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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
コラム90 明治22年(1889)紀伊半島災害による和歌山県南部地域の被災者の北海道移住
1.はじめに
明治22年(1889)紀伊半島災害などについては、以下のコラムで説明しました。
コラム85,86で詳述しましたが、奈良県十津川流域では、明治22年(1889)紀伊半島水害から2ヶ月後の厳冬期直前に、640戸2661人もの被災民が北海道新十津川村へ集団移住し、大変苦労しました(春までに70人も亡くなりました)。翌年の春に新十津川村が設立され、被災民は新十津川村に入殖、新しい村づくりを始めました。被災民のうち95戸は、屯田兵として滝川兵村に応募(士族対応で)しました。
奈良県十津川流域以上に多くの犠牲者が出た和歌山県南部地域では、2年後の明治24年(1891)に北海道に移住した被災民もいました。和歌山県側の北海道への移住については、国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター(2021)などで説明されていますが、愛別町郷土史研究会(1991)、愛別町史編集委員会(1969)、旭川市永山町史編集委員会(1962)、上原(1914)、遠藤(2006)、桑原(1980,1981,1999)などを読み直すことによって、より詳しい状況が判明したので、整理した結果をコラム90、91で報告します。
2.明治22年(1889)紀伊半島災害の和歌山県側の災害状況
図1は、1889年紀伊半島災害による和歌山県、奈良県における死者数を示しています(水山ほか,2011)。この図は明治大水害誌編集委員会(1989)と関係市町村誌などをもとに集計したものです。奈良県十津川流域だけでなく、和歌山県の南部では十津川流域以上に激甚な被害が発生していたことがわかります(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021;井上,2019a,b,2023a)。
図1
図1 1889年紀伊半島災害による和歌山県と奈良県における死者数
(水山ほか,2011;明治大水害誌編集委員会,1989をもとに作成;コラム28,85)
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図2は、会津川・富田川流域の水害激甚地の町村別犠牲者数(明治大水害誌編集委会,1989,河川名追記)を示しています。会津川の名称はそれほど古いものではありません(桑原,1999)。江戸時代には左会津川を三栖川、右会津川を秋津川、合流点より下流を田辺川、または大川と呼んでいたようです。明治22年(1889)の豪雨は、紀伊半島でも和歌山県中部(西牟婁郡,日高郡)から奈良県南部(宇智吉野郡)にかけて激しく、上記の3郡を中心として極めて多くの山崩れが発生しました。また、急峻な河谷が河道閉塞され、各地に天然ダムが形成されました。これらの天然ダムのほとんどは、豪雨時、または数日後に決壊して段波洪水が発生し、下流域を襲いました。これらの土砂災害・天然ダムの決壊洪水によって、1000人以上が犠牲者となりました。犠牲者は会津川と富田川流域に集中しています。
図2
図2 会津川・富田川流域の水害激甚地の町村別犠牲者数
(明治大水害誌編集委員会,1989;コラム28に河川名を追記)
図3
図3 富田川流域の氾濫範囲(出典:冨貴建男氏の資料に追記,井上,2022)
(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)
(明治44年(1911)測図,国土地理院1/5万旧版地形図「田辺」を使用)
は、岩崎−保呂間の狭窄部
