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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く
コラム89 濃尾地震による土砂災害と金原明善
1.はじめに
2023年9月1日に関東大震災から100年となりましたが、数日後金原明善編集委員会から『マンガでわかる!郷土の偉人 金原明善(きんぱらめいぜん)さんと今を生きるわたしたち』(64p.)が贈呈されてきました。この本は、浜松市内の子供たちに金原明善の偉業を知ってもらうために、「浜松市東区地域力向上事業 市民提案による住みよい地域づくり助成事業」の一環としてマンガで編集され、1万9000部印刷されました。市内の図書館や公民館、小中学校に配布されました。この本の編集にあたっては、金原明善編集委員会(委員長:花井和徳)が組織され、まなび編の執筆者:大場康弘、マンガ編の執筆者:江川直美で原稿が作成されました。一部募金活動が行われ、私も募金に参加しました。
金原明善編集委員会のHP(https://meizensan.jp)でも本書のpdfをダウンロードできます。
国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所の業務(受託:日本工営株式会社)で、平成15年(2003)3月に『家財を投げ打ち国土づくりに邁進した金原明善の生涯』が発行されましたが、私は編集作業を手伝いました。
いさぼうネットでも、『コラム33 濃尾地震後の豪雨による土砂災害」(2017年6月15日)の「3 金原明善の濃尾地震後の災害調査」で説明しました。
ここでは、金原明善の偉業と濃尾地震後に実施された現地調査について、説明します。
図1 図2
図1 金原明善編集委員会(2023.9.01):
金原明善さんと今を生きるわたしたち
図2 国土交通省多治見工事事務所(2003):
家財を投げ打ち国土づくりに邁進した金原明善の生涯
2.金原明善の偉業の概要
金原明善は、家財を投じて、中部地方の治山・治水活動に努めましたが、その活動や人物像は浜松市域を除いてあまり知られていません。
金原明善は、天保三年六月七日(1832年7月4日)、天竜川のほとり遠江国長上郡安間村(静岡県浜松市中央区安間)で、名主役を務める父久平とその妻志賀との間に、長男として生まれました。幼名は弥一郎で、40歳の時に明善と改名しました。大地主の家に生まれ、家族の愛を一身に集め、何不自由なく成長しました。
ところが、14歳の時生死の間をさまようほどの病にかかってしまいました。髪は抜け、精神も放心したようになってしまい、長期の療養生活を送るようになりました。しかし、19歳の時、奇跡的に健康が回復し、家業の手伝いもできるようになりました。後に、明善はこの時の病を「私の現世はアレで一つ終わった。全快した後の世は未来だ。」と回顧しています。
明善が生まれ、少年時代を過ごした時期は、封建社会の崩壊期で、明治維新の前夜ともいうべき時代でした。慢性的不作による農村の荒廃、武家の経済的・精神的荒廃、百姓一揆・打ちこわしによる階級闘争が激化し、さらに、黒船の来航や国家権力をめぐる政治闘争などによって、幕藩体制は根底から揺さぶられていました。そして、嘉永六年(1853)には、ペリーの来航によって、幕府は開国を迫られ、封建社会に終止符が打たれました。
明治元年(1868)、江戸幕府から代わった明治政府は、農民を土地から解放するとともに、武士の身分的特権を廃止し、多くの自由な労働力を作り出しました。また、鉄道の建設、馬車や汽船の奨励など、殖産興業をモットーとして、近代的産業の保護育成に務めました。
このような近代化に助けられ、明治元年(1868)以降、明善は天竜川の治水工事において、主任的地位を得て活動することになりました。その後、明治8年(1875)、43歳の時、明善は「治河協力社」の社長に命ぜられ、本格的治水工事に着手しました。この頃から「遠州の義人金原明善」の名が広く世に知られ始めました。
さらに、近代産業は、民間人の手によって続々と発展して行きました。明治27年(1894)の日清戦争を契機として、第一次産業革命が達成され、近代的軽工業の確立を見るに至りました。さらに引き続く経済発展は、明治37年(1904)の日露戦争を契機とする第二次産業革命によって、近代的重化学工業が発展しました。
