1.第10回全国風穴サミットin紀伊田辺
2024年8月3日(土)〜4日(日)に和歌山県田辺市で「第10回全国風穴サミットin紀伊田辺」が開催されました。1日目の午前中のシンポジウムは田辺市立上秋津公民館、午後は秋津野ガルデン2階の研修室で行われました。
プログラム 8月3日(土)
9:30〜9:50・主催者あいさつ:全国風穴サミット会長 伴野 豊
全国風穴サミットの紹介 全国風穴ネットワーク事務局長 傘木 宏夫
第1部 基調講演
10:00〜10:30 講演1「紀州の風穴を中心として」清水 長正
10:30〜11:00 講演2「紀伊半島の歴史的大規模土砂災害と風穴」 井上 公夫
11:10〜12:00 講演3「田辺市内にある風穴の紹介」
「上秋津風穴と地域の紹介」原 和男(秋津野塾)
「長野風穴と周辺の景観」那須 豊平(長野文化資源研究会)
「木守の風穴と地域の紹介―再発見時の映像上映―」山本 巌(木守風穴研究同好会)
第2部 風穴トーク
風穴トーク1「風穴小屋の利活用」 座長兼コメンテーター 清水 長正
13:00〜13:05 座長あいさつ
13:05〜13:20 古代中世における氷の保存と利用の歴史と近代和歌山県の蚕糸業と蚕種貯蔵風穴
飯塚 聡(群馬県埋蔵文化財調査事業団)
13:20〜13:35 風穴の利用とそれを活かした地域づくり―氷風穴の里保存会の活動を事例に―
鈴木 秀和(駒沢大学)
13:35〜13:50 氷風穴に保存しておいた米の食味分析調査 前田 富孝(氷風穴の里保存会)
13:50〜14:05 風穴の再利用について―入沢風穴を実験場として― 三石 嗣佳(入沢風穴)
風穴トーク2「自然風穴の利活用」 座長兼コメンテーター 澤田 結基
14:25〜14:30 座長あいさつ
14:30〜14:45 氷室・風穴(自然冷熱エネルギー)の機能を地域環境保全へ還元する再エネ利用
研究の紹介 斎藤 和之(海洋研究開発機構)
14:45〜15:00 木守の風穴における試験貯蔵物の観察結果 秋山 晋二(木守風穴研究同好会)
風穴トーク2「各地の実践報告」 座長兼コメンテーター 傘木 宏夫
15:20〜14:25 座長あいさつ
15:25〜15:40 夏秋蚕を支えた日本の風穴 中島 秀規(群馬県立世界遺産センター)
15:40〜15:55 失敗ではなかった源汲風穴 宮澤 洋介(大町山岳博物館友の会)
15:55〜16:10 小豆島風穴における継続観測結果の報告 堀内 雅生(日本工営株式会社)
16:20〜16:35 クールスポット・八雲風穴 勝部 敦(八雲風穴風太郎)
16:35〜16:50 紀南地域に分布する風穴の観測結果報告−特に木守の風穴について−
秋山 晋二(木守風穴研究同好会)
16:50〜17:05 木守風穴再発見秘話 野久保 貴博(木守風穴研究同好会)
8月4日(日)木守の風穴の現地見学会 田辺市立大塔公民館〜木守の風穴の往復
上記のシンポジウムの当日の配布資料(pdf)と当日のもよう(ギャラリー)は、全国風穴ネットワークのホームページ(
https://www.omachi2.org/)をご覧下さい。
以下に8月3日の基調講演で井上が話した内容と現地見学会の概要を報告します。
2.紀伊半島の歴史的大規模土砂災害と風穴
紀伊半島は豪雨や地震によって、繰返し土砂・洪水災害を受けて来ました。特に、明治22年(1889)、昭和28年(1953)、平成23年(2011)と、60年毎に大規模な土砂・洪水災害が発生しました。これらの土砂災害の調査中に、田辺市の会津川・奇絶峡付近と木守付近で風穴現象を見つけ、平成30年(2018)に清水長正様に連絡して一緒に現地調査を行いました。
明治22年(1889)の紀伊半島災害では奈良県十津川村の被災民2667人(村人口の20%)が北海道に移住し、新十津川村を建設しました。奈良県以上に多くの死者を出した和歌山県側では、目良謙吉を中心として39家族が明治24年(1891)に北海道西永山兵村(現旭川市)に移住しました。明治26年(1893)にも豪雨があり、富田川右支・生馬川上流に形成されていた天然ダムが決壊し、激甚な被害を受けました。このため、西牟婁郡からの入殖希望者70戸393人は、旭川市からさらに上流の愛別町・金富農場に移住しました。
3.いさぼうネット『歴史的大規模土砂災害地点を歩く』での紀伊半島災害の紹介