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図2を詳しく見ると、田辺町・朝来(あっそ)村・生馬村・岩田村で、100名以上の犠牲者があったことがわかります。また、上記の周辺の村でも大きな被害がありました。桑原(1980,1999)、明治大水害誌編集委員会(1989)によれば、「田辺町・湊村は、会津川の河口部にあたり、上流からの洪水(天然ダム決壊洪水も加わる)が集中し、水量は平常の数倍、高さ6〜10mになった、その上に最高水位が満潮時と重なり、被害が大きくなった。富田川筋では、上富田町岩崎と白浜町保呂間の狭隘部(図3左下の地点)が井堰のようになり、大きな泥海となった。朝来盆地に位置する朝来村・生馬村・岩田村の被災民は、住む家を失い、衣食もなく、実に破壊し尽くされた。その惨状は筆紙に尽くしがたい。」と記されています。図3は、富田川流域の氾濫範囲(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021;井上,2022)で、冨貴建男氏の資料をもとに、明治44年(1911)測図の国土地理院1/5万旧版地形図「田辺」を使用して、作成された図です。
明治22年(1889)8月18日〜20日、上富田町(図9参照)は大災害に見舞われました。台風による集中豪雨により、河川の大氾濫や多くの山崩れを引き起こし、河川沿いの集落や耕地に壊滅的な打撃を与えました。
災害から2ヶ月後の10月24日に三栖村村長西尾岩吉らが富田川筋の視察を行い、岩田・朝来・生馬などを巡回した様子を以下のように記録しています。
「耕地は川原に変じ、家屋はほとんど流出し、わずかに残った家もおおむね倒壊し、実に破壊し尽くされたと言っても過言ではあるまい。この辺の住民は、耕そうにも土地はなく、住む家を失い、衣もなく食もなく、その惨状は筆紙に尽くしがたい。」
明治26年(1893)にも会津川・富田川流域は大水害が発生し、被災民は愛別町金富農場に集団移住しますが、コラム91で説明します。コラム91の図6 和歌山県南部会津川・富田川流域から愛別町金富農場に移住した被災民の分布もご覧下さい。
3.水害後の田辺の被害状況と復旧への努力
死臭のきつい死体が海まで流出してしまったため、それが魚の餌になったとの風評が立ち、しばらくの間は魚を食膳に載せなかったと言われています。また、極度の食糧不足をきたし、農家の土蔵より米が盗まれたこともしばしばありました。
そんな中で人々は復旧に懸命に尽力しました。三栖村(現田辺市三栖)の村長を務めた西尾岩吉(1854-1894)は、『西尾岩吉日誌』(1889)を著しています。被災直後の8月22日には以下のような「村中倹約法」を定めています。この中で5年間の倹約を呼びかけ、人々の結束を図りました。
一、三栖村人民は之を遵守すべき義務を有す。
村中倹約法
一、 祭典御湯神楽に止る事。笠鉾、獅子舞、角力、宮講等皆廃止。
二、 村民宮寺等へ集合して飲食することを禁ず。但、其費用を自弁する者は此限りにあらず。
三、 念仏講を除くの外、講日待等の際飲食することを禁ず。
四、 葬式の際門酒を出す事を禁ず。
五、 伊勢参拝の際、酒迎ひ及び参宮人より餅を配り祝宴を開き、客を招くことを禁ず。
六、 年忌之際其広告と共に配り物をすることを禁ず。
七、 初仏の家に提灯、素麺等を贈ることを禁ず。但、親戚は此限りにあらず。
八、 初仏の節百八明を点ずることを禁ず。
九、 正月、旧盆共に互に物を贈与することを禁ず。但、親戚は此限りにあらず。
十、 普請悦びと称へ家屋を建築する家へ物を贈ることを禁ず。上に同じ。
十一、氏神旦那寺を除き他の神仏等の勧化を断はる事。
十二、伊勢、熊野等の神札を配ることを禁ず。
十三、弔ひ悔み等に際し香典を贈ることを禁ず。但、親戚は此限りにあらず。
十四、葬式の節僧侶に酒を進むることを禁ず。
十五、表付の下駄、絹張りの蝙蝠傘を用ゆることを禁ず。但、在来の品は此限りにあらず。

  以上、他村に干渉するときは三栖村の定めに従ふ。

とあり、雛祭りや端午の節句の祝いや宴を開いたり、親戚以外から祝儀を贈ったりすることも禁止しました。このように人々に倹約を勧めることで、この難局を乗り切ろうとしました。物価高騰の主因は物資の極端な不足と、労賃の高騰によるものと判断し、労賃の最高賃金を次のように決め、住民を混乱に陥れ入れない方策を講じました。