そして、この産業資本発展期は、明善にとっても、多くの事業を起こして多方面に活躍した時期でもありました。
明治17年(1884)の治河協力社の解散を契機として、明善はその目を治水から治山に向け、天竜川流域の瀬尻御料林、金原林をはじめ、伊豆天城山御料林、富士山麓、岐阜県根尾谷などの植林事業を次々と完成させていきました。
また、明治18年(1885)に設立した「東里為替」の経営が確立したのもこの時期です。
写真1
写真1 明善記念館(静岡県浜松市中央区安間)(2017年4月26日,井上撮影)
それは、明治32年(1899)に「金原銀行」に発展しました。明治22年(1889)に東海道線が開通すると、明治25年(1892)には「天竜運輸株式会社」を設立しました。次いで明治28年(1895)に「天竜製材店」の経営を始め、明治29年(1896)には北海道の開拓を志して「金原農場」を開きました。
一方、明治13年(1880)、全国に先駆けて「勧善会」を設立し、それを免囚保護協会に発展させ、明治21年(1888)には「出獄人保護会社」を設立するなど、社会事業も活発に行いました。
その後、天竜川と浜名湖を結ぶ疏水を計画し、すでに植林の完成していた金原林を基本財産として寄付し、明治37年(1904)「財団法人金原疏水財団」を設立しました。明善70歳にして、その活動が最も盛んであった時期です。
静岡県浜松市中央区安間の生家には、「明善記念館」があり、多くの資料が展示されています。また、伝記なども多数出版されており、記念館や浜松市内の図書館などで閲覧できます。
3.日本最大の直下型地震,―天正地震(1586)と濃尾地震(1891)―
日本最大の直下型地震,―天正地震(1586)と濃尾地震(1891)―については、コラム31,32,33で説明しました。
3.1 天正地震(1586)による土砂災害
天正地震は、天正十三年十一月二十九日(1586年1月18日)に発生した大規模直下型地震で阿寺断層系、または庄川断層系など、複数の断層によって発生したと考えられています。地震の規模は、宇佐美(1996,2003)はM7.8±0.1、飯田(1979)は震度分布からM8.2、村松(1963)はM7.8などと推定しています。図3は、天正地震による大規模土砂移動の地点(越美山系砂防工事事務所,1999;中村ほか,2000;田畑ほか,2002;コラム31)を示しています。
表1 天正地震(1586)に関連した土砂移動等の一覧表
(建設省越美山系砂防工事事務所,1999に追記;コラム31)
図3
図3 天正地震(1586)に関連した土砂移動等の分布
(建設省越美山系砂防工事事務所,1999;中村ほか,2000;コラム31)
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この地震の発生時期は、戦国時代末期で、豊臣秀吉による東国支配が完了していない時期であったため、統治機構は混乱しており、多くの史料が残りにくい時期でした。しかし、土砂災害地点は近畿・中部・北陸を含めた非常に広い範囲に認められました。
伊勢湾や琵琶湖では津波が発生し、飛騨山中(岐阜県北部)では大規模崩壊が各地で発生しました。越中(富山県)の平野部や濃尾平野(岐阜県南部・愛知県西部)では、液状化現象が確認されています。また、秀吉の築いた長浜城(11)が全壊し、京都では三十三間堂(15)の仏像が600体倒れ、堺(16)では60軒以上の倉庫が倒壊したという記録があります。海(17)の崩壊は、坂部(2005)により、追加した地点です。
天正十三年(1586)八月下旬には、越中・飛騨地方においてかなりの豪雨があったらしく、小瀬甫庵(1626)の『甫庵太閤記』には、「秀吉軍越中に入る、暴風雨洪水して闇夜の如し」と記されています。さらに、長滝寺文書(白鳥町史,史料編2)によれば、「大洪水、郡内の家、数多く流出」などの記録があります。和暦で八月下旬は西暦で9月下旬ということになるので、規模の大きな台風が襲来した可能性があります。このように、山地崩壊の誘因が十分に揃ったところに、天正地震が発生し、各地で大規模な土砂移動が発生したものと考えられます。
