中区日の出町)、と「州干島」(図1のJLM)とされています。大丸山の土砂切り出し跡である急崖は平成3年(1991)にモルタル吹付け工事がされています(写真1、2)。明治に入ると人口の増加や都市化による物資の動きが増大し、それに伴い必要になったのは舟運による方法で、舟路としての運河の開削が要請されました。中村川と根岸湾を結ぶ水上交通路として、横浜港と周囲の地域とを結ぶ重要な役割を担う堀割川が開削されました。開削の位置を地理院地図で調べてみると、石川・中村・大丸山の西側の台地の崖地「弥八ヶ谷戸」(図1のK現在の南区高砂町辺りから、中村、蒔田村の間)で、堀削土砂を用いて吉田新田の沼地を埋め立てたようです。
本牧台地は北に向かって浅い谷をいくつもつくりながら東西に広がっています。台地東側の斜面には縄文時代中期の貝塚遺跡が、大岡川の河口を塞ぐように突き出ている砂嘴または砂州(現在の中区本町通)には弥生〜古墳時代の住居跡が知られています。江戸時代にはそれらの場所に横浜村の畑地が、台地の谷底平野には湧水を利用した水田がありました。そして開港を契機に多くの外国人が訪れるようになり、彼らを相手にしたさまざまな業種の店が並び、横浜村は元町として生まれ変わりました。
明治21年(1888)に市制が引かれた当時の居留地は大岡川、派大岡川、堀川の運河で区切られた関内地区の山下居留地と、台地の山手居留地に分かれていました(図2)。当時の横浜市中心部の地形状況を地理院地図で示します(図3)と、海抜3m前後の高まりである砂嘴は本牧台地の縁からその先端部が桜木町の方に向かって北西に伸びています。北仲通に移転した新横浜市役所には、州干島遺跡(図1のM:近代の歴史的遺産)があります。
居留地外国人により本牧台地の急崖は「ブラフ(bluff)」と呼ばれ、住居表示にも使われています。昭和44年(1969)施行の急傾斜地法に基づくコンクリート擁壁やモルタル吹付け・植生などに覆われ、
地質や地盤が見えなくなっています。平成16年(2004)に調査を担当した茅野光廣氏によると、「地質的にかなり安定した地盤で、崖上部の勾配も安定勾配に近い状態にしてありますが、震災時の自然崖の状態は恐らくもっと急勾配で、表面には表土が張り付いて不安定な状態であり、その部分が地震動により崩落して各所でがけ崩れが発生する原因になった」と述べています。写真3は茅野光廣氏が平成16年(2004)に撮影したもの、写真4は野崎篤ほか(2021)が平成29年(2017)に撮影した露頭の近接写真です。
茅野光廣氏提供のボーリング柱状図(図4)に、野崎篤ほか(2021)の地層名を書き込んでみました。下から基盤の上総層群の上星川層(やや固結したシルト層)、不整合で接する相模層群戸塚層(砂礫層)、下末吉層、箱根新期ローム層、盛土の順に重なっていると解釈できます。戸塚層は「古相模湾」方向に開く堆積盆と「古東京湾」方向に開く堆積地域に広がり、本牧台地に見られます。下末吉層は層状で戸塚層と同様に含水量が多く、湧水があります。
内閣府社会局(1926)では、旧横濱市の震災前後について、次のように書かれています。「山手町一帯は高層地で、地盤はやや鞏固であるが傾斜地が多いので、家屋の建築は概して盛土をしたものであり、又家屋は普通住宅といえども概して中流以上の外国人の邸宅であったため、比較的広大であった関係から、多くは第一震にて倒潰し、ついで所々からの発火によって焦土と帰した。同町は高層地ではあるが、所々に小凹地があり、邸宅と邸宅の間に相当間隔があるのみでなく、何れの邸宅の周囲及び
図5 本牧台地東部の被災地(BLUFF DIRECTORY,1923)
●は本文の記載場所の位置を示す
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その他にも樹木が茂っていて、自然防風林の形をしていた。もし強風程度の風力であれば、このような大惨事になることはなく、自然延焼を防止し得たであろうが、関東地震当日の烈風は到底火勢を防ぐことができず、一挙に焼き尽くしてしまった。枯木焼林は鹿角のように点在するのみとなった。居住民は遁れるのに相当困難を感じたが、下町のように人家稠密地ではないので、割に死傷者も少なく、焼失家屋は636戸。(以下、避難場所は省略)」とあります。さらに続けて、「断崖の惨状を呈したのは同町の東端“見晴らし”と称する場所である。同所は新山下町埋立地の真上にあって、約40尺(注;実際には約37m)の高さがありました。東京湾を隔てて房州半島に対する眺望佳絶の場所であって、その断面はコンクリートで固めてあったが、約30間(54m)は道路の小部分を残して約6尺(1.8m)沈下し、車馬の交通を断ち、その前後のコンクリート以外の断崖は、約70間にわたって大崩落を為し、崖上にあった外人住宅2軒、邦人住宅1軒は40尺(12m)下の崖下に転落して粉砕した。」と記され、横浜市役所編纂部(1926)でも同様に“見晴らしの崩壊”と特別に記載されており、当時大事故として報道されました。