「當日より本年末まで日雇賃金右の如く定む。男1日10銭。」
その後、西尾村長は8月23日〜25日にかけ、上三栖・中三栖・下三栖の大字毎に人民総集会を開き、22日に定めた倹約法を告知したほか、流木・倒木の所有権、田に流入した礫石の処分等について話し合い、集落毎の「定め」も取り決めました。このように非常時に村民が一致団結して復旧にあたる必要がありました。このため、少しでも紛争の種になるものを取り除くため、綿密な取り決めをする必要がありました。
住民は疲労と不衛生な環境のため、次々と病人が出ました。9月には仮性コレラ患者もでましたが、幸いにも数日で治癒しました。水害そのものの被害の大きさもさることながら、その後別の伝染病が流行り、命を落とす人も少なくありませんでした。そこで、次のような警告文が国の機関から出され、『大阪毎日』や『東京日々』等の新聞で、住民に注意を呼びかけました。

水害後衛生の注意
洪水の後、消毒を施さず、また未だ乾かざる家に住居する為に来る所の害は、1ヶ月又は2ヶ月と追々、日を経て現はれ来るものなれば、家屋敷の掃除も行き届き、湿気を除きたるを待って帰住するを可とす。人情速かに我家に帰りたきものなれども、其の忍び難きを忍び、不自由ながらも、仮小屋にありて十分安心を認むる時を待つべし。因りて先づ仮小屋にある間の心得方を下に示さん。
一、 仮小屋にある時はなるべく多人数同宿すべからず。
二、 敷物を厚くし、湿気の身体に及ばざる様になすべし。
三、 湿ひたる衣服夜具は決して用ふべからず。
四、 伝染病者の生じたる時は其病人を別所に移し、健康人を同宿せしむべからず。

 一方、他から多くの義援金が寄せられました。大阪市の山中利右衛門など6名は705円もの義援金を出しています。この使途について議論になったことが、『西尾岩吉日誌』などに書かれています。
復旧作業の大半は多少の救援があったとはいえ、自力または村ぐるみの作業でした。
その作業は住居の建設や、田畑を覆っている土石の排除、耕地の復旧、河川堤防や河川流路の変更など、土木工事が主体でした。
大水害とその復旧のための工事の困難さから、絶望感にとらわれ、復旧の意思も失せてしまった者も出てきました。その解決策の一つとして、何もかも投げやって新天地(北海道)で屯田兵としてやり直そうとする移住の話が持ち上がりました。
明治22年(1889)の市町村法で、下秋津村(現田辺市秋津町)の初代村長となった目良謙吾は、大水害で肉体的精神的ダメージの大きい被災民に積極的に屯田兵移住を勧めました。丁度この頃、奈良県十津川流域の被災民が北海道に移住したことも伝わってきました。旧来の士族のみの屯田兵ではなく、平民の屯田兵募集が明治24年(1891)から始まりました。このため、全国的に北海道移住ブームが起きました。
4.和歌山県の被災民が北海道に屯田兵として入殖した経緯
図4は、屯田兵村の北海道での分布と形成年代を示しています。屯田兵は明治8年(1875)から始まり、札幌郡琴似兵村から徐々に石狩川上流部に拡がっていきました。
図4
図4 屯田兵村の北海道での分布と形成年代(酒井利啓作成)
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屯田兵とは、平時は農業をやりながら武技を練り、一旦有事の時にはただちに軍隊を組織して戦に当たるという、兵農合わせ営む土着兵のことです。普通屯田兵といえば、北海道を思い出すほど、明治年間に北海道で実施された屯田制度が代表的なものです。
表1 年別の屯田兵村と入殖戸数
(酒井利啓作成)
表1
図5
図5 年次別屯田兵入殖戸数
(下段は和歌山県からの入殖者,酒井利啓作成)
表1は年次別の屯田兵村と入殖戸数、図5は年次別屯田兵入殖戸数で、北海道屯田倶楽部による『屯田兵名簿』に基づき作成しました。複数回に分かれて入殖している兵村もあり、表1では最初に兵村に入殖した年を記入しています。明治8年(1875)から屯田兵の入殖が始まりました。明治23年(1890)までは、士族が屯田兵となっていましたが、明治24年(1891)からは平民が屯田兵に応募できるようになりました。和歌山県の被災民が移住を希望した明治23・24年(1890・1891)頃は、石狩川上流の旭川付近が入殖地でした。明治32年(1899)までの間に、屯田兵村には37ヶ村、7337戸(約3〜4万人)もの人が本土から入殖しました。和歌山県の屯田兵入殖者は、愛別町の金富農場(コラム91で説明)への入殖者(70戸)を含めて、383戸となりました。
