1. はじめに
筆者は「いさぼうネット」で、平成27年(2015)4月から『歴史的大規模土砂災害地点を歩く』のシリーズコラムを執筆・公開してきました。令和6年(2024)8月までにコラム95まで公開され、総アクセス数は71万7927件となっています。『歴史的大規模土砂災害地点を歩く』のコラムは「いさぼうネット」で検索すれば、誰でも無料で閲覧できる便利なサイトです。
令和5年(2023)は、鬼怒川の五十里洪水から300年、浅間山天明噴火から240年、関東大震災から100年でした。天明三年を語り継ぐ会では『天明三年浅間山大噴火を語り継ぐ』が企画し、2024年8月5日に雄山閣から出版されました。私は「歴史的大規模災害/繰り返す自然災害を知る」と題して執筆しました(井上,2024)。コラム96では、上記をもとに関東甲信越地方の歴史的大規模土砂災害について説明します。
歴史的大規模土砂災害は、人間のタイムスケールよりも少し長い間隔で、発生することがあります。生まれてこの方、経験のない火山噴火、地震、豪雨などがほぼ同時にまたは少し間隔をおいて発生し、複合的な激甚災害が発生することがあります。
2.八ヶ岳大月川岩屑なだれと天然ダムの形成・決壊
詳細はコラム3,65,72,73をご覧ください。
平安時代の仁和三年七月三十日(ユリウス暦887年8月22日)の五畿七道地震(東海・東南海地震)で、北八ヶ岳の山体が強く揺すられ、大規模な山体崩壊が発生しました。八ヶ岳は活火山には指定されていませんが、新しい火山で火山体の侵食・解体時期となっています。山体崩壊土砂は北八ヶ岳東方の大月川を岩屑なだれとなって流下し、千曲川を塞き止め、日本最大の天然ダム(古千曲湖T,湛水高130m,湛水量5.8億m³)を形成しました。この天然ダムは303日後の仁和四年五月八日(888年6月20日)に決壊し、大洪水が千曲川を流下しました。古千曲湖Tの塞き止め堆積物は二次岩屑なだれとなって千曲川を流下し、小海町付近で支流の相木川を塞き止め、古相木湖(湛水高30m,湛水量660万m³)を形成しました。千曲川には決壊後も古千曲湖U(湛水高50m,湛水量4100万m³)が100年以上残りました。長野県埋蔵文化財センターなどによる千曲川流域の発掘調査によって、「仁和洪水砂」と呼ばれる砂層が条里制水田遺構の上に堆積していることが確認されました(川崎,2000,2010,2018a,b)。
図1 仁和洪水砂の流下範囲と洪水砂に覆われた遺跡●の位置(川崎2018a,bをもとに作成)
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図1は、仁和洪水全体の範囲と仁和洪水によって覆われた遺跡の位置、表1は「仁和洪水砂」に覆われた遺跡の一覧表を示しています。青線は仁和洪水の推定流下範囲、●は仁和洪水砂が見つかった遺跡です。
図2 千曲川上流部の大月川岩屑なだれと天然ダムの位置(井上ほか,2010)
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図2は千曲川上流部の大月川岩屑なだれと天然ダムの位置などを示しています。
千曲湖Uは100年以上も残り、馬流・海尻・海ノ口・広瀬などの地名を残しました。この付近は甲府から小諸への主要な交通路であり、国道141号のJR小海線踏切付近(海ノ口)には、湊神社が現存し、古千曲湖Uの航海の安全を祈った神社といわれています。
千曲川流域では、寛保二年七月二十七日〜八月一日(1742年8月27〜30日)に「戌の満水」が発生しました(信濃毎日新聞社,2002)。戌の満水は千曲川流域だけでなく、利根川・荒川流域でも激甚な洪水災害を引き起こしました。
令和元年(2019)10月12日〜13日に、新幹線車両基地が水没するなど、激甚な土砂災害・洪水災害が発生しましたが、「戌の満水」の方が氾濫範囲が広かったようです(信濃毎日新聞社,2002)。「仁和洪水」は「戌の満水」よりもさらに大きな洪水であったと考えられます。
コラム72でも説明しましたが、稲子岳周辺の深層崩壊前微動土塊の干渉SAR広域探索調査(水野ほか,2016)、及びDInSARと航空レーザ測量とGNSSを用いた稲子岳の地すべり調査(水野ほか,2018)が実施され、稲子岳の移動岩塊が現在でも変位していることが明らかにされました。
今後も稲子岳周辺の移動岩塊の変動状況を注意深く見守って行く必要があります。