土木情報サービス「いさぼうネット」で、2015年4月から『歴史的大規模土砂災害地点を歩く』というシリーズコラムを開始し、現在までにコラム97まで公開されました。いさぼうネットは誰でも無料で閲覧できる便利なサイトです。
明治22年(1889)の紀伊半島災害などについては、以下のコラムで説明しました。
国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センターでは、2021年3月に『60年毎(1889年,1953年,2011年)に繰り返される紀伊半島の歴史的大規模土砂災害』を編集し、同センターのホームページで公開していますので、閲覧して下さい。
4.明治22年(1889)紀伊半島災害の和歌山県側の災害状況
図1は、明治22年(1889)紀伊半島災害による和歌山県、奈良県における死者数を示しています(水山ほか,2011)。この図は明治大水害誌編集委員会(1989)と関係市町村誌などをもとに集計したものです。この災害では奈良県十津川流域の被害が有名ですが、和歌山県の南部では十津川流域以上に激甚な被害が発生していたことがわかります(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)。
図2は、会津川・富田川流域の水害激甚地の町村別犠牲者数(明治大水害誌編集委会,1989,河川名追記)を示しています。会津川の名称はそれほど古いものではありません(桑原,1999)。江戸時代には左会津川を三栖川、右会津川を秋津川、合流点より下流を田辺川、または大川と呼んでいました。明治22年(1889)の豪雨は、紀伊半島でも和歌山県中南部(西牟婁郡,日高郡)から奈良県南部(宇智吉野郡)にかけて激しく、上記の3郡を中心として極めて多くの山崩れが発生しました。また、急峻な河谷が河道閉塞され、各地に天然ダムが形成されました。これらの天然ダムのほとんどは、豪雨時、または数日後に決壊して段波洪水となり、下流域を襲いました。これらの土砂災害・天然ダムの決壊洪水によって、1000人以上が犠牲者となりました。犠牲者は図2に示したように、会津川と富田川流域に集中しています。
図1 1889年紀伊半島災害による和歌山県と奈良県における死者数
(水山ほか,2011;明治大水害誌編集委員会,1989をもとに作成)
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図2 会津川・富田川流域の水害激甚地の 町村別犠牲者数(明治大水害誌編集委員会,1989) |
図2を詳しく見ると、田辺町・朝来村・生馬村・岩田村で、100名以上の犠牲者があったことがわかります。また、上記の周辺の村でも大きな被害がありました。桑原(1980,1999)、明治大水害誌編集委員会(1989)によれば、「田辺町・湊村は、会津川の河口部にあたり、上流からの洪水(天然ダム決壊洪水も加わる)が集中し、水量は平常の数倍、高さ6〜10mになりました。そのため被害が大きくなりました。富田川筋では、上富田町岩崎と白浜町保呂間の狭隘部(図3左下の〇地点)が井堰のようになり、その上流部は大きな泥海となりました。朝来盆地に位置する朝来村・生馬村・岩田村の被災民は、住む家を失い、衣食もなく、実に破壊し尽くされました。」と記されています。
図3は、富田川流域の氾濫範囲(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021;コラム77,90)で、冨貴建男氏の資料をもとに、明治44年(1911)測図の国土地理院1/5万旧版地形図「田辺」を使用して、作成した図です。
災害から2ヶ月後の10月24日に三栖村の村長西尾岩吉らが富田川筋の視察を行い、岩田・朝来・生馬などを巡回した様子を以下のように記録しています。
「耕地は川原に変じ、家屋はほとんど流出し、わずかに残った家もおおむね倒壊し、実に破壊し尽くされたと言っても過言ではあるまい。この辺の住民は、耕そうにも土地はなく、住む家を失い、衣もなく食もなく、その惨状は筆紙に尽くしがたい。」
図3 富田川流域の氾濫範囲(出典:冨貴建男氏の資料に追記,井上,2022)
(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)
(明治44年(1911)測図,国土地理院1/5万旧版地形図「田辺」を使用)