「見晴らし」には、道路沿いに盛土した場所にコンクリート擁壁が作られていました(写真5,6)。元の地形に沿って流れ込んだ地下水がたまると、盛土の重みが増していきます。地震により強い揺れが加わり、盛土の地下水圧が上昇し、地盤が緩んで盛土が滑り、建物毎崩落しました。当時の住宅地図名簿(Bluff Directory)を手掛かりに旧居留地では数少ない邦人住宅を調べてみると、2軒(崩壊住宅は山手118番と148番)あることがわかりました(図5)。また、震災前後の地形を比較してみました(図6)。なお、この場所の被害写真は、横浜市史資料室(2010)に、前川健三撮影「関東大震災関係写真撮影帖写真目録
図6 見晴らし附近の震災前後の地形図の比較(同一場所を縮尺を調整して表示)
左:大日本陸地測量部1万分の1地形図(1923年10月発行) 右:横浜市3千分の1地形図(1933年発行)
資料番号41505」として登録されています。
4.2 港の見える丘公園(震災時英国海軍病院、図1の地点A)
英国海軍病院(山手町198番地)は明治6年(1873)頃設置されました。神奈川県警察部(1925)によると、「病院は震災で全壊し、院長シングストン中佐は無事脱出しましたが夫人は圧死し、数名の負傷者が生じました。地震後、間もなく西方の外人墓地方面から襲ってきた火は門前に当たる「ゲーテ座」(現岩崎博物館)まで迫ってきて、門の下北方谷戸坂方面にも火災が発生しました。同病院はその構内が広いので坂下及び外人墓地より逃れてきた外国人多数の避難者は、ただ一方の逃れ場所たる英国海軍病院の構内に入り込んできました。烈風に渦巻く黒煙を構内東方崖上の樹林中に潜み、しばらく凌いでいましたが、ほどなく猛火が全構内に延焼してきました。院長は院内の者を指揮して、約 40 尋(約 47 m)以上の太い麻綱3,4条を崖上の樹木の根に結び、これを崖下に垂下し、避難民を崖下の新山下埋立地に逃れさせましたが、幼者又は婦女等は一条の綱によって数丈(1丈は約3.03m)の絶崖を下ることは困難で、身を支えられず、掌の痛さに耐えず、続けて降りる者の足に押されて思わず手を放ち、崖下に落ちて絶息する者を生じるなど、実に惨憺たる光景となりました。院長は絶壁に垂下する網縄が足りないとなると、院旗の掲揚に用いる時の旗竿の綱二条のうち一条切り取ってこれを使用したというにあたっては、その壮烈まさに鬼神を泣かしむるものなり。」と書かれています。
一方、コラム37にO.M.Poole(1966,金井訳,1976)氏の山手の崖を脱出したときの様子が紹介されています。「病院の階段を登り、広い構内に入ったが、病棟等はペチャンコになっていました。多くの人々が山手通り上手の2面のテニスコートに避難していました。
避難してきた人々は次の段々庭へ降りて、湾を見晴らす崖の方へ進み、さらに崖縁の第三庭の方へ向かいました。しかし、芝生には驚くような亀裂が発生し、数年前に崖下の海辺にできた埋立地の方に崩れ落ちていました。数分毎に余震が起きました。第三段目の段々庭全体が40mの崖をすべり落ちることを恐れて、私達は第二の段々庭にあるヒマラヤ杉の陰に行き、やっと安心しました。はじめて、私達は事態を見極めることができました。ここで野宿するとすれば、シーツと食料と水が必要でした。病棟から枕とシーツを入手したが、食料は私のポケットにあるだけでした。元に戻ると負傷者が加わっていました。背の高い木々が防壁となっていましたが、わずか100ヤード(91m)離れた火の川からくる騒音と熱気は、かなり恐ろしいものとなりました。病院構内から掘割への出口は、フランス山の火で閉ざされました。このため、3人の英国水兵と一緒に、テニスコートの周りの網を外して、段々庭にあるあずま屋にしっかりと固定し、崖に覆いかぶさるように投げました。半分はそこにぶら下がったが、残り半分は届かず、簡単に降りることは出来ませんでした。(途中省略)人々は崖の上端(図1の地点A)に引き寄せられ、大人が網の綱を使って降り始めたが、子供達をどうやって降ろすかが問題となりました。私は長男のトニー(6歳)を背中に縛りつけて貰い、降り始めました。ドロシーは先に降りて、斜面の途中で子供を受け取ることにしました。私は子供の頃、このあたりの崖を登ったことがあり、懐かしく思いました。初めの30フィート(10m)はうまく行ったが、次第に勾配が急となって上の人の姿が見えなくなり、やっと地すべりの上に辿り着けました。」
以上がコラム37での記述ですが、プール(金井訳1976)には家族が決死の思いで降りた崖の様子がもう少し詳しく書かれていますので、その一部を抜き出してみます。
