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ダイクレのはじまり |
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当社創業の地である呉は、旧日本海軍工廠の街でした。 幾多の軍艦を送り出した海軍工廠の高度な技術力は日本に君臨し、 世界でもトップの水準にありました。 しかし終戦後、 海軍工廠は解体され多くの優秀な技術者たちが職を失いました。海軍工廠の技術者であった創業者山本茂は、仲間を集め昭和26年( 1951年) 5月26日、船舶塗装業の「大呉興産株式会社」を設立。
折から、旧軍港市転換法の発布と朝鮮動乱の特需を背景に呉へ進出してきたアメリカのNBC (ナショナルバルクキャリアーズインコーポレイテッド)呉造船部から塗装工事を一手に受注。この千載ー遇のチャンスを捉え、NBCの第一号新造船へのグレーチングの開発から 「ダイクレグレーチング」 の実用新案を取得、 ここに今のダイクレのいしずえを築いていくのである。
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戦艦大和とダイクレ創業者山本茂 |
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戦艦大和をつくった創業者山本茂
呉海軍工廠において海軍史上初の軍極秘艦「大和」」が起工されたのは昭和12年のこと。当時工廠の技手であった山本茂は、その腕と人柄を見込まれ、この「大和」建造の現場責任者として、建造を一切ロ外しないという誓約書のもとに命を受けたのであった。山本茂は艦の左舷を受け持った。
技手養成所卒業の技師と技手、それは3万5千人もの工員達の頂点ともいえる絶対的なエリートであり、技手養成所練習工の黒い詰め襟の制服姿は若い工員らの憧れのまとであった。彼らの最高の技術力は時代をはるかに超越し、「大和」進水の際にも長さ263メートルもの鋼鉄の巨体に生じた前部と後部との吃水差はわずか60ミリという、完璧な重量計算を見せつけたのであった。
「大和」を世に送り出した山本茂は、昭和17年1月に海軍技師となった。
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山本茂とグレーチングとの出会い |
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昭和26年(1951年) 9月上旬のことであった。NBC呉造船部へ作業の打ち合わせに出向いた山本茂は、技術部艤装担当課長の卓上で、アービング社とプローノックス社の2冊のカタログを偶然手にした。NBCが建造する船舶にはエンジンルームの床材・ガングウェイ・ステアーは全てグレーチングを採用することが制定されていて、このとき第一船「ベトロ・クレ」用としてアメリカへ発注する段階であった。輸入すれば当時1ドル= 360円のレートでは相当高価なものになることも知らされた。
これなら自分の会社でも造れると直感した山本茂は、即座に「ぜひともわが社で造り、納入させていただきたい。価格もかなり安くできる」と申し入れた。その熱意はNBCを動かし、承諾を一気に取り付けることができた。この2冊のカタログとの運命的な出会いがダイクレとグレーチングとを結びつけたのである。ただちに製作についての研究が始められた。
グレーチングの開発を決意した山本茂には大きな障壁が二つ立ちふさがっていた。ーつは、製造装置の開発であり、もうーつは溶接用の電源の確保であった。
まず製造装置だが、当時溶接はアーク方式が主流であって、山本茂たちが目指す特殊プロジェクション溶接機は、電気抵抗で熱溶解加圧する抵抗溶接はまだ受け入れられる時代ではなかった。この方式は大容量の電力を必要とするためコスト的に無理だと批判される始末であった。
百戦錬磨のプロの技術者である山本茂たちがこれほどのことでその自信が揺らぐものではなかった。
併行して、200KVAもの大容量の電力消費に対する電源確保にも苦心が続いた。もとより戦後の電力供給のおぼつかない不安定な時代である。担当者の中国電力詣でが繰りかえされた。そして、中国電力から以下の裁断が下った。「このような大容量の電力を一社だけへ供給するとなれば一般家庭へ問題が及びかねない。しかし、将来的に呉にとってユニークな産業になる可能性がある」との、判断と理解のもとで、特別な送電が許可されることになった。
高いハードルをクリアした特殊溶接機は、第一号プロジェクション溶接機(以降PW1号機と略称)と名付けられ、昭和27年8月28日、工場にしつかりと据えつけられ自社製作のグレーチングがついに誕生した。
結果的に、 手作りでなく溶接機を導入してグレーチングを製作するという選択が、 受注を一過性に終わらせず、以降のグレーチングの普及に大きく貢献したのであった。
以降、グレーチングは造船・火力プラント・化学プラントなどの建設プームを経て、道路のみぞぶたなど、用途が広がり日本のインフラを支えている。
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