図4は、田辺市の市街地に流入する会津川(秋津川)流域の明治22年(1889)紀伊半島災害の主な土砂災害地点(高尾山,槇山)と風穴(上秋津風穴と長野風穴)の位置を示しています。秋津野ガルテンは和歌山県田辺市上秋津にあり、8月3日午後に第10回風穴サミットin紀伊田辺の風穴トークを行った場所です。この施設は、2008年11月に地域住民が出資をし、使われなくなった元上秋津小学校を田辺市より買取り、リノベーションさせ誕生させた都市と農村の交流施設です。元の校舎を少し整備して、宿泊施設と会議室などが整備されており、私達も宿泊しました。
図4 田辺市会津川(秋津川)周辺の明治22年紀伊半島災害と風穴の位置図
(秋山晋二作成,コラム57)
5.目良謙吉の北海道西永山兵村への入地紀行
「目良謙吉入地紀行」(旭川市永山町史編集委員会,1962;桑原,1980,1999)には、目良謙吉・謙蔵家族が、和歌山県田辺地域から北海道西永山兵村に入植する経緯が説明されています。
明治23年(1890)12月に北海道屯田兵(歩騎砲工兵)徴募の旨が和歌山県知事より西牟婁郡長へ、郡長より各村長に対して通知がありました。水害罹民にして満17歳以上30歳までの男子で体格堅固、家族3人から5人までの者は検査の上採用されるとのことでした。下秋津村は明治22年(1889)8月、大洪水で村内一円、山林田畑、家屋敷等の大半が流され、ほとんど回復の見込みがありませんでした。村長である目良謙吾は、率先して村民に出願を勧めました。そのため、多くの出願者はありましたが、検査日が近付くにつれて取り消す者も多く、当日受験したものはたった5、6人でした。
目良家は古くより熊野別当家として由緒ある豪家でしたが、大被害を受け、山林から田畑・家・土蔵まで流失しました。残ったのは、小さな土蔵と撃剣道場の2棟だけでした。このため、屯田兵を志願したかったのですが、兄謙蔵は獣医学校在学中であり、特に体が虚弱で資格を満たせず、次男の謙吉(16歳)は年齢不足で断念せざるを得ませんでした。
翌年の明治24年(1891)4月24日に屯田兵の再募集がありました。目良家の撃剣道場が下秋津村の徴兵検査場となり、屯田兵志願者の体格検査や学力検査、家族検査が行なわれました。
受検者は6名、検査場が目良家の撃剣道場であったため、表札に「獣医目良謙蔵」とあるのを検査官が見て、「北海道は畜産帝国である。牛馬に心得ある者、ことに獣医はすこぶる有望だ。渡道の気がないか」と問われました。村長の目良謙吾は家の事情、大いに希望していながら資格に欠けることを詳しく述べました。吉田大尉、里見軍医等大いに同情して、直ちに志願者として検査、謙吉を甲種合格、兄謙蔵を乙種合格として2人とも採用決定となりました。
謙吉と兄謙蔵は喜んで願書や戸籍謄本等を急造して提出しました。受験者6名のうち5名まで合格、1名(森山五郎吉)のみ不合格となりましたが、その後屯田兵付鍛冶職として、兄謙蔵の付籍となって渡道を許可されることになりました。謙吉と謙蔵は5月16日より27日までに山林家財、武具まで一切を市売りしました。これにて借財を整理し、残金1411円24銭也を携帯して家族全員で渡道しました。
5月19日には兄も獣医学校を中退して帰宅しました。目良家全員で渡道することになり、5月31日には田辺の闘鶏神社で郡中有志者により武運長久の祈願祭をしました。この日までに荷造り全部を終了しました。謙吉と謙蔵の2戸分で97個となり、荷物は元来1戸につき8個までと限定されていましたが、検査官の許可を得て賃金を支払って、その2倍まではよいことになりました。西永山兵村(現旭川市)に和歌山県の被災民が入植したのは、明治22年(1889)の紀伊半島水害から2年後の明治24年(1891)7月でした。
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写真1 田辺市の闘鶏神社
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写真2 世界遺産 紀伊山地の霊場と参拝道 |
2024年8月井上撮影
写真1は目良謙吉が武運長久の祈願祭を行った田辺市の闘鶏神社の写真です。写真2は闘鶏神社の入口付近にある「紀伊山地の霊場と参拝道」の説明碑です(2024年8月井上撮影)。紀伊路が中辺路と大辺路に分岐する田辺の地に位置する「闘鶏神社」は、江戸時代には新熊野闘鶏権現社と呼ばれ、熊野三山の別宮的な神社として人々の信仰を集めていました。