北海道歴史文化財団のHPには、『北海道の開拓と移民』という紹介記事があります。道内各地に入殖した66の農業団体について、移住の動機について大正4〜8年(1915〜1919)に調査した結果が記されています。全体の66%に相当する44団体が生活困難を移住の動機としてあげています。これ以外では、北海道の農業経営が有望と考えた者、自分の土地を所有して独立した経営を望んだ者、天災・治水工事等で土地を失った者がそれぞれ10団体前後もあり、北海道移住が様々な理由で行われたことがわかります。
桑原(1980,1999)によれば、「永山兵村と金富農場の位置する上川盆地は、北海道でも最も寒暖差の大きいところで、『理科年表』によれば、零下41度を記録したこともあり、最低気温21度以下の日は年間19日、零下10度以下は77日もある。また真冬日(最高気温0度未満の日)が81日もある。暖国の和歌山県田辺地域の人々にとっては、冬の寒さは耐え難いものであることは想像に難くない。」と記しています。
5.目良謙吉入地紀行
「目良謙吉入地紀行」(旭川市永山町史編集委員会,1962;桑原,1980,1999)には、目良謙吉・謙蔵家族が、和歌山県田辺地域から北海道西永山兵村に入殖する経緯が詳しく説明されているので紹介します。
明治23年(1890)12月に北海道屯田兵(歩騎砲工兵)徴募の旨が和歌山県知事より西牟婁郡長へ、郡長より各村長に対して通知がありました。水害罹民にして満17歳以上30歳までの男子で体格堅固、家族3人から5人までの者は検査の上採用されるとのことでした。下秋津村は明治22年(1889)8月、大洪水で村内一円、山林田畑、家屋敷等の大半が流され、ほとんど回復の見込みがありませんでした。村長である目良謙吾は、率先して村民に出願を勧めました。そのため、多くの出願者はありましたが、検査日が近付くにつれて取り消す者も多く、当日受験したものはたった5、6人でした。
目良家は古くより熊野別当家の末裔として由緒ある豪家でしたが、大被害を受け、山林から田畑・家・土蔵まで流出しました。残ったのは、小さな土蔵と撃剣道場の2棟だけでした。このため、屯田兵を志願したかったのですが、兄謙蔵は医学校在学中であり、特に体が虚弱で資格を満たせず、次男の謙吉(16歳)は年齢不足で断念せざるを得ませんでした。
翌年の明治24年(1891)4月24日に屯田兵の再募集がありました。この日は雨でしたが、目良家の撃剣道場が下秋津村の徴兵検査場となり、屯田兵志願者の体格検査や学力検査、家族検査が行なわれました。
「午前9時検査開始。検査官 陸軍屯田歩兵大尉 吉田勇蔵 陸軍一等軍医 里見義一郎 陸軍一等書記 黒田正金 陸軍属 小島泰次郎 和歌山県属官 松井智信 同付属員 大橋李一 同牟婁郡長 秋山徳隣 同郡書記兵事課長 宇井八十一郎 その他郡の兵事係や下秋津村長ら8名」と検査者の名前が記されています。
受検者は6名。検査場が目良家の撃剣道場であったため、表札に「獣医目良謙蔵」とあるのを検査官が見て、「北海道は畜産帝国である。牛馬に心得ある者、ことに獣医はすこぶる有望だ。渡道の気がないか」と問われました。村長の目良謙吾は家の事情、大いに希望していながら資格に欠けることを詳しく述べました。吉田大尉、里見軍医等大いに同情して、直ちに志願者として検査を行い、謙吉を甲種合格、兄謙蔵を乙種合格として2人とも採用決定となりました。
謙吉と兄謙蔵は喜んで願書や戸籍謄本等を急造して提出しました。受験者6名のうち5名まで合格、1名(森山五郎吉)のみ不合格となりましたが、これは屯田兵付鍛冶織として、兄謙蔵の付籍となって渡道を許可されることになりました。
西永山兵村(現旭川市)に和歌山県の被災民が入殖したのは、明治22年(1889)の紀伊半島水害から2年後の明治24年(1891)7月でした。