「網の半分はそこにぶらさがったが、残り半分は芝の生えた面に広がった。その先の崖は険しかったが、垂直ではなく、150ないし200フィート下の海辺と埋立地に切り立っていた。網は下り三分の二までは届いているが、ある出っ張りの棚のようなところで消えていた。あきらかにそこまでいったら網から手を離さなければならなかった。狭い縁に沿って約50ヤード渡って水平にゆっくりと進み、新しい地すべりのあった地点に辿りつけた。(途中省略)
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図8 記述から導いた避難ルートの推定図 (O.M.Poole 著「古き横浜の壊滅」p73 より)
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図7 降りた場所
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その道はせいぜい幅2フィート(60cm)で、不規則に出っ張っていたため、それを渡っていくには勇気が必要であった。真下は崖が切り崩されていて、50フィート(15m)下の海辺へ落ち込んで見えなくなっていた。1回滑ったら致命的であった。」とあります。そこで、記述を忠実にまとめますと、「命綱である網は崖沿いの道にまで達することができず、崖の凸部分(礫層上部)まで届いていた。そして崖伝いに降りると水溜りがあり,幅 60cm ほどのステップを地すべりの場所まで45m移動した。」と解釈できます。また、プール(金井訳1976)が撮影した降りた場所の写真を山手の住所地図(図7)で確認すると、降りた場所は海抜37mで、棚は湧水のある砂礫層(戸塚層)、泥岩層の上を北方向に緩やかに傾く斜面を地すべりのあった所に移動していたことがわかり、このことを断面図で示しました(図8)。
4.3 谷戸坂の土砂災害(図1の地点B:フランス山の西斜面)
谷戸坂は、古くは本牧十二天(疱瘡大明神)への道として遠くからの信仰を集めていました。谷戸の両側の崖に沿って二本の道があり、谷間に農家がひっそりと暮らしていたのですが、安政六年(1859)に開港して多くの外国人が住むようになりました。
攘夷運動が高まり、外国人殺傷事件が起こるようになったので、万延元年(1860)に中村川を延長して堀川が開削され、山下居留地と山手居留地を通す関所を置く谷戸橋が作られました。フランスは自国民の保護を目的として道の左側の山(フランス山)の斜面に仏国軍隊を、イギリスは坂を上がり切った場所に英国軍隊を駐留させました。谷戸坂の右側の一方は車の道となって拡張され、左側の背後のフランス山の崖に堅固な石垣の擁壁がありました。この場所は当初元町一丁目で、西洋人相手の商店や旅館の家並みができ賑やかになりました。しかし震災直後に家屋は全潰し、すぐに下方から全焼しました。山手町ブラフ100番にあった10段の高さの房州石のブラフ積み擁壁があって、(写真7の■の位置)崩壊しました。現在マンションの直下に「大震災殉難者の碑」(発起人11名、建立経緯不明)が建立されています(写真8,9)。坂道の曲がり手前付近が戸塚層の砂礫層(後述)の高さで、曲がり角辺りが湧水地点です。どうやら、地すべりの原因は湧水と軟弱地盤と考えられます。
裏坂のブラフ積み擁壁は横浜市で最大の長さのものです。大部分の石材は表面が縦方向のラミナが顕著な房州石(元名石)、一部の石材は白色の芦野石が使われています。ともに凝灰岩ですが、倒潰は免れたようです。
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写真7 谷戸坂の擁壁(●〜●間) (地理院地図をもとに修正)
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写真8 慰霊碑の上のマンション (2023年12月相原撮影) |
写真9 大震災殉難者の碑 (2023年12月相原撮影) |
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写真10 谷戸坂(裏坂)のブラフ積み擁壁 (2024年6月相原撮影)
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写真11 一部が変則的なブラフ積み擁壁 (2024年6月相原撮影)
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震災後にモルタル充填して補修処理されています。(写真10,11)
4.4 外国人墓地(図1の地点C:アメリカ山西斜面〜貝殻坂〜ジェラールの水屋敷)
アメリカ山公園の名称の由来は、明治初頭に米国公使館の予定地となっていたことや戦後にアメリカ軍に接収された歴史などがあり、土地柄アメリカにゆかりがある高台ということから命名されています。