明治24年(1891)6月10日に田辺を出発、翌11日に和歌山県庁で挨拶し、6月14日午前10時に船で神戸港に到着しました。午後金沢丸に乗り込んで、北海道へ向けて出航しました。瀬戸内海を通り、17日豊後灘を進航、飫肥岬を通過して、18日午前4時に鹿児島港に入港しました。鹿児島県からの屯田兵を乗船させて夕刻出航、23日に佐渡島付近を通過し、6月25日10時頃小樽港(当時は手宮港)に入港しました。
手宮に上陸した際、抽せんによって各人の入地先が決定しました。歩・騎・砲・工、各兵種により兵村が分けられました。謙吉は西永山兵村裏通4丁目第145番地、兄謙蔵は同8丁目181番地に決まりました。
6月28日午前5時、謙吉ら和歌山県の一行は手宮駅に集合、5時30分に乗車しました。無蓋車で、大鈴を鳴らしながら、小樽と札幌の市街地を通って列車は進み、沼貝兵村中央(現美唄市)の駅にて下車しました。これより一同滝川に向け徒歩で出発しました。6月29日晴天。音江法華(現深川市東端)の駅逓に入りました。7月1日、雨。最後の行程で西永山兵村(現旭川市)に向いました。途中大橋2ヵ所を越えて忠別市街(現旭川市)に入りました。人家3、4戸で商家はありませんでした。60間(108m)の大橋を渡ると、「永山村」と大書した標柱があり、永山兵村一番地でした。
図5は、旭川市永山町史編集委員会(1962)『永山町史』に示されている旭川及近郊屯田兵屋予定地図です。屯田兵村の配置と旭川市街地、河川との関係が良く分かります。
7月8日、入隊式があり、午前8時大隊本部前に集合しました。荘厳裡に入隊を宣し、誓文に捺印、屯田歩兵二等卒を申付けられ、屯田兵としての生活が始まりました。図6は西永山兵村における和歌山県被災者の入殖地(緑色)と目良謙蔵・謙吉の入殖地(赤色)を示しています(小林監修(2003):屯田兵名簿,永山兵村をもとに作成)。
図5 旭川及近郊屯田兵屋予定地図(旭川市永山町史編集委員会,1962)
図6 西永山兵村における和歌山県被災者の入殖地(
緑色)と目良謙蔵・謙吉の入殖地(
赤色)
北海道屯田倶楽部の『屯田兵村の姿』(
https://tonden.org/heison/heison.html)によれば、永山兵村は、平民屯田の道を開いた永山武四郎司令官の名を冠した兵村で、他の地区と異なり、密林や泥炭地ではなく、ほとんどが草原地帯でした。この自然の好条件は入殖した年に多くの収穫を得るほどで、その上、中隊の幹部の多くが琴似、山鼻両兵村の屯田兵でした。彼らは札幌農学校の兵学科特課を卒業した者でしたので、開拓、耕作は抜群の成果を上げたと言われています。
畑作が盛んで後に稲作も行われましたが、戦後になって旭川市街に近く、都市化の波が押し寄せました。旭川市内として工場化・住宅化が進んだため、現在ではかつての農耕盛んな兵村の面影はほとんど残っていません(旭山動物園よりも市街地側です)。
図7は、小林(2003)の『屯田兵名簿』に基づき、和歌山県から西永山兵村へ移住した被災者の元の居住地で、39戸が入殖しました。郡・市町村名は明治24年(1891)当時のもので、ほぼ和歌山県全県から平民屯田兵に応募したことがわかります。
図7 和歌山県から西永山兵村へ移住した被災者の元の居住地(井上・酒井作成)
(郡・市町村名は明治24年(1891)当時,39戸が入植した)
6.明治26年(1893)の和歌山県南部富田川流域の水害
明治22年(1889)8月の紀伊半島災害から4年後の明治26年(1893)8月18日、富田川流域は再び大水害に見舞われました。午前1時頃、富田川左支・生馬川に形成されていた天然ダムが決壊し、鉄砲水が流下して多数の家屋・田畑が流出しました。
図8 富田川左支・篠原谷の崩壊地と天然ダム (国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術 センター,2021)
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写真3 篠原谷の崩壊地現況崩壊堆積物 (角礫状)が存在 2023年11月秋山晋二撮影
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図8は、生馬川上流の篠原谷で発生した大規模な斜面崩壊と天然ダムを示しています(国土交通省近畿地方整備局大規模土砂災害対策技術センター,2021)。この天然ダムは、明治22年(1889)8月の台風による大雨によって形成され、4年間湛水していました。天然ダムが形成された地点に行くと、今でも角礫状の崩壊土砂の堆積を確認できます(写真3,2023年11月秋山晋二撮影)。
