それは、明治32年(1899)に「金原銀行」に発展しました。明治22年(1889)に東海道線が開通すると、明治25年(1892)には「天竜運輸株式会社」を設立しました。次いで明治28年(1895)に「天竜製材店」の経営を始め、明治29年(1896)には北海道の開拓を志して「金原農場」を開きました。
一方、明治13年(1880)、全国に先駆けて「勧善会」を設立し、それを免囚保護協会に発展させ、明治21年(1888)には「出獄人保護会社」を設立するなど、社会事業も活発に行いました。
その後、天竜川と浜名湖を結ぶ疏水を計画し、すでに植林の完成していた金原林を基本財産として寄付し、明治37年(1904)「財団法人金原疏水財団」を設立しました。明善70歳にして、その活動が最も盛んであった時期です。
この地震の発生時期は、戦国時代末期で、豊臣秀吉による東国支配が完了していない時期であったため、統治機構は混乱しており、多くの史料が残りにくい時期でした。しかし、土砂災害地点は近畿・中部・北陸を含めた非常に広い範囲に認められました。
伊勢湾や琵琶湖では津波が発生し、飛騨山中(岐阜県北部)では大規模崩壊が各地で発生しました。越中(富山県)の平野部や濃尾平野(岐阜県南部・愛知県西部)では、液状化現象が確認されています。また、秀吉の築いた長浜城(11)が全壊し、京都では三十三間堂(15)の仏像が600体倒れ、堺(16)では60軒以上の倉庫が倒壊したという記録があります。海(17)の崩壊は、坂部(2005)により、追加した地点です。
天正十三年(1586)八月下旬には、越中・飛騨地方においてかなりの豪雨があったらしく、小瀬甫庵(1626)の『甫庵太閤記』には、「秀吉軍越中に入る、暴風雨洪水して闇夜の如し」と記されています。さらに、長滝寺文書(白鳥町史,史料編2)によれば、「大洪水、郡内の家、数多く流出」などの記録があります。和暦で八月下旬は西暦で9月下旬ということになるので、規模の大きな台風が襲来した可能性があります。このように、山地崩壊の誘因が十分に揃ったところに、天正地震が発生し、各地で大規模な土砂移動が発生したものと考えられます。
濃尾地震(M8.4)は、明治24年(1891年10月28日)6時8分に岐阜県本巣郡根尾村水鳥の北方を震央として発生しました。明治22年(1889)7月1日町村制施行とともに、宇津志村・高尾村・水鳥村・松田村・大井村・大河原村・能郷村が合併して西根尾村が発足しました。明治37年(1904)4月1日に、東根尾村・中根尾村・西根尾村が合併して、根尾村となりました。平成16年(2004)2月に本巣町・真正村・糸貫村・根尾村が合併して本巣市となりました。
濃尾地震は、図4に示したように、北は宮城県仙台から南は鹿児島県まで有感となり、内陸直下型地震では、日本で最大級の地震でした。明治24年頃は日本の文明開化の時期にあたり、開通したばかりの東海道線や紡績工場などが大被害を受けました。東海道線の長良川鉄橋は5スパンのうち3スパンが落ちました。
表2は、地方別の死者、負傷者、家屋全潰戸数、山崩れ箇所(宇佐美,1996)を示しています。濃尾平野では7,000人以上の死者を出しました。特に、根尾谷から岐阜県北部を通り、犬山市北部にかけての地区(濃尾断層系に沿った延長50km)は、震度Zの激震域で人家の倒壊潰率は80%以上にも達しました。また、大野郡・今立郡・足羽郡などで家屋倒壊、山地崩壊などが多発しました。
表3は濃尾地震に関連した土砂災害等の一覧表(位置は図5と対応)、図5は濃尾地震に関連した土砂災害等の一覧図(建設省越美山系砂防工事事務所,1999;中村ほか,2000;コラム32)です。表3と図5に示したように、濃尾断層系に沿って多くの土砂災害が発生しました。多くの斜面で崩壊が発生するとともに、河道閉塞・天然ダム(当時は瀦水と呼ばれた)が8箇所で形成されました。
さらに、濃尾地震による地震動で脆弱となった山腹斜面は、その後の豪雨などの誘因が加わり、土砂災害が多発しました。地震から40日後の高尾吉尾(12)と大井上ノ山(13)、4年後の明治28年(1895)のナンノ崩壊(14)、さらには74年後の昭和40年(1965)の台風24号による集中豪雨によって、徳山白谷(15)・根尾白谷(16)・越山谷(17)などで大規模崩壊が発生しました。地震後の豪雨による土砂災害については、コラム33をご覧ください。
写真2はMilne & Burton(1892,初版)に掲載されたのが元写真で、Koto(1893)論文で,断層崖にFaultと記載されました。本巣市根尾・水鳥では、最大6mの上下変位(北東側の隆起)、水平変位2〜4mの断層が根尾川を横断して地表に現れました。国の天然記念物として指定された断層崖が今も残っています。根尾村(現本巣市)教育委員会では、この断層を直接観察できる地震断層観察館・体験館を平成3年(1991)に完成させました。写真3は、写真2とほぼ同じ位置の断層展望広場から2017年4月25日に井上が撮影したもので、右側に根尾谷地震断層観察館が写っています。
写真4 根尾谷水鳥地区の立体航空写真(赤丸数字は表3,図5の地点を示す)
国土地理院1975年10月22日撮影,CCB-75-25,C16B-13,14,15(コラム32)
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写真5 水鳥大将軍断層と板所山の崩壊によって 形成された天然ダム(岐阜地方気象台蔵)
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写真6 ほぼ同地点から撮影した現況 (2017年4月25日,井上撮影;コラム32) |
写真4は、国土地理院が1975年10月25日に撮影した航空写真で、立体視できるように加工したものです。立体視してみると、根尾谷断層と東西に走る大将軍断層の形態が識別できます。根尾谷水鳥地区(地点①)や板所山(根尾谷左岸,地点②)からの崩壊土砂と地震断層(東西性の大将軍断層,断層の北側が5m沈下した)の出現によって、根尾川が堰き止められ、大規模な天然ダムが形成されました。田畑ほか(1999,2002)によれば、湛水高6m,湛水面積68万m²、湛水量140万m³と推定しています。この天然ダムの湛水により根尾谷の河床付近はほとんど水没してしまったため、根尾谷唯一の幹線道路(現在の国道157号)も遮断され、交通の便は舟に頼らざるをえなくなりました。写真5は岐阜気象台所蔵の当時の写真で、板所山の崩壊土砂と地震断層(東西に走る大将軍断層)によって湛水している状況を示しています。写真6は写真5とほぼ同じ位置から、2017年4月25日に撮影したものです。付近の人々は高所に逃れ、仮小屋を建てて暮らしました。この天然ダムは大正の初め頃まで20年間も残っていました。