写真12 地点C周辺のようす (地理院地図をもとに修正)
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図9 元町貝塚の2ヶ所の貝塚 (横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター2010) < 拡大表示>
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外国人墓地に降りていく「貝殻坂」には、縄文時代中期前半(4,500〜5,000年前)の貝塚(元町貝塚)が2か所発見されています(図9)。貝塚の貝種はアサリやハマグリ、オキシジミなど、砂嘴の周辺の砂底の浅い海に生息する種類で、周辺で採取し食料にしていたと考えられます。この谷奥からの豊富な湧水がある(図9参照)ことを考えると、高台に縄文人が生活を営んでいたことが十分考えられます。
次に、見尻坂(墓地とアメリカ山の境界の坂道)を登って行きます。下の数段は苔むしたブラフ積みの房州石ですが、上部が崩潰したために(時期不明)、その後修復されており、上にサイズの小さい石材(伊豆軟石)が使われて水抜きの穴も開けられています。
写真13 見尻坂の石垣{房州石から相州堅石(安山岩)への移り代わり}(2024年6月相原撮影)
石材の間はモルタル充填されていますが、だいぶ剥がれ落ちています。そして坂上に来ると、擁壁は相州堅石(安山岩)に変わっていきます。この斜面は谷に向かって地すべりを起こして一部崩潰したようです。
「貝殻坂」を降りていくと、道沿いの左側の石垣の積み方が必ずしもブラフ積みではありません(長手を交互に重ねていっている)。また、外国人墓地の背後にある石垣は「大谷石」です。この擁壁は大谷石の隙間をモルタルで充填してセメント材を使って積まれています。このあたり一体も、震災で一度擁壁が全て崩れて、積み直しているようです(写真14)。
写真14 貝殻坂(左:墓地背後は大谷石、山側は伊豆石または高取石,右は大谷石の擁壁)
(2024年6月相原撮影)
外国人墓地の下に展開している崖地では、その多くが房州石(元名石)を使用した古いブラフ積み擁壁ですが、擁壁全体が横に孕みだしている様子や、表面を研磨し、積み直して隙間をモルタルで充填して修復している箇所、相模川の河原の石を使用しているものなど様々なものがあり、震災により斜面が崩壊したのち、修復した様子が推測できます(写真15,16)。
震災直後の写真(写真17)は外国人墓地から代官坂〜浅間神社を撮影していますが、左手の山手から右手の元町方向に地すべりが生じています。震災当時外国人墓地の上に米国海軍病院(現在横浜地方気象台)がありました(写真18)。
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写真15 墓地の周りのブラフ積みの擁壁
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写真16 修復・モルタル充填した擁壁 (2024年6月相原撮影)
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写真17 震災直後の地すべりのようす (古壁ウォッチングHPより引用)
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写真18 横浜地方気象台附近から撮影 (2023年6月相原撮影)
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フランス人実業家ジェラール(1837〜1915)は文久三年(1863)に来日し、明治元(1868)年に山手の湧水として以前から知られていた「打越」の湧水(図1の地点I)を確保し、給水業を初めました。貝殻坂からジェラールの水屋敷までの間はまだ田畑でした。明治三年(1870)に元町の湧き水を確保し、船舶給水業、瓦工場を始めましたが、明治11年(1878)に突如帰国しました。工場は後継者の手で操業が続けられましたが、明治20年代始めには潰れたようです。大正9年(1920)には工場跡地に大正活映の撮影所に、震災前の大正11年(1922)にはジェラール給水株式会社ができていました。豊富な湧き水に目をつけ、谷戸の斜面に竈を設け、瓦を製造していたようです。瓦の土はフランス本土から持ってきたといわれています(横浜・中区史1985)。昭和5年(1930)には元町公園となり、プールが作られこの湧水が利用されました。2010年時点での同市都心部公園課によれば、湧水量は日平均300トンだそうです(横浜開港資料館・読売新聞東京本社横浜支局,2010)。