住民は4年前の大災害の教訓を活かし、大雨時に高台などに避難したため、被害を逃れることができたと生馬川下流の観音寺(図3の左下)に伝えられています。明治22年(1889)の大災害が極度に深刻であったため、4年後に引き続いて起こった明治26年(1893)の災害については、伝承や記録が少ないのですが、被害は相当なものでした。特に生馬川流域に関しては前回以上の大災害でした。生馬郷土史小学校百年史編集委員会(1980)には、その時の様子が記載されています。
「この水害で生馬谷の被害が大きかったのは、明治22年(1889)の大水害の時、上流の篠原谷で大崩壊があり、谷川を塞いで天然ダムを形成していたが、その天然ダムが決壊し、鉄砲水(土石流から洪水流)となって押し寄せたためだ。」
上富田町史編さん委員会(1998)によれば、上富田(鮎川、市ノ瀬、岩田、朝来、生馬)では、死者385人、家屋流出473戸、家屋全壊222戸の大被害となりました。
7.和歌山県南部の被災者の北海道・金富農場への移住
6項で説明したように、明治24年(1891)に目良謙吉など39家族が西永山兵村に入殖して、新しい生活を始めたことは、被災した和歌山県南部・田辺地域の人々に大きな話題となりました(上富田町史編さん委員会,1998)。富田川流域の岩田村(図3参照)の初代村長であった山本萬作(安政五年(1858)生まれ)は、紀伊半島大水害で激甚な被害を蒙りながら、村の復旧に努力しました。しかし、1年後に岩田村の村長を退職し、明治25年(1892)4月から1年半ほど市ノ瀬村の村長を務め、さらに西牟婁郡の土木工事技師になりました。
明治26年(1893)8月18日、富田川流域は再び大水害に見舞われました。
明治27年(1894)当時36歳の山本萬作は北海道移住を志し、県庁の認可を取って実情視察のため、単身で札幌に行きました。道庁を訪ね、開拓の進捗状況や今後の見通しについて調べました。次いで、イギリス人宣教師ジョン・バチェラー(1854−1944)を訪問しました。バチェラーは明治10年(1877)に来日し、北海道に居住しており、アイヌの理解者(アイヌ語研究者)として知られています。彼の紹介でアイヌ人数人を雇い、上川地方を視察しました。その結果、上川地方の開拓は有望であると感じ、入殖の決意を固めていったん和歌山に帰郷しました。
山本萬作と前後して、経済力のある田辺町の有力者である近藤新十郎と岡本庄太郎は、北海道開拓に深い関心を寄せました。明治27年(1894)5月に北海道に行き、西永山兵村の近藤権吉を訪ねました。権吉は新十郎の従弟にあたり、目良謙吉らと共に西永山兵村に入殖していました。近藤新十郎と岡本庄太郎が権吉と一緒に、北海道の気候や土質を調査していると、愛別原野の区画貸付の件が告示されました。
3人で現地視察をしたのち、道庁に行き、11月に未開地105万坪(350町歩,347万m²)の貸下げ出願許可を得て、近藤と岡本は田辺に帰りました。
こうして、2人共同で開拓費2万5000円を投資して、農場を拓くことになりました。近藤新十郎の屋号古金屋と岡本庄太郎の屋号富田屋から1文字ずつとり、金富農場という名称に決め、農場経営の準備に着手しました。
明治27年(1894)7月に西富田村堅田の榎本菊松を農場主代理として雇いました。このときに郷里より7名の人夫を雇い、西永山兵村からも人夫を雇い、馬や農機具などを求めて、8月20日に金富農場に到着しました。当時の金富地区は萩やすすきが人の丈よりも高く、老樹大木が繁茂していました。あたりはきつね、たぬきの棲家で、羆が寒空に叫びながら騒ぎまわり、鷲は空中を飛んでいました。和人の先住者は駅逓(駅舎と人馬を備えて宿泊と運送をはかるために設置)など2、3軒しかありません。榎本は人夫を指導し、開拓に励み、80町歩を開墾し、農夫小屋を建てました。
明治28年(1895)3月、西牟婁郡からの入殖希望者70戸393人(そのうち、富田川流域では、生馬村2戸11人、岩田村3戸18人、市ノ瀬村5戸24人、鮎川村7戸35人、計17戸88人)が集まりました。4月に加藤陽三は入殖希望者を引率して北海道石狩国上川郡金富に向かいました。しかし、全員が金富農場に入殖したわけではありません。本州の役場では、渡道してもすぐに移籍をしないで、何か月か経ち現地に定着したことを見極めた上で、移籍が受理されました。