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写真7 水鳥左岸の崩壊状況,全山禿山状態 Milne & Burton (1894,2版,防災専門図書館蔵)
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写真8 巨大な移動岩塊に向かう吊り橋 数年前は通行できたが,今は通れない (2017年4月25日,井上撮影) |
Milne & Burton(1894,第2版)の写真7とその説明によれば、
「写真にみられる山の脇の明るい部分は、地すべりによって草も木も剥ぎ取られたところである。前面には樹木が真っすぐ立ったまま一塊になって、上から滑り落ちたところも見られる。大地震の後、数日経て地すべりが起きたのであるが、そこに居合わせた人の見たところによると、唸りや震動のために、大砲の音のように聞こえた。」と記載されています。
4.金原明善の濃尾地震後の災害調査
金原明善は、濃尾地震から6年後の明治30年(1897,66歳)、岐阜県知事・湯本義憲の招聘によって、濃尾地震の被災地を7月7日〜17日に現地調査しました。図8に現地調査ルートと写真撮影位置を示しました。写真9は明善記念館に保管されている資料の写真、写真10は明善の水源地調査団の一行の写真です。明善は調査報告書(明善記念館蔵)を建白書として作成し、同年7月24日に明治天皇に上奏しています。
図8 金原明善の明治三十年(1897)の現地調査ルートと写真撮影位置図
(1/20万地勢図「岐阜」)(国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所,2003;コラム33)
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写真9 明善生家記念館に保管されている資料
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写真10 金原明善の水源地調査団一行 |
(明善記念館蔵;コラム33)
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コラム33で紹介したように、揖斐郡揖斐川町坂内川上では、地震から4年後の明治28年(1895)8月5日にナンノ崩壊(表3,図5の地点14)が発生し、天然ダムが形成されました。崩壊の1週間前から長雨が続いており、特に7月29日〜30日には豪雨となって、坂内川上流では多数の洪水氾濫が発生しました。図9はナンノ崩壊の土砂災害状況図、写真11は斜め航空写真を示しています(建設省越美山系砂防工事事務所,1999)。現在は砂防施設が整備され、河川公園となっています。
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図9 ナンノ崩壊の土砂災害状況図
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写真 11 ナンノ谷崩壊地の斜め航空写真 |
(1/2.5 万地形図「美濃川上」) (建設省越美山系砂防工事事務所,1999;コラム33) < 拡大表示>
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ナンノ崩壊は2度にわたって発生しました。1回目の崩壊は8月5日15時に発生し、一時的に坂内川を堰き止めましたが、ほどなく決壊しました。しかし、18時に2回目の崩壊が発生しました。この時の崩壊土砂は坂内川を河道閉塞し、天然ダムを形成しました。崩壊地の比高285m、斜面長500m、崩壊面積21万m²、崩壊土量150万m³と推定されています(山内,1985;田畑ほか,1999,2002)。天然ダムの規模は、湛水高38m、湛水面積15万m²、湛水量200万m³と見積もられています。
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写真12 明治30年(1897)の天然ダム湛水状況) (明善生家記念館蔵)
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写真13 現在は砂防施設が整備され、公園となっている (2017年4月25日,井上撮影;コラム33) |
明善一行は、図8の写真撮影位置図に示したように、7月7日に大垣を出発後、揖斐川から坂内川を上り、ナンノ崩壊地などの貴重な15枚の写真撮影(写真師を同行させた)を行っています。明善記念館にはこの時の貴重な写真集が残されています。写真12は明善一行が撮影したもので、天然ダム形成から2年経過しているにも関わらず、まだ湛水していることがわかります。写真13は2017年4月25日に井上が撮影したもので、ナンノ崩壊地と坂内川には砂防施設が整備され、公園となっています。
写真14 第貳號 本巣郡中根尾村大字板所崩潰,崩壊面には植栽工が施工されている
濃尾地震から6年後の明治30年に撮影(明善生家記念館蔵;コラム33)
Milne & Burton(1892)が濃尾地震の翌年に現地調査した時に撮影した写真7では、水鳥左岸の谷壁斜面が全山禿山状態となっていること(表3,図5の地点10)を示しています。写真14は、同じ斜面を地震発生から6年後の明治30年(1897)に撮影したもので、崩壊斜面には植栽工が施工されています。根尾谷の崩壊斜面が早期に回復したのは、金原明善の指導による植林・治山工事あったからです。
根尾谷断層の断層展望広場から根尾谷の谷壁斜面を見ると、崩壊痕跡はほとんど見えないほどに、森林が繁茂し安定しているように見えます(写真3)。森林の根元には写真14で示された植栽工や治山施設が丹念に施工されていることを忘れてはいけないと思います。
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