図10に、横浜市地盤 view の地質柱状図から台地の推定断面図を示します。港の見える丘公園から新山下町へと降りる階段の坂の途中に湧水が見られますが、ジェラールの水屋敷の湧水と同様に、戸塚層の砂礫層から湧き出していることがわかります。谷戸坂の地すべりも同じような理由で地すべりを起こしている可能性があります。断面図を本牧台地からさらに西にフェリス女学院まで断面図を伸ばしてみます。
女学院は明治三年(1870)年の創立ですが、明治21年(1888)に完成した「フェリスの赤い風車」が市内からもよく見えた(明治30年(1897)に台風で倒壊)そうです。風力でポンプアップして井戸水を汲み上げました。井戸の深さは175フィート(53.4m)の深井戸であることから(牛山泉,1977)、戸塚層よりさらに深い上総層群の軽石層のあたりから採水していたと考えられます(図 11)。
図10 港の見える丘公園(図1の地点A)から外国人墓地(図1の地点C)にかけての柱状図の対比
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図11 港の見える丘公園(図1の地点
A)からフェリス女学院(図1の地点
Fにかけての柱状図の対比
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4.5 元町百段(図1のD:百段公園と浅間社跡地)
神奈川県警察部(1925)による大正大震災火災誌には「元町百段は元町と山手居留地を結んだ景勝地で、急階段(段数101段高低差23m)でした。崖上は浅間山といい、そこにあった神社二戸は激震によって土砂とともに崩落し、崖の中腹に引懸かっていましたが、後に起こった猛火のために燃焼し、崖下にあった民家の14戸は落下してきた土砂の煽りを受けて前方に叩き出されて転覆し、若干の死者を出した。」と書かれています。写真19に元町百段と浅間山の崩壊の様子、写真20に現在の百段の跡地とその急崖を示します。
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写真19 元町百段と浅間山の崩壊(9月中旬頃) 「横浜大正大震災写真帖」(横浜市中央図書館所蔵)相原追記 < 拡大表示>
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写真20 前田橋から見る百段の崖 (2022年11月相原撮影)
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4.6 汐汲坂(図1の地点E)からフェリスの丘(図1の地点F)
フェリス和英女学校(当時)の校舎群は、山手の丘の景勝地で絵葉書にもたびたび登場します。地震で校舎は倒潰、焼失という甚大な被害を受けました。当時のジェニー・M・カイパー(1872-1923)校長は校舎の下敷きになりながら、生徒を避難させるように指示。やがて元町からの火災で校舎とともに火炎に包まれ殉職しました。カイパーの生涯はフェリスの人々に記憶され、その教育理念「For Others」を象徴するものとして伝えられています(フェリス女学院大学歴史資料館山手キャンパス150周年記念館展示より)。Web サイト「横浜古壁ウォッチング」には、震災前後のフェリス和英女学校のようすが詳しく掲載されています(写真 21と22)。
写真21 中村川にかかる吉濱橋から撮影した震災前のフェリスの丘の建物
図中の建物(1)汐汲坂の私立横浜高等女学校 (2)レッツ・ビルディング(3)フェリス和英女学校東校舎
(4)同南校舎 (5)ユニオン教会 (6)桜山ホテル(チェリーマウント) (7)オウストン邸
写真22 1923年9月12日の被害 (吉濱橋の一つ下流側の花園橋から撮影)
(写真22と23は古壁ウォッチングHPの写真を引用、相原が写真に追記)
「建物が崩潰してバラックが立ち並んでいる」ことから、写真22の撮影時期は9月12日頃でないかと推測しています。崖の変化から、土砂災害のようすを推測し、追記しました。震災前後の変化は、盛土の崩壊と建物の倒潰、その後の火災の順に分けられます。
@ フェリス女学院の(2)〜(4)校舎と(5)ユニオン教会が倒潰⇔汐汲坂とフェリス坂の地すべり
A (5)と(6)の谷の地すべり⇔谷間の建物や(6)桜山ホテルが倒潰消滅 ※(7)オウストン邸残存
B (3)校舎下のブラフ積み擁壁落下し、崖の地層が露出
C (2)と(3)の間で樹木と盛土が地すべり ※汐汲坂の横浜高等女学校残存
D 元町の住居倒潰後出火
E 校舎焼失丘に延焼
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写真23 擁壁のモルタル吹付け
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写真24 坂上のコンクリート擁壁 |