表1と図3によれば、17箇所の土砂災害が抽出されています。天正地震は、岐阜県北部で大規模な土砂移動が確認されたことや、阿寺断層系・庄川断層系の一部が活動したことから、白山大地震と呼ばれることが多いのですが、伊勢湾付近で津波が発生したことなどから、震源は伊勢湾北部にもあったと言われています。飯田(1987)は天正地震の2日前の十一月二十七日(1586年1月16日)に、富山県高岡市福岡町木舟付近(砺波平野)に震央を持つ越中地震(M6.6)が発生したことを指摘しています。木舟城の埋没は、この時に発生した可能性があります。
以上のことを考慮すると、震源を×で示しましたが、3連発の地震であった可能性があります。図3に示すように、震度Yの範囲は伊勢湾から富山付近まで、広範囲に及びました。
3.2 濃尾地震(1891)の概要と土砂災害
濃尾地震(M8.4)は、明治24年(1891年10月28日)6時8分に岐阜県本巣郡根尾村水鳥の北方を震央として発生しました。明治22年(1889)7月1日町村制施行とともに、宇津志村・高尾村・水鳥村・松田村・大井村・大河原村・能郷村が合併して西根尾村が発足しました。明治37年(1904)4月1日に、東根尾村・中根尾村・西根尾村が合併して、根尾村となりました。平成16年(2004)2月に本巣町・真正村・糸貫村・根尾村が合併して本巣市となりました。
濃尾地震は、図4に示したように、北は宮城県仙台から南は鹿児島県まで有感となり、内陸直下型地震では、日本で最大級の地震でした。明治24年頃は日本の文明開化の時期にあたり、開通したばかりの東海道線や紡績工場などが大被害を受けました。東海道線の長良川鉄橋は5スパンのうち3スパンが落ちました。
図4
図4 濃尾地震の震度分布
(気象庁,1983)
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表2 地方別死者・負傷者,家屋全潰戸数
山崩れ箇所(宇佐美,1996)
表2
表2は、地方別の死者、負傷者、家屋全潰戸数、山崩れ箇所(宇佐美,1996)を示しています。濃尾平野では7,000人以上の死者を出しました。特に、根尾谷から岐阜県北部を通り、犬山市北部にかけての地区(濃尾断層系に沿った延長50km)は、震度Zの激震域で人家の倒壊潰率は80%以上にも達しました。また、大野郡・今立郡・足羽郡などで家屋倒壊、山地崩壊などが多発しました。
表3は濃尾地震に関連した土砂災害等の一覧表(位置は図5と対応)、図5は濃尾地震に関連した土砂災害等の一覧図(建設省越美山系砂防工事事務所,1999;中村ほか,2000;コラム32)です。表3と図5に示したように、濃尾断層系に沿って多くの土砂災害が発生しました。多くの斜面で崩壊が発生するとともに、河道閉塞・天然ダム(当時は瀦水(ちょすい)と呼ばれた)が8箇所で形成されました。
表3 濃尾地震に関連した土砂災害等の一覧表(位置は図5と対応)
(建設省越美山系砂防工事事務所,1999;中村ほか,2000;コラム32)
図5
図5 濃尾地震に関連した地震断層・土砂災害等の一覧図
(建設省越美山系砂防工事事務所,1999;中村ほか,2000;コラム32)
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さらに、濃尾地震による地震動で脆弱となった山腹斜面は、その後の豪雨などの誘因が加わり、土砂災害が多発しました。地震から40日後の高尾吉尾(12)と大井上ノ山(13)、4年後の明治28年(1895)のナンノ崩壊(14)、さらには74年後の昭和40年(1965)の台風24号による集中豪雨によって、徳山白谷(15)・根尾白谷(16)・越山谷(17)などで大規模崩壊が発生しました。地震後の豪雨による土砂災害については、コラム33をご覧ください。
濃尾断層系は図5に示したように、1温見断層、2根尾谷断層、3黒津断層、4水鳥断層、5梅原断層、6古瀬断層、7谷汲断層に分かれますが、北は福井県今立郡池田町野尻から美濃俣を通り、温見峠を越えて、能郷白山、根尾谷、岐阜県山県市伊自良、高富を通り、長良川、木曽川を越えて、可児市帷子に達する全長80kmに及ぶものです。濃尾地震時の地震断層は全体として1本の連続した断層線を生じたのではなく、数箇所で途切れ、少しずれた地点から出現しています。濃尾断層系は全体としてみれば、水平変位(左横ずれ)の大きな断層ですが、この時は上下変位を伴って地表地震断層が出現しました。