3.鬼怒川上流の葛老山崩壊(1683)による天然ダムの形成、40年後(1723)の五十里洪水
詳細はコラム68をご覧ください。
栃木県日光市、利根川水系鬼怒川上流の五十里地区(江戸から50里,200km)で天和三年九月一日(1683年10月20)の日光天和地震(M7.0±1/4)によって、鬼怒川(男鹿川)の右岸斜面(葛老山南西部の戸板山)が大規模な深層崩壊(地すべり)を起しました。この地点は日光天和地震の震央からわずか3kmで、ほぼ直下で起きた地震によって大規模な深層崩壊(地すべり)が発生しました(井口・八木,2012)。崩壊した岩塊は斜面下方の布坂山まで到達して鬼怒川を河道閉塞し、天然ダムを形成しました(湛水高80m,推定湛水量1億2000万m³)。この天然ダムは130日後には満水となりましたが、流紋岩質の堅硬な岩塊が河道を閉塞したため、満水となって越水しても、すぐに決壊することはありませんでした。天然ダムの湛水範囲は、江戸と会津を結ぶ重要な交通路であるため、塞き止め岩塊を除去する工事が会津藩によって開始されました。1万人以上の人足を集め、左岸側の凹地を掘削しようとしましたが、岩盤をわずかに切土しただけで、湛水を排水できませんでした。
40年後の享保八年八月十日(1723年9月9日)の豪雨時にこの天然ダムは決壊し、洪水段波が鬼怒川下流域の広範な地域を襲い、その被害は70ヶ村に及んだといわれています(宮村,1974;佐藤,1993)。
天然ダムの形成・決壊と五十里洪水については、越川(1984)などをもとに、整理しました。図3に天和三年(1983)の天和地震による葛老山の崩壊と鬼怒川に形成された天然ダムの湛水範囲、及び40年後の享保八年(1723)に天然ダムが決壊して鬼怒川を流下した五十里洪水の流下・氾濫範囲を示しました。
図3 1683年の葛老山の崩壊と天然ダム,40年後の決壊洪水の範囲
(越川,1984をもとに1/20万地勢図日光・宇都宮・白川・水戸に追記)
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図4は、葛老山(戸板山)の深層崩壊と天然ダムの湛水範囲を示しています。「掘割」と記された地点があり、慰霊碑と説明看板が建立されています。藤原町(現日光市)が設置した説明看板には、「この地点のある小尾根は布坂山、別名腹切り山とも呼ばれています。この場所は会津藩の「五十里関所」の一部で、江戸と会津を結ぶ重要な会津西街道でした。会津藩では湖の決壊による洪水を恐れ、五十里関所の支配頭・高木六左衛門に掘割工事を命じ、湖水の切り落しを命じました。しかし、この工事は厚い岩盤にはばまれて難航し、完成しませんでした。そのため、高木は責任を取って、この地点で割腹・自害したと伝えられています。40年後の享保八年八月十日(1723年9月9日)、大雨が続いたため、この湖は満水となって決壊し、その水勢は下流に甚大な被害を及ぼしました。これが歴史に有名な「五十里洪水」です。」と記されています。
図4 葛老山(戸板山)の深層崩壊と天然ダムの湛水範囲(1/2.5万「五十里湖」)
井上(2012b)は、崩壊地の面積13万m²、長さ450m、最大幅400m、土砂量380万m³と見積もっています。この付近の地質は、川治カルデラを埋積した鬼怒川流紋岩類とされ、岩相はデイサイトないし凝灰角礫岩・火山礫凝灰岩を主体としています。発生斜面の地質構造は走向が移動方向に直交し、傾斜が斜面と調和的な流れ盤型を呈しています。
現在の五十里ダムの貯水池の上部には崩壊土塊が残っていますが、男鹿川に流出して河道閉塞した移動土塊は、40年後の天然ダム決壊によって、ほとんど流出しました。
図5は防災科学技術研究所の1/5万地すべり地形分布図「日光」の一部で、葛老山付近の地すべり地形を示しています(清水ほか,1997)。写真1は井口がセスナで撮影した斜め写真(図5とは逆方向)で、主な地名が書き込まれています(井口・八木,2012)。この写真では昭和31年(1956)に完成した五十里ダム(高さ112m,総貯水量5500万m³)の水位がかなり低下しています。このため、葛老山地すべりより上流の男鹿川の地形状況が分かり、湖底に残っている地すべり移動土塊が認められます。
図5 1/5万地すべり地形分布図 写真1 葛老山付近の斜め写真(井口撮影)K:葛老山,
「日光」(清水ほか,1997) Sc:滑落崖,Ls:地すべり移動体,Hw:掘割,Ik:五十里ダム湖
4. 浅間山天明噴火に伴う堆積物と被害の分布