写真25 反対側の擁壁のひび割れ (2024年6月相原撮影) |
写真21の左側にある汐汲坂には震災当時は「なまこ壁校舎」で有名な私立横浜高等女学校がありました。「斜面に建てられた校舎は倒潰せずに、元町からの火災で全焼した。」と記録にあります。坂道は一息で上れない急な坂道ですが、昔から児童生徒の通学路になっているせいかコンクリートの道には滑り止めがあって、下りでも安心して降りることができます。写真22では斜面の詳細はわかりませんが、写真23では擁壁の修復の跡が随所に見られます。擁壁のひび割れと孕みは山側からの地すべりの証拠であり、今でもリスクが高いようです。
4.7 大丸谷の崩壊:土方坂(図1のG)と大丸谷坂(図1の地点H)
写真26 大丸谷(フェリス女学院とイタリア山庭園の間の谷)
(写真の左が東側、右が西側で 地点@大丸谷坂震災地蔵尊 Aブラフ積み擁壁 B大谷石擁壁 C汐汲坂の写真㉓〜㉕)
(地理院地図をもとに修正)
写真26はJR石川町駅南口から南側方向をみた航空写真です。円形状に凹んだ形状をしていて、本牧台地では最も谷幅が広く、通称「大丸谷」と呼ばれています。台地上端に近づくほど傾斜が急な場所でも住宅が建てられています。そうした場合、やや斜面が緩やかなところを含めて、それらの土地をならし、水抜きを入れつつ盛土を固め下の家との境などに擁壁を造り敷地を整える、というような形で住宅が造られてきました。大丸谷は幕末から明治初期には埋め立ての土取場となっていて、盛土による人工改変も進み、中村川と派大岡川、堀川の合流点で、運河の交差点として船運が盛んでした。中村川に沿って石川町一丁目から七丁目までは商店街があり、崖下にある中村仲町は港や埋地方面で働く人々の木密地域でした。大丸谷から台地に上がる坂は、東側に土方坂(土方が多く住んでいたことから名付けられた)があり、元町五丁目にあります。かつてヘビが多かったことから「蛇坂」と言われたり、元街小学校の通学路の坂につつじを植えた坂として「つつじ坂」とも言われていたそうです(横浜元町資料館,2002)。
大丸谷の西側のイタリア山に上る坂は大丸谷坂と言います。第二山手隧道(元市電本牧隧道)は元町五丁目、山手隧道(震災後掘鑿された)は石川町一丁目となります(写真27)。市電本牧隧道(元街隧道ともいう)は、本牧に通じる全長215mの隧道として明治43年(1910)11月から急ピッチで工事が行なわれて、明治44年(1911)12月26日に完成しました。写真28はフェリス女学院の生徒たちの通学路入口(図の現在地)にある急傾斜地崩壊危険区域の看板です。
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写真27 第二山手隧道(左)と山手隧道(右) (2024年2月相原撮影)
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写真28 フェリス坂入口の土木事務所の看板 (2024年2月相原撮影) < 拡大表示>
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写真29は大丸谷の災害写真です。これに山手の地層の説明と土砂災害の解釈を加えてみました。市電本牧隧道背後の黒い巨大な擁壁が数か所残っているのが大変印象的です。
元街小学校の歴史を綴る記念誌(「元街小学校復興誌」や「震災記念 元街小学校復興誌」「元街百年」「元街111年」)には、学校移転や震災前後の様子、教員の行動などが書かれており、教員や生徒の心情が読み取れる貴重な資料です。旧横浜市の人口の増加とともに学校の生徒数は増え続けました。また、元街小学校は増徳院→汐汲坂と転居、明治39年(1906)から三代目木造二階建て校舎となり、山手27番地の本牧台地の牛背のような尾根に建てられ(図12)、
写真29 大丸谷の土砂災害(古壁ウォッチングHPから写真提供、相原が追記)
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横浜市内で最大規模(在籍生徒数2597人)の小学校となりました。震災当時は土曜日なので10時頃には始業式を終え、教員だけが学校に残っていました。本震から5分間で校舎は倒潰し、三号運動場は地すべりで崩れました。
石川町・石川仲町の背後の崖一帯が崩潰し、住宅が土砂に埋まると5分後には火の手が上がり、南西の強風で校舎に燃え移って全焼しました。結局、学区内校舎の北西方の生徒 140 名、教員2名が亡くなり(内1名が震災関連死)ました。
「元街百年」の卒業生の回想文の中に「⼩学校の校庭の真中に古井戸があり、それがトンネル工事の真下に抜けてしまい落盤事故で多くの工事関係者が死んだり負傷したりした」という記事に目が止まりました。横浜市開港資料館で古い新聞記事を調べたところ、隧道開通年の明治44年(1911)12月26日から遡って新聞記事を探していくと、事故翌日の10月7日の横浜貿易新報と東京毎日新聞の2紙の記事を発見しましたが、2つの記事の内容は少しだけ異なっていました。