加藤は明治30年(1897)1月には3代目の農場管理人となり、金富と和歌山を何度も往復しました。愛別町史編集委員会(1969)に萬作の移住後開拓日記「諸要録」の抜粋が掲載されています。それによって、山本萬作の入殖当時の動静が分かります。旧暦の明治28年5月5日(新暦1895年4月23日)に、郷里の岩田村村長中島金蔵宛に、北海道石狩国上川郡鷹栖村字愛別原野金富農場に一家が移転した旨の届を出し、翌5月6日に農業に着手しました。
図9は、上川郡愛別町全図(当時は鷹栖村)などをもとに、1/5万旧版地形図『伊香牛』(1898年製版)と『愛別』(図幅名変更,1910年改版)や愛別町史編集委員会(1969)などの資料を用いて下愛別の金富農場の範囲を推定して、地理院地図上に示しました(笠原亮一作成)。石狩川と愛別川に挟まれた沖積低地が金富農場の範囲となりました。
明治28年(1895)下愛別の金富農場に70戸の入殖者があったため、北一号線路(北見道路)沿いに村役場(当時は鷹栖村)・村医住宅その他2〜3の飲食店も建設されました。しかし、明治31年(1898)9月の豪雨で全道的大洪水にあい、石狩川と愛別川は大氾濫しました。村役場は、流失寸前の大きな被害となりました。このため、石狩川の増水による水害を恐れ、将来の発展を考えて役場をはじめとして、逐次現在地(当時は番外地)に移転する者が多くなりました。
図9 上川郡愛別町、下愛別の金富農場の範囲(地理院地図に追記,笠原亮一作成)
上川郡愛別町全図(当時は鷹栖村)や1/5万旧版地形図『伊香牛』(1898年製版)
と『愛別』(図幅名変更,1910年改版)などをもとに作成
愛別神社(図9参照)は、明治28年(1895)5月25日に金富農場に和歌山県から入殖してきた人たちが農場内に建立した祠で、熊野権現を安置しました。当時は重労働が続いたことから、毎月1日と15日は休日と定められました。明治31年(1898)9月の豪雨によって石狩川が氾濫したため、大きな被害を受けました。このため、明治42年(1909)に愛別村の産土神としてより安全な現在地(蓬菜山,図9参照)に社殿を建立し、熊野神社と称しました。大正4年(1915)、和歌山県西牟婁郡田辺町(現田辺市)の県社「鬪雞神社」から御分霊を頂きました。
図10は、和歌山県南部から愛別町金富農場に移住した被災民の出身町村別の戸数(黒文字:明治27年(1894)の村名,赤文字:令和5年(2023)市町村名)を示しています。図7に示したように、明治22年(1889)災害では和歌山県全域から西永山兵村に移住しましたが、明治26年(1893)災害では、会津川・富田川流域に被害が集中しており、金富農場に入殖したのは、ほぼ両河川流域に限られていました。木守の風穴がある木守地区(日置川流域)の小学校跡地の記念碑には、木守地区(旧豊原村)からも北海道に移住したことが記されています。
図10 和歌山県南部から愛別町金富農場に移住した被災民の出身町村別の戸数
(黒文字:明治27年(1894)の村区分,
赤文字:令和5年(2023)の市町村)
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写真4 木守小学校の校舎と廃校記念碑「心のふる里」,昭和54年(1979)廃校
写真5 木守小学校の廃校記念碑の裏面 木守小学校の略史
8.現地見学会:木守の風穴
「第10回全国風穴サミットin紀伊田辺」シンポジウムの翌8月4日(日)に「和歌山県田辺市(旧大塔村)木守地区にある木守の風穴で冷風を体験する」と題して現地見学会を以下の行程で開催しました。地元の方やスタッフを含めて25名(内、「木守の風穴」見学者は22名)の方に参加していただきました。現地見学会ルートを図11に示します。
- @ 田辺市立大塔公民館(集合)9:00
- A 合川(殿山)ダム 展望台 9:50〜10:10
- B 百間山渓谷入口駐車場(休憩) 10:30〜10:50
- C 土砂災害慰霊碑 11:00〜11:10
- D 熊野地区の大規模崩壊跡地 11:20〜11:30
- E 木守の一枚岩 11:40〜11:50
- F 木守地区の巨大地すべり地形と木守の風穴12:00〜15:00
<木守神社の湧水池(昼食)−木守小学校跡−寳幢寺−木守の風穴(冷風体験)>