謙吉と謙蔵は5月16日より27日まで山林家財、武具まで一切を市売りしました。これにて借財を整理し、残金1411円24銭也を携帯して渡道することになりました。
5月19日には兄も獣医学校を中退して帰宅しました。目良家全員で渡道することになり、5月31日には田辺の鶏神社で郡中有志者により武運長久の祈願祭がありました。この日までに荷造り全部を終了しました。2戸分で97個(内、70個は他人名義で送付)、荷物は元来1戸につき8個までと限定されていましたが、検査官の許可を得て賃金を支払って、その2倍まではよいことになっていました。
写真1
写真1 田辺市の鬪鶏神社
写真2
写真2 世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道
2023年11月秋山晋二撮影
写真1は目良謙吉が武運長久の祈願祭を行った田辺市の鬪鶏神社の写真です。写真2は「紀伊山地の霊場と参詣道」の説明碑です(2023年11月秋山晋二撮影)。
説明碑には、
「2004年7月に「世界の文化及び自然遺産の保護に関する条約」「世界遺産一覧表」に登録されました。この一覧表への登録は、その文化遺産や自然遺産が全人類の利益のために保護されるべき顕著で普遍的価値を有することを証明するものです。2016年10月、鬪鶏神社をはじめ和歌山県内22箇所の参詣道と関連遺産が「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録遺産と同等の価値があると認められ、追加登録されました。
「熊野参詣道大辺路」は、紀伊半島西岸の田辺から始まり、紀伊半島の海岸線に沿って南下する、海と山が織りなす風光明媚な景観に恵まれた参詣道で、17世紀以降には、観光と信仰を兼ねて旅行する人々の記録も残されています。
紀伊路が中辺路と大辺路に分岐する田辺の地に位置する「鬪鶏神社」は江戸時代には新熊野鬪鶏権現社(いまくまのとうけいごんげんしゃ)と呼ばれ、熊野三山の別宮的な神社として人々の信仰を集めてきました。」と記されています。
6月10日、晴天、午前5時神官中田水穂氏来って最後の神式をあげ、8時、いよいよ自宅の大門を出発。祖父の弥右衛門堪亮はもとの格式に従って駕籠にうち乗り、かごかきの治平・三六・浅吉・勘吉の4人が前後2人ずつでかつぎ、お供のものは武具を持って出発しました。ご本人(弥右衛門)は格式による衣装を整え、大小帯刀で、さて田辺町秋津口より出て、大浜郡役所に至り、秋山郡長に会見してお別れの挨拶をしました。
そして、大浜御台場跡に設けられていた送別会場に着きました。秋津3ヵ村では各戸より1人、または2、3人出席、近郷近村各官公吏、学校職員まで3000人の見送り、目良家より清酒四斗樽で3樽、干魚に竹の皮包みの赤飯等を出しました。見送り人も、思い思いの重箱を持ち寄り、前代未聞の一大野宴場となりました。
父謙吾は別に郡役所・裁判所・警察署・収税署・町役場、その他に挨拶に廻り、11時野宴場に入り、一同に挨拶しました。午後4時野宴を閉じ、それより郡長以下の発起で目良謙吉の屯田兵に対する送別式が郡役所の会議室で開かれました。終わって汽船会社楼上で別宴に招かれました。この日午後10時、汽船遠賀丸に乗りこみ、田辺湾を出航、翌11日朝5時、和歌山市青崎に上陸、県庁より指定の藤原旅館に入りました。
6月11日県庁で旅費と県下屯田兵50戸の兵員や家族、付籍の名簿を受け、松本知事の訓示があり、移住者取締代表として仲砲兵軍曹と目良謙吉の2人が命ぜられました。図8,9に示したように、実際に和歌山県から西永山兵村に入殖したのは39戸です。
6月12日、秋山郡長に従って県庁に行き、荷物の件を打ち合わせました。荷物の少ない者や全く無い者もいるので、多い者はその人の名義で処理し、神戸へ送りました。目良家の大荷物もこうした便宜で70個を他人名義で送付でき、大いに助かりました。
6月14日午前10時、青崎出航、海上平穏、神戸上陸。直ちに湊川神社に参詣、記念撮影、午後金沢丸に乗りこんで、いよいよ北海道に向け出帆しました。金沢丸は浅野汽船会社に属して2000トン級、当時わが国第2の巨船といわれました。和歌山県よりの50戸のほか、徳島県の46戸も同船し、午後出帆しました。