詳細はコラム18,19,78をご覧ください。
国土地理院では、令和4年(2022)3月に2万5000分の1火山土地条件図「浅間山」を作成し、国土地理院のHPで公開しています。報告書(解説書)も8月に公表されたので、参照して下さい。令和6年(2024)9月2日には改訂版が公表されました。天明の大規模噴火(1783)による火山地形だけでなく、天仁の大規模噴火(1108)についても詳しく表現されています。天仁噴火では追分火砕流が浅間山の南麓・北麓に流下しました。すでにいくつかの集落が存在していましたが、一瞬にして埋没してしまった村もありました。しかし、古文書などの記録はあまり残されていません。一方、大量の降下火砕物により、上野(群馬県)の国では田畑に甚大な被害を生じ、そのまま放棄された農地が多く存在することが多数の発掘調査で明らかにされました。このため、律令制の統治機構は大打撃を受け、12世紀の中葉には火山灰によって荒廃した関東地方北部地域は、荘園が多く設立されるようになりました(峰岸,1993)。天仁噴火後の豪雨などによって、千曲川流域や吾妻川・利根川流域でも土砂・洪水災害が多発するようになりました。
図6は、天明三年浅間山噴火に伴う堆積物と被害の分布を示したものです。大小の●で示した死者・行方不明者数は、群馬県立歴史博物館の第52回企画展『天明の浅間焼け』で取りまとめた1523人という数値を当時の村毎(現在のほぼ大字毎)に分布図としたものです。この死者数は、気象庁(1996)の1151人より多くなっています。
図6 天明三年浅間山噴火にともなう堆積物と被害の分布(古澤,1997;
国土交通省利根川水系砂防事務所,2004をもとに作成;井上,2004,2009a)
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鎌原土石なだれは天明三年七月八日(1783年8月5日)に発生し、浅間山北麓の鎌原村(高台にあった観音堂を除いて)を埋没させた後、吾妻川に流入して、天明泥流となりました。泥流は吾妻川から利根川、利根川河口(銚子)と江戸川河口まで達しました。
浅間山については、荒牧(1968,1981)が詳しい調査・研究を行っており、天明の火山噴火はすべて山頂噴火が定説となっています。しかし、図6、図7を見ると、鎌原土石なだれの分布範囲は山頂火口からではなく、浅間山北麓から噴出・流下したように見えます。井上ほか(1994),井上(2004,2009)は、鎌原土石なだれは北麓にあった柳井沼付近から噴出した可能性があると説明しました。小菅・井上(2007)は「鎌原土石なだれと天明泥流の発生機構に関する問題提起」を行いました。小菅(2024)は「柳井沼地すべり/水蒸気爆発、そして鎌原不飽和土塊/天明泥流」と題して、天明噴火の土砂移動状況を示す新しい考えを説明しています。
図7 天明三年(1783)浅間山の噴火状況を示す立体地形図(井上,2009)
天明泥流の流下により、利根川は河床がかなり高くなり、流路が変わり、氾濫しやすい状態となりました。このため、浅間山噴火以前160年間の水害発生件数は26回だったのに対し、噴火後167年間は70回にも達しました。天明三年から明治43年(1910)の大洪水までに利根川左岸の破堤は17回もありました。特に噴火から3年後の天明六年(1786)の洪水氾濫は激しく、江戸幕府は19家の大名に
お手伝い普請を命じました。特に、熊本藩は噴火翌年の天明四年から大名手伝普請を実施し、利根川の河川改修工事は多大な人力と費用を要しました(高崎,2001)。
5. 関東地震(1923)による土砂災害
詳細はコラム37,38,39,40,41,42,43,44,62,74,82,83,84,87,88,92,93,94,95をご覧ください。
大正12年(1923)9月1日に発生した関東地震は、東京・横浜での人家倒潰、火災などによって、10万5000人もの死者・行方不明者を出しました。しかし、土砂災害が170箇所以上の地点で発生し、1046人以上の死者・行方不明者を出したことはあまり知られていません
(井上編著,2013,井上,2013)。図8は、内務省社会局『大正震災志』の巻末図で、関東地震による林野被害区域山崩れ概況図です。丹沢山地の秦野盆地に面した南斜面は「山崩れ激甚地帯」で、山崩れが多発しました。また、2週間後の豪雨により崩壊が拡大し、土石流も多発しました。図8の上に〇印で地震直撃、■で二週間後の豪雨による土砂災害地点を示しました。さらにこの図には、▲で高速の土砂移動を示す「びゃく」という土砂災害地点を示しました(井上,2014,相原・井上,2016)。