- G 田辺市立大塔公民館(解散) 16:00
図11 現地見学会ルート(基図は地理院地図による)
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8.1 合川(殿山)ダム
田辺市立大塔公民館を出発し、風穴に向う途中の県道沿いにある展望台から合川(殿山)ダムを見学しました(写真6)。
合川(殿山)ダムは、関西電力株式会社が昭和30年(1955)に着工し、昭和32年(1957)に竣工した高さ64.5mの日本初のドーム型アーチ式コンクリートダムです。殿山発電所のためにできたダムなのですが、合川地区にあることから、合川ダムと呼ばれ親しまれています。このダム建設の経験が、昭和31年(1956)に着工、昭和38年(1963)に竣工した黒部ダム(黒部川第四発電所の名称から黒四ダムとも呼ばれている)の建設に大いに役に立ったことから、黒部ダムのモデルダムと言われています。また、地元では昭和25年(1950)に竣工したアーチ式の石積堰堤である大谷堰堤(図4の右上、長野風穴の傍)が合川ダムの原型モデルとされています。
写真6 展望台から望む合川(殿山)ダム(2024年8月4日 野久保貴博撮影)
8.2 熊野地区の大規模崩壊跡地と土砂災害慰霊碑
百間山渓谷入口駐車場で休憩をとる間に、熊野地区の大規模崩壊(深層崩壊)に伴う土石流により被災した家屋跡や土石流により流下し、尾根の上に留まった巨石などを見学した後、道路沿いにある土砂災害慰霊碑(写真7)やその上流にある大規模崩壊跡地を道路から見学しました(写真8)。
平成23年(2011)9月4日の台風12号による豪雨により、熊野地区でも大規模崩壊(深層崩壊)とそれに伴う土石流が発生しました。崩壊した大量の土石は熊野川を堰き止め、その一部が土石流となり、下流の川沿いにあった人家を巻き込みながら1.2kmほど流れ下りました。この土石流により3人の方が犠牲になりました。また、この大規模崩壊により小規模な天然ダムが形成されましたが、徐々に水位が下がり自然消滅しました。その後、直轄の砂防事業が実施され、現在は立派な砂防施設が完成しています。なお、土砂災害慰霊碑となっている巨石は、土石流により上流から流れてきたものです。
写真7 熊野地区の土砂災害慰霊碑(2024年8月4日 野久保貴博撮影)
写真8 熊野地区の大規模崩壊跡地(2024年1月21日 秋山晋二撮影)
8.3 木守地区の巨大地すべり地形と木守の風穴
熊野地区の大規模崩壊跡地を見学後、板立峠を越え、途中の道路沿いにある合川層の砂岩泥岩互層からなる木守の一枚岩を見た後、木守神社の湧水池付近で昼食をとりました(写真9,10)。登山の準備を済ませた後、すぐ傍にある木守小学校跡を見学しました(写真4,5参照)。登山口である寳幢寺から山道を20分ほど登って、標高550mにある木守の風穴にたどり着きました(写真11,12)。
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写真9 木守の一枚岩 |
写真10 木守神社の湧水池 |
(2024年8月4日 野久保貴博撮影) |
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写真11 木守小学校跡 |
写真12 登山口の寳幢寺 |
(2024年8月4日 野久保貴博撮影) |
木守の風穴は、長さ約700m、幅約460mの巨大地すべり地形の末端部付近にあり、合川層の礫岩からなる岩壁中にあります(図12)。風穴の入口は、縦約60cm、横約50cm、奥行約6m以上のノッチ状の小洞穴を形成しており、地すべり変動などにより節理面が開口して形成されたと考えています(写真13,14)。また、巨大地すべり地形の北西側には、先ほど見学した熊野地区の大規模崩壊跡地があります(図13)。
巨大地すべり地形の内部は凹凸のある緩斜面を形成し、国蔵峠付近には「ユケ(池)の窪」と呼ばれる湿地があります。この緩斜面の下方には、礫岩からなる高さ10〜20mほどの急崖(岩壁)が南北に連なっています。
岩壁下の斜面は、径1m以上で数mにも及ぶ岩塊が堆積する崖錐斜面となっています。かつて地すべり地形の側方・末端部の一部が崩壊し、移動・堆積した土石が中ノ川を堰き止め、天然ダムが形成されたことがわかっています。「あすなろ木守の郷」の造成工事中に発見された埋もれ木の放射性炭素年代測定を山形大学YM-ESに依頼した結果、約7,000年前に埋没した樹木であることが判明しました。埋没した樹木は田辺市立大塔公民館に保管・展示されています(写真15,16)。