写真2
写真2 根尾谷水鳥の濃尾地震断層(小藤がKoto(1893)論文で写真にFaultと追記)
元写真は(Milne & Burton(1892, 初版)(南側の低位段丘面の上から北方を望み,小川一真が撮影した)
写真2
写真3 河成段丘上の断層展望広場からみた根尾谷地震崖と地震断層観察館
(2017年4月25日,井上撮影;コラム32)
写真2はMilne & Burton(1892,初版)に掲載されたのが元写真で、Koto(1893)論文で,断層崖にFaultと記載されました。本巣市根尾・水鳥では、最大6mの上下変位(北東側の隆起)、水平変位2〜4mの断層が根尾川を横断して地表に現れました。国の天然記念物として指定された断層崖が今も残っています。根尾村(現本巣市)教育委員会では、この断層を直接観察できる地震断層観察館・体験館を平成3年(1991)に完成させました。写真3は、写真2とほぼ同じ位置の断層展望広場から2017年4月25日に井上が撮影したもので、右側に根尾谷地震断層観察館が写っています。
図6
図6 根尾谷地変図(岐阜地方気象台蔵)
赤丸数字は表3,図5の地点を示す
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図7
図7 根尾川の天然ダム形成位置と崩壊地形区分図
(建設省 越美山系砂防工事事務所, 1999;コラム32)
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3.3 根尾谷断層沿いに発生した地変・土砂移動
図6は、根尾谷地変図(岐阜地方気象台蔵)、赤丸数字は表3,図5の地点を示します。図7は根尾谷の天然ダム形成位置と崩壊地形区分図(建設省越美山系砂防事務所,1999;コラム32)です。図6の黒のジグザク線は、濃尾地震の起震断層線で、明瞭な直線上の地変が認められました。当時の新聞記事や災害報告では、断層とは呼ばず、「震裂波動線」と呼ばれていました。根尾谷の河谷斜面には茶色で示された崩壊地が連続的に発生しました。このため、地震直後の根尾川流域には、河道閉塞・天然ダム(当時は瀦水(ちょすい)と呼ばれた)が8箇所で形成されました。これらの天然ダムの規模は、他にほとんど資料がないため不明な点が多いのですが、一番上流の能郷谷と根尾西川の合流点付近に形成された天然ダム(地点25)が一番大きくなっています。
知事官房の「震災日誌二」の12月12日付の「官房局への報告」には、
「板屋村外七箇村役場部内ハ谷川所々瀦水(ちょすい)シ、田畑道路破壊セリ。又井水(ことごと)く汚濁セシヲ以テ飲料水ヲ欠キ大ニ困難セリ」とあり、瀦水(天然ダム)が各地にできて、多くの被害が発生したことが記されています。
写真1
写真4 根尾谷水鳥地区の立体航空写真(赤丸数字は表3,図5の地点を示す
国土地理院1975年10月22日撮影,CCB-75-25,C16B-13,14,15(コラム32)
写真5 写真6
写真5 水鳥大将軍断層と板所山の崩壊によって
形成された天然ダム(岐阜地方気象台蔵)
写真6 ほぼ同地点から撮影した現況
(2017年4月25日,井上撮影;コラム32)
写真4は、国土地理院が1975年10月25日に撮影した航空写真で、立体視できるように加工したものです。立体視してみると、根尾谷断層と東西に走る大将軍断層の形態が識別できます。根尾谷水鳥地区(地点①)や板所山(根尾谷左岸,地点②)からの崩壊土砂と地震断層(東西性の大将軍断層,断層の北側が5m沈下した)の出現によって、根尾川が堰き止められ、大規模な天然ダムが形成されました。田畑ほか(1999,2002)によれば、湛水高6m,湛水面積68万m²、湛水量140万m³と推定しています。この天然ダムの湛水により根尾谷の河床付近はほとんど水没してしまったため、根尾谷唯一の幹線道路(現在の国道157号)も遮断され、交通の便は舟に頼らざるをえなくなりました。写真5は岐阜気象台所蔵の当時の写真で、板所山の崩壊土砂と地震断層(東西に走る大将軍断層)によって湛水している状況を示しています。写真6は写真5とほぼ同じ位置から、2017年4月25日に撮影したものです。付近の人々は高所に逃れ、仮小屋を建てて暮らしました。この天然ダムは大正の初め頃まで20年間も残っていました。