6月15日、曇、天候不良。瀬戸内海の正道島(小豆島?)に投錨しましたが、岡山よりの屯田兵は乗船できませんでした。16日、朝、雨でしたが、波は少しおさまり、三番港より周辺の地域からの屯田兵志願者が乗船しました。
6月17日、晴、豊後灘を進航。午前11時ごろ波荒く動揺甚だしくなりました。午後4時ごろ日向沖より飫肥岬(おびみさき)を通過すると、波は少し穏やかとなりました。大隅沖を通って、翌18日午前4時、鹿児島港に入港しました。鹿児島県からの屯田兵が乗船しました。これは一風変った風格で動作活発、しかし、言葉は早口で、良く判りませんでした。大てい士族出らしく思われました。この日夕刻出帆、8時海門沖を通過しました。
6月19日、夜8時、北風が起きて波が高くなり、人々は苦しみました。
6月20日、21日、22日。
6月23日、佐渡島を北に見ました。徳島県出身芝山牛太郎の妻が男子を分娩しました。船長は喜んで餅と赤飯の馳走をしました。船客よりも祝儀の金が贈られました。ところが同県人の柴田升太郎の老母は老衰で死亡しました。目良家は香典を送りました。
また、徳島県人の住吉林吉という者が退屈を紛らわせるため、同志数名と船中の広場でお国自慢の芝居をやって、仲間を喜ばせました。ところがこれが検査官吉田大尉の耳に入って呼び付けられ、大いに訓戒を受けました。後日入地後、この件でまた処分を受けました。
また、鹿児島県出身青年(伊集院?)と高知県出身の和田某とがけんかを始め、和田は顔をかまれて大負傷するという珍事も起きました。
6月25日、曇、午前10時ごろより波はやや静まりました。小樽港入港、手宮駅付近の浜に上陸しました。小樽は港町とはいえ人家は少なく、汽車は町中をガランガランと大鈴をならして運行しているのが異様に見えました。浜通りの平旅館に泊まりました。
手宮に上陸した際、係官が来て抽せんが行われ、各人の入地先が決定されました。歩・騎・砲・工、各兵種により兵村が分けられました。謙吉は永山兵村裏通4丁目第145番地、兄謙蔵は同8丁目181番地に決まりました。
図6は、旭川市永山町史編集委員会(1962)『永山町史』に示されている旭川及近郊屯田兵屋予定地図です。屯田兵村の配置と河川との関係が良く分かります。
図6
図6 旭川及近郊屯田兵屋予定地図
(旭川市永山町史編集委員会,1962,地名・河川名を追記)
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図6に記入された注意書きには、「原図は旭川刑務所にかかり、明治23、24年(1890、1891)頃の作にして、未完成のものと推定される。昭和31年(1956)1月に市建設部谷口恵三氏に請うて、これを模写し便宜上標題を加え、ここにその由来を付記する。」と記されています。
図7
図7 旧版地形図「旭川」(1910年測図),目良謙蔵・謙吉の入殖地
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図7は、旧版地形図「旭川」(1910年測図)で旭川町の市街地と北西の西永山兵村付近を示し、目良謙蔵・謙吉の入殖地を赤字で示しました。
なお、ここに特筆すべきことが起きました。翌6月26日、札幌の永山司令官代理としで副官が来樽、祖父弥右衛門を訪ね、「ご老体ご苦労であった。汽車から降りたところに、2頭引き馬車を1台さし廻してあるから、戸主謙吉は付添として、ともにこれに乗るがよい。途中3ヵ所で宿泊して、永山兵村に至るであろう」との特命が伝えられました。祖父は大いに喜んで深く感謝しました。これは祖父の家は格式が高く、県知事、または郡長より内申があったのであろうと察せられましたが、ただ祖母にはその恩命が無いのは気の毒でした。
6月26日と27日の2回、沼貝兵村(空知郡沼貝村・現美唄市)行き列車が出発するのを見ました。