図12 木守地区の巨大地すべり地形と風穴 (基図は地理院地図による)
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図13 木守・熊野地区周辺の赤色立体図 (国土交通省大規模土砂災害対策技術センター, 2015)
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写真13 木守の風穴(矢印)のある岩壁 |
写真14 木守の風穴の内部状況 |
(国土交通省大規模土砂災害対策センター,2015) |
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写真15 木守地区で発掘された埋もれ木 |
写真16 埋もれ木の円盤状試料 |
(国土交通省大規模土砂災害対策センター,2015) |
この風穴は、養蚕などに利用された痕跡のない自然状態の風穴です。夏場はかなり強い冷気が吹き出すことから、山仕事の人たちの休憩所となっていたそうです。昭和10年(1935)頃に木守地区の前田豊吉氏により発見されていましたが、このことを誰にも話していませんでした。昭和43年(1968)8月末に御子息の前田成三氏がその存在を知り、後藤伸教諭、樫山嘉郎氏、長浜実治氏の3名と共に調査し、風穴であることが確認されました。昭和43年(1968)9月3日の紀伊民報に「風穴見つかる 大塔村の奥地で」と紹介されました。その後、再びその存在が長く忘れ去られていましたが、平成27年(2015)12月に野久保貴博氏を隊長とする大塔村商工会青年部「男のロマン探検隊」により再発見されました。
田辺市の真砂允敏市長も木守の風穴を訪れ、風穴の重要性を認識されています。その後、清水長正氏などの専門家による詳細な調査がなされ、山本巌氏(田辺市文化財審議会委員)のご尽力により、令和2年(2020)11月12日に「木守の風穴」として田辺市の文化財(天然記念物)に指定されました。8月3日の第10回全国風穴サミットin紀伊田辺のシンポジウムでは、風穴発見時の感動映像が上映されました。
風穴内外の温度変化について、令和元年(2019)2月10日〜令和6年(2024)11月17日までの約6年間観測した結果を図14に示します。年により少しの違いはありますが、推定される風穴からの風の吹き出し期間は4月下旬〜10月上旬で、風穴内の温度は約10℃〜14.5℃です。また、風穴内の温度は9月下旬頃から約14.5℃で横ばい傾向を示しています。逆に10月上旬〜翌年4月下旬は風の吹き込み期間となるため、外気温の影響を受けています。なお、風穴内外の温度測定にはKNラボラトリーズ社製のボタン電池型温度ロガー(サーモクロンSLタイプ)を使用しました。
図14 木守の風穴内外の温度変化(2019年2月〜2024年11月,秋山計測)
現地見学会時の風穴内部から吹き出す風の風速は2.0m/sで、吹き出してくる冷風でピンクのリボンテープは横にたなびき、風車は勢いよく回っていました(写真17)。なお、風穴内の温度は13.3℃、風穴外の温度は27.2℃でした。参加者全員の方が風穴のある急崖を登り、最初は涼しく長く居ると寒くなってくる冷風に感動していただきました(写真18)。
写真17 2.0m/sの風が吹き出す木守の風穴(2024年8月4日 野久保貴博撮影)
写真18 木守の風穴見学者の集合写真(2024年8月4日 ドローンで野久保貴博撮影)
9.むすび
井上も8月4日(日)の木守の風穴現地見学会に参加しました。6年ぶりに木守の風穴を見学しましたが、老化による脚力低下で、参加者の協力を得て、やっと風穴にたどり着くことができました。22名の参加者と一緒に木守の風穴にたどり着けたことを感謝いたします。
引用・参考文献
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紀伊民報(2024.7.30):全国風穴サミット 田辺で8月3日、4日
紀伊民報(2024.8.9):風穴の現状や魅力知る 田辺で全国サミット
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