前者は、「井戸のどん底崩れ三人埋没:6日午後4時10分頃3人の人夫(34,30,28 歳)が元町の横濱電車隧道工事に従事中隧道の中央部元街小学校地底4坪程俄然音響を発して崩壊し来たり、前記3名は生き埋めとなりし居り、付近に働き居りし人々は大いに驚き、兎に角土中より掘り起こし十全病院に担ぎ込みしが、負傷は大腿部の四肢の擦渦傷にて生命には異常なく、原因は、現今元街小学校第一号運動場は元西洋館のコック部屋に当り居りしに依り深井戸のありたるを知らずにして其の底を穿ちたるより土塊の崩潰したるものなり。」
図12 元街小学校発行の「元街111年」に掲載されている震災の位置と写真(図赤枠が校舎)
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一方後者は、「隧道の崩壊:横濱石川町方面より根岸本牧方面へ向かう山手の隧道44間(79.2m)は過般来工事中なりしが、6日午後7時35分約4丈8尺(16m67cm)の土塀崩潰し、工夫(28)は即死し煉瓦工夫2名は重症」となっています。
数値が具体的な記事を中心にしてまとめると、「隧道工事中に隧道入口から約79mの元街小学校の校庭の古井戸の底(深さ約16.7m)が陥没して隧道が崩落、死者1名重症者2名を出す事故があった」ことのようです。この事故は隧道工事が始まって10日ほど経って、隧道完成の46日前のことでした。当時の住民の話によると、「隧道の両方(元町側と麦田側)から同時に掘鑿したが、うまく貫通するか不安だった」と書いてあるように技術面での不安があったとされます。
隧道工事開始時の記録は「横浜電鉄株式会社新線路写真帖」(横浜開港資料館所蔵)に残されています。詳細な解説はありませんが、絵葉書サイズの写真80枚からできている大変貴重なものです。そのうち2枚から堀鑿開始時の位置と側壁工事の様子がわかります。隧道は全て手掘りで行っています。
図13で示すように、軟弱地盤での隧道工法で隧道の周りに穴を開けて壁周囲をモルタルで固めていき、脆弱な地層が崩れないようにしてから最後に中央の隧道を掘る工法(側壁導抗先進工法)で施工されています。写真30には手前から向こう側(やや東南東方向)に地層は緩く傾いていて、右奥から崩れてくると予想されるので、掘鑿工事が古井戸の陥没を直接引き起したとも考えられます。
土木建築工事画報(1927)には復興後の昭和5(1930)年に完成した山手隧道の工事が説明されています。写真 30 は横浜市土木局(1929)に掲載されている昭和3年(1928)頃の山手隧道工事の開始時のようすです。写真のほぼ水平な白色縞模様の地層が下末吉層で、その下が砂礫層の戸塚層にあたります。上方左にあたる頂導抗の一部が砂礫層で、多少の湧水があるので水を抜きながら、アーチ部分の両側をリングカットし、そこに鉄骨の支保工を入れて矢板で天井を保護し、中央部を開削する同じ方法がとられています。「土質はほとんど土丹であるので手掘りで掘鑿している」と説明されています。隧道の入口の壁石は相州堅石とアーチ型に積み上げた赤煉瓦積みになっています。隧道内の煉瓦巻き付け部分を除いて、全て崩潰しています(図12の左の写真)。
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写真30 山手隧道工事(横浜市中央図書館所蔵)
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写真31 土方坂の擁壁(左:隧道裏、右:湘南国際医療大学運動場下)
(2024年6月相原撮影)
土方坂の急傾斜地に黒く写っている擁壁付近は、現在はどうなっているでしょうか。土方坂を上がっていった所に震災前の古い空石積みのブラフ積み擁壁が残されており、手前に2重の擁壁(高さ 5.4m)が補強されています。下から約2mに湧水が染み出しているので、戸塚層基底の砂礫層の位置にあたります(写真26のA地点)。一方、最上部の湘南国際医療大学(元街小学校跡地に建設)の擁壁(写真26のB)は高さ10mを越える大谷石擁壁です(写真31)。
5.大規模災害と盛土リスク
写真32 地理院地図写真による本牧台地の立体写真
(1978年1月25日撮影 縮尺S=1/8000 CKT771-C7B,22,23,24 井上作成)
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5.1 関東大震災から55年目(1978)の本牧台地東部の立体視写真