6月28日午前5時、謙吉ら和歌山県の一行は手宮駅に集合、5時30分乗車しましたが、無蓋車でした。例の大鈴を鳴らしながら、小樽の市街地の真中を通りました。線路の左右にむしろを垂れた家が時々見えました。札幌市街を右に見ながら列車は進み、沼貝兵村中央(現美唄市)の駅にて下車しました。これより一同滝川に向け徒歩で出発しました。ただし、謙吉と祖父はお上より差し回しの2頭引き馬車に乗り、滝川の高畑旅館に投宿しました。
6月29日、晴天、音江法華(現深川市東端)の駅逓に入りました。
6月30日は晴れて、暑さが烈しくなりました。馬車から見る神居古潭(現旭川市西端)は無二の絶景と賞せられていました。しかし、徒歩の一行、殊に父母や祖母の身が案じられました。午後1時、忠別太(現旭川市)に着き、一同は集治監(明治期に設置された囚人の収容施設)の出張所跡に泊まりましたが、謙吉と祖父・弥右衛門は疋田新助氏の経営する駅逓に入りました。
7月1日、雨、最後の行程で永山兵村(現旭川市)に向いました。大橋2ヵ所を越えて忠別市街(現旭川市)に入りました。人家3,4戸で商家はありませんでした。60間(108m)の大橋を渡ると、「永山村」と大書した標柱があり、永山兵村一番地でした。軍刀を下げた軍人が「貴様の行く所は・・・」と兵屋の位置を丁寧に教えてくれ、表3丁目145番地に入ることができました。時に正午、午後1時には祖母や妹等も着きました。父母と兄一同も昨日から足痛となったため、馬車を許され、無事入地しました。
この日4時、5丁目の学校に集合の命令がありました。上官より「本日ただ今より来る7月6日昼食まで炊出しを給する。毎日定刻までに受取りに来るように」と伝言があり、次の給与品が渡されました。
 家屋 土台付柾葺平屋 1陳17坪7合、坊主 畳10畳半、建具戸13枚 入口 2裏口 二雨戸2 便所戸1 半戸3 計13、押入3、障子12枚、夜具4人分、上布敷布8枚、平鍬大小2個、唐鍬大小2個、鎌2丁、まさかり大1個、のこぎり大中2個、やすり2個、山刀1個、と石2個、鍋大中小3個、荷桶1荷、手桶大小2個、庖丁・ナガナタ各1個 以上
この日の炊出し食は給与の鍋に入れて持って帰りました。なお大根漬9本、塩約5合、味噌約500匁を受け取りました。私(謙吉)は馬車追の助言で、道中で正油一樽と黒砂糖・味噌・だし魚等を買い入れて馬車に載せて来ていました。庭に生えているふき、わらびなどで、居ながら味噌汁を作りました。
馬車追は34,35歳くらいで札幌の人らしく、官命とはいえ、6月28日より4日間、よく親切にしてくれました。永山兵村で一泊し、記念として小刀を贈って別れました。
翌7月2日、晴、樋口という軍人が来て、道路の草刈り、兵屋前後の掃除、家まで9尺幅(2.7m)の道路造り、第一給与地4500坪(1町5反歩)は家の前から開くことなどを命じました。
7月6日で炊出しは終り、白米1俵(3斗9升7合5勺)が給与されました。
7月7日、門前までの草刈りと9尺幅(2.7m)の道造りを終え、検査を受けました。
7月8日、入隊式があり、午前8時大隊本部前に集合しました。荘厳裡に入隊を宜し、誓文に捺印、屯田歩兵二等卒を申付けられました。
隊の編成は次のようになっていました。
屯田歩兵第三大隊長屯田歩兵中佐和田正苗 同大隊副官屯田歩兵大尉安藤(東)貞一郎 第一中隊長屯田歩兵大尉吉田勇蔵 同第一小隊長中尉向井友貴 第二小隊長見習士官川上親興 第三小隊長少尉上杉某、第四小隊長少尉藤本専作 中隊付下士官池田軍曹 同遠藤雅市軍曹 曹同古川軍曹 同矢田量平曹長
中隊ごとに16班に分けられ、1班毎に給与班長心得が命ぜられました。すなわち、
第一中隊第一小隊第1給与班長岸田鉄蔵 第2班井実喜蔵 第3班斎藤市蔵 第4班 玉井直之丞
第二小隊第5給与班長元木儀一郎 第6班木甚七 第7班近藤権吉 第8班増田秀一
第三小隊第9給与班長草地権六 第10班鎌田市郎 第11班佐竹儀蔵 第12斑松野万寿
第四小隊第13給与班長南勝三郎 第14班目良謙蔵 第15班南部隆 第16班信原松太郎
中隊幹部候補生は以上16名のほか、
 第一小隊吉本孝徳 篠原峰吉 梅井竹太郎 新井直平、
 第二小隊小山修吉 渡辺徳三郎 樋口亀太郎 井上栄吉 目良謙吉
 第三小隊友田鴨煕 橋本俊五郎 杉浦勇 吉水野克巳
 第四小隊松井延太郎 小川栄一郎 永峰利三郎 高見清太郎