これらの土砂移動は、当時の土地利用を反映し、地震動を受けた急斜面部で多く発生しています。現在の南関東地域は、さらに人口密集が進んでおり、当時は空地があって避難できましたが、現在では避難できる場所も激減しています。
箱根火山の外輪山に位置する小田原市根府川では、白糸川上流の大洞で大規模崩壊(深層崩壊、推定土砂量100万m³)が発生し、白糸川を高速な土石流(岩屑なだれ)が流下しました。このため、白糸川下流にあった根府川集落91戸のうち、72戸が埋没、289名もの住民が亡くなりました(内田,2000)。関東地震時には東海道線(現御殿場線)の輸送力増強のため、丹那トンネルが工事中で、小田原−熱海間の路線は建設中(小田原−湯河原間は1922年に開通)でした。白糸川下流では、白糸川橋梁が前年に完成していましたが、白糸川を流下した土石流によって、橋脚は破壊され、橋梁は落橋しました。白糸川の河口付近では児童(20数名)が遊んでいましたが、
図8 関東地震による林野被害区域「山崩れ地帯」概況図と関東地震による土砂災害地点
井上(2013)に伊豆大島を追記,
▲びゃくの地点を追記(井上,2014,相原・井上(2016)
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海からの津波と山津波(土石流)によって挟み撃ちにあい、ほぼ全員が亡くなりました。根府川駅では背後から地すべりが発生し、停車中の列車は駅と一緒に海に転落し、111名が犠牲となりました。
図9は、関東地震による崩壊面積率で、神奈川県企画部企画総務室(1987,88,91):土地分類基本調査5万分の1,「自然災害履歴図をもとに崩壊面積率を渓流区分毎に整理したものです(建設省土木研究所,1995,1997;井上,2000,井上編著,2013)。崩壊面積率は丹沢山地南面の寄沢(48%)、水無沢(41%)、四十八瀬川(38%)で極めて大きくなっています。箱根火山地域では、狩川の19%、須雲川右岸の17%が大きく、調査地域全体の面積は1007km²、崩壊面積は120km²で、崩壊面積率は11.9%です。平均崩壊深を1mと仮定すると、生産土砂量は1億2000万m³となります。
丹沢山地では富士山を供給源とする新期ロームの降灰の分布軸に位置するため、厚く堆積しました。急斜面では新期ロームはほとんど残されていませんが、尾根部や緩斜面上には、2〜3mの新期ロームが堆積しています。その上位には、宝永四年(1707)の富士山噴火による降下火砕物(宝永テフラ・焼砂)が堆積しています。宝永テフラは未固結状態で堆積したため、関東地震による震動で、崩壊・土石流が多発したと判断されます。丹沢山地が箱根火山地域より、崩壊面積率が高くなっている要因の一つと判断されます。
図9 関東地震による崩壊面積率(建設省土木研究所,1995;井上,2013)
神奈川県企画部企画総務室(1889)の「1/5万自然災害履歴図」図幅をもとに作成
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6.カスリーン台風(1974)による土砂・洪水氾濫
詳細はコラム44をご覧ください。
戦後間もない昭和22年(1947)9月11日、マリアナ付近に発生した台風をGHQ(連合軍最高司令官司令部)は、カスリーン台風と名付けました。中央気象台は13日午前8時に第1回気象特報を発表、その頃から本州を横断して停滞していた前線を刺激し、本格的な降雨となりました(井上,2010,2012a)。台風は上陸せず、房総半島沖を通過しましたが、3日間雨量(9月13日〜15日)では、埼玉県西部の秩父地方で600mmともっとも多く、降雨帯は赤城山のある北東方向に延びていました。図10に示したように、この豪雨により各地で激甚な被害を受け、死者1100人、家屋倒壊3万1381戸、家屋浸水30万戸となりました。特に、赤城山麓の沼尾川では、沼尾川沿いの70数戸は跡形もなく押し流されて、死者31名にも達しました。
図10 昭和22年(1947)カスリーン災害による被災概要図(後藤,2012;井上,2010,2012)
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7.むすび