写真32は国土地理院が昭和53年(1978)年に撮影したカラー写真で、本牧台地東部を立体視できるように加工したものです。図1と見比べながら立体視して下さい。<拡大表示>の箇所をクリックすると、鮮明な拡大写真を閲覧できます。昭和 53 年(1978)は堀川などに高速道路が建設される前ですので、本牧台地北側の急崖部と元町の集落・堀川の地形状況が良く分かります。
5.2 本牧台地の震災と大規模造成地図
震災直前の元町は戸数1,218戸、人口約6,000人でした。崖崩れにより多くの家屋が埋積しました。中でも1丁目の増徳院の後ろの高さ3間(3.1m)の石垣が全潰、百段の真下数10軒の家が埋没、4丁目の大神宮も崖崩れで押し飛ばされました。元町は圧死者、溺死者ともに450人を数えました。一方、中村川沿いの石川町には商店街が多く、山沿いの石川仲町には通勤者や労働者の住宅が多く、戸数は両町で1,973戸でしたが、激震で両町の建物は瞬時に全潰・半潰ののち、中村方面からの火で全町焼失しました。石川仲町では元町と同じく崖崩れがいたるところで発生、3丁目で延長70間(127.3m)の崖が一挙に崩れ、約20戸が土砂に埋まり18人が生き埋めになりました。人々の多くは中村町や根岸方面に避難しましたが、石川町1丁目と2丁目の間の大丸谷には少しばかりの空地があり、数百人の避難者が大丸谷の坂道を登り殺到しました。然し下方より吹き上がる火勢は物凄く道路上は忽ち灼熱の地獄となりました。崖を登ろうとしても倒れた高い塀が立ちはだかり、窮地に陥っていました。
そのとき、2人の若者の活躍によって血路が開かれ、ようやく安全地帯に逃げ延びることができました。震災50周年にあたる昭和48年(1973)になって大丸谷震災地蔵尊(写真26の@)が祀られました。大丸谷では27名の犠牲者が、両町の犠牲者は450人に達したといいます。
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図14 大規模盛土造成地図(山手・元町)
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図15 土地条件図初期整備版(地理院地図) < 拡大表示>
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令和3年(2021)の静岡県熱海市の大規模な盛土崩壊による土砂災害などを受けて「宅地造成等規制法」(通称「盛土規制法」昭和 36 年(1961)年11月7日公布)が抜本的に改正され、「宅地造成及び特定盛土等規制法」が令和5年(2023)5月26日から施行されました。
そして横浜市の大規模盛土造成地の状況調査によると、該当造成地は市内に3,271箇所あるとされています。昭和37年(1962)以後の造成は、傾斜地の山を切り崩して谷部を埋め立てて平坦化する大規模なもので、造成や開発許可の基準に基づき造成がなされているとはいえ、市域北部及び市域南部に多く見られます。さらに近年は、市域西部の「宅地造成工事規制区域」外の土地においても、大規模な切土や盛土を伴う宅地開発が行われています。
図14は横浜市作成の盛土造成地図から横浜山手付近を抜き出したものです。一見、造成地が少ないようにみえます。図15は土地条件図初期整備版(地理院地図)の山手・元町附近の一部を切り取ったもので、台地の谷底平野が盛土や地形改変が行われた履歴があります。両図を見比べると、本地域は過去に大規模盛土造成工事があったところといえます。
本コラムの原稿を推敲して行く中で、関東大震災の災害の教訓を残す現地を何度も訪ね歩きました。あらためて地域の災害リスクを知ることの大切さを学びました。
謝辞
本コラム作成にあたり、佐藤俊文氏、茅野光廣氏に現地調査で同行いただきました。元街小学校や隧道工事関係資料で横浜市市史編纂資料室、横浜開港資料館、横浜市中央図書館からは横浜大正大震災写真帖の写真を、横浜外国人居留地研究会様からは横浜の居留地と関内の図版を、平塚市博物館の野崎篤氏には本牧台地の露頭写真を、Webサイト横浜古壁ウォッチングの鈴木広氏には災害写真を提供いただきました。谷戸坂関連情報では近代都市・交通文化研究室の新関光二氏に助言いただきました。石材調査については千葉県立中央博物館市民研究員の赤司卓也氏にご協力・助言を頂きました。国際航業株式会社の秋山晋二氏には、図11を作成して頂くなど、横浜の地質について、多くのアドバイスを頂きました。以上の諸氏に深く感謝します。
引用・参考文献
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相原延光(2024a):複合災害としての関東大震災−地盤災害に及ぼした1923年の気象状況―,2023年度土砂災害予測に関する研究集会プロシーディング,防災科学技術研究所,p.37-44.
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