以上の幹部候補生は、練兵後毎日学校で特別教育を受けました。
そして、現役3年、予備役4年の後、明治31年(1898)3月末日で、後備役となりました。
図8は西永山兵村における和歌山県被災者の入殖地(緑色)と目良謙蔵・謙吉の入殖地(赤色)を示しています(小林監修(2003):屯田兵名簿,永山兵村をもとに作成)。
図8
図8 西永山兵村における和歌山県被災者の入殖地(緑色)と目良謙蔵・謙吉の入殖地(赤色
(小林監修(2003):屯田兵名簿,永山兵村をもとに作成)
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北海道屯田倶楽部の『屯田兵村の姿』https://tonden.org/heison/heison.html)によれば、永山兵村は、平民屯田の道を開いた永山武四郎司令官の名を冠した兵村で、他の地区と異なり、密林や泥炭地ではなく、ほとんどが草原地帯でした。この自然の好条件は入殖した年に多くの収穫を得るほどで、その上、中隊の幹部の多くが琴似、山鼻両兵村の屯田兵で、札幌農学校の兵学科特課を卒業した者でしたから、開拓、耕作は抜群の成果を上げました。
畑作が盛んで後に稲作も行われましたが、戦後になって旭川市街に近く都市化の波で工場化、住宅化が進み、現在ではかつての農耕盛んな兵村の面影はほとんど残っていません。
図9
図9 和歌山県から西永山兵村へ移住した被災者の元の居住地(井上・酒井作成)
(左表の郡・市町村名は明治24年(1891)当時,39戸が入殖した。右図の市町村区分は2023年現在)
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図9は、小林(2003)の『屯田兵名簿』に基づき、和歌山県から西永山兵村へ移住した被災者の元の居住地で、39戸が入殖しました。郡・市町村名は明治24年(1891)当時のもので、ほぼ和歌山県全域から平民屯田兵に応募したことがわかります。
引用・参考文献
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桑原康宏(1981):明治二十二年の大水害の気候上の特質と災害の規模,紀南文化財研究会,くちくまの,50号,p.21-32.
桑原康宏(1999):熊野の集落と地名,―紀南地域の人文環境―,清文堂,362p.
 Ⅲ 明治二十二年大水害とその影響                    p.177.
  1 明治二十二年大水害の概要                    p.179.
  2 明治二十二年の大水害後の屯田兵応募,―目良謙吉入地紀行の周辺― p.228.
  3 明治大水害新史料の紹介と若干の検討               p.250.
  4 明治大水害が覗機関(のぞきからくり)絵に            p.258.
 Ⅳ 熊野の地名雑記                           p.265.
  10 地名としての「会津川」                     p.353.
国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター(2021):60年毎(1889,1953,2011)に繰り返される紀伊半島の歴史的大規模土砂災害,125p.
小林博明監修(2003):屯田兵名簿,北海道屯田倶楽部,東永山兵村・西永山兵村,p.133-149.
国立天文台(1979):理科年表,丸善出版
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西尾岩吉(1889):西尾岩吉日誌,三栖村文書,田辺市立図書館蔵
舟木秀男(2022):ご先祖様はどちらから 開拓者の足跡を訪ねて 都府県別北海道移住記録,財界さっぽろ,245p.
北海道屯田倶楽部 屯田兵村の姿:https://tonden.org/heison/heison.html(2023年11月20日確認)
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