写真2は、東京都墨田区両国の回向院境内にある浅間山天明噴火「南無阿弥陀仏」と関東大震災「大震災横死者之墓」の慰霊碑です(宗教法人回向院,1992)。国技館に近いので相撲観戦の折などにぜひ参拝して下さい。
写真2 関東大震災と浅間山天明噴火の慰霊碑
(東京都墨田区両国・回向院、2009年11月井上撮影)
令和5年(2023)は、五十里洪水から300年、浅間山噴火から240年、関東大震災から100年でした。このため、関東地方の各地で記念行事が実施されました。歴史的大規模土砂災害を忘れずに、繰り返す大規模な自然災害を知ってほしいと思います。
引用・参考文献
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荒牧重雄(1968):浅間火山の地質(1/5万地質図付),地団研専報,14号,45p. 1993年に地質調査所により「浅間火山地質図」(火山地質図6)が刊行されている。
荒牧重雄(1981):浅間火山の活動史,噴出物およびDisaster Mapと災害評価,噴火災害の特質とHazard Mapの作成およびそれによる噴火災害の予測の研究,文部省科学研究費自然災害特別研究,No.A-561.,p.50-82.
荒牧重雄(1993,第4刷,2001):浅間天明噴火の推移と問題点,新井房夫編:火山灰考古学,古今書院,p.83-110.
荒牧重雄・安井真也・小屋口剛博・草野加奈子(1998):古記録・古文書に残された浅間天明3年の降下火砕流堆積物の層厚,火山,43巻4号,p.223-37.
井上公夫(2000):4.3 関東地震,中村浩之ほか:地震砂防,古今書院,p.60-70
井上公夫(2004):浅間山天明噴火と鎌原土石なだれ,地理,49巻5月号,表紙・口絵,p.1-4.,本文,p.85-97.
井上公夫(2009):噴火の土砂洪水災害―天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ―,古今書院,シリーズ 繰り返す自然災害を知る,第5巻,204p-167.
井上公夫(2010):第4章 山間部の土砂災害,特に渡良瀬川流域について,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会:1947カスリーン台風報告書,p.101-117.
井上公夫(2012a):5.2 火山地域で想定される土砂災害,地盤工学会関東支部:関東地域の火山由来地盤の災害事例研究と地域特性に関する研究委員会報告書,p.109-111.
井上公夫(2012b):9-3 葛老山の崩壊,日本地すべり学会(2012):地震地すべり――地震地すべりプロジェクト特別委員会の総括編,巻末CD 地震に起因した大規模土砂移動カルテ票.
井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,口絵,16p.,本文,226p.
井上公夫(2013):関東大震災・横浜の現地見学会報告―1923年9月1日のプールの逃避行ルートを歩く―,地理,58巻12号,口絵,p.8.,本文,p.82-91.
井上公夫(2014):伊豆大島・元町の土砂災害史,地理,59巻2月号,口絵,p.8.,本文,p.10-19.
井上公夫(2018):浅間山天明噴火による鎌原土石なだれと天明泥流,群馬学センター萩原文庫シンポジウム講演集,群馬県立女子大学,p.36-48.
井上公夫(2020):千曲川の氾濫の歴史と夜間瀬川扇状地の地形形成との関連,地理,65巻4号,口絵,E,F,本文,p.72-83.
井上公夫(2024):歴史的大規模土砂災害―繰り返す自然大害を知る―,天明三年を語り継ぐ会編,
『天明三年浅間山大噴火を語り継ぐ』,雄山閣,p.158-167.
井上公夫・相原延光・笠間友博(2015):関東大震災・現地見学会,秦野駅から震生湖周辺を歩く,地理,60巻2号,口絵,p.6-7.,本文,p.68-76.
井上公夫・相原延光・森慎一・山口智美(2016):関東大震災による小田原市の土砂災害,地理,61巻11月号,口絵,p.6-8.,本文,p.90-97.
井上公夫・石川芳治・山田孝・矢島重美・山川克己(1994):浅間山天明噴火時の鎌原火砕流から泥流に変化した土砂移動の実態,応用地質,33巻1号,p.12-30.
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