写真7 写真8
写真7 水鳥左岸の崩壊状況,全山禿山状態
Milne & Burton (1894,2版,防災専門図書館蔵)
写真8 巨大な移動岩塊に向かう吊り橋
数年前は通行できたが,今は通れない
(2017年4月25日,井上撮影)
Milne & Burton(1894,第2版)の写真7とその説明によれば、
「写真にみられる山の脇の明るい部分は、地すべりによって草も木も剥ぎ取られたところである。前面には樹木が真っすぐ立ったまま一塊になって、上から滑り落ちたところも見られる。大地震の後、数日経て地すべりが起きたのであるが、そこに居合わせた人の見たところによると、唸りや震動のために、大砲の音のように聞こえた。」と記載されています。
4.金原明善の濃尾地震後の災害調査
金原明善は、濃尾地震から6年後の明治30年(1897,66歳)、岐阜県知事・湯本義憲の招聘によって、濃尾地震の被災地を7月7日〜17日に現地調査しました。図8に現地調査ルートと写真撮影位置を示しました。写真9は明善記念館に保管されている資料の写真、写真10は明善の水源地調査団の一行の写真です。明善は調査報告書(明善記念館蔵)を建白書として作成し、同年7月24日に明治天皇に上奏しています。
図8
図8 金原明善の明治三十年(1897)の現地調査ルートと写真撮影位置図
(1/20万地勢図「岐阜」)(国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所,2003;コラム33)
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写真9 写真10
写真9 明善生家記念館に保管されている資料
写真10 金原明善の水源地調査団一行
(明善記念館蔵;コラム33)
コラム33で紹介したように、揖斐郡揖斐川町坂内川上では、地震から4年後の明治28年(1895)8月5日にナンノ崩壊(表3,図5の地点14)が発生し、天然ダムが形成されました。崩壊の1週間前から長雨が続いており、特に7月29日〜30日には豪雨となって、坂内川上流では多数の洪水氾濫が発生しました。図9はナンノ崩壊の土砂災害状況図、写真11は斜め航空写真を示しています(建設省越美山系砂防工事事務所,1999)。現在は砂防施設が整備され、河川公園となっています。
図9 写真11
図9 ナンノ崩壊の土砂災害状況図
写真 11 ナンノ谷崩壊地の斜め航空写真
(1/2.5 万地形図「美濃川上」) (建設省越美山系砂防工事事務所,1999;コラム33)
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ナンノ崩壊は2度にわたって発生しました。1回目の崩壊は8月5日15時に発生し、一時的に坂内川を堰き止めましたが、ほどなく決壊しました。しかし、18時に2回目の崩壊が発生しました。この時の崩壊土砂は坂内川を河道閉塞し、天然ダムを形成しました。崩壊地の比高285m、斜面長500m、崩壊面積21万m²、崩壊土量150万m³と推定されています(山内,1985;田畑ほか,1999,2002)。天然ダムの規模は、湛水高38m、湛水面積15万m²、湛水量200万m³と見積もられています。
写真12 写真13
写真12 明治30年(1897)の天然ダム湛水状況)
(明善生家記念館蔵)
写真13 現在は砂防施設が整備され、公園となっている
(2017年4月25日,井上撮影;コラム33)
明善一行は、図8の写真撮影位置図に示したように、7月7日に大垣を出発後、揖斐川から坂内川を上り、ナンノ崩壊地などの貴重な15枚の写真撮影(写真師を同行させた)を行っています。明善記念館にはこの時の貴重な写真集が残されています。写真12は明善一行が撮影したもので、天然ダム形成から2年経過しているにも関わらず、まだ湛水していることがわかります。写真13は2017年4月25日に井上が撮影したもので、ナンノ崩壊地と坂内川には砂防施設が整備され、公園となっています。
写真14
写真14 第貳號 本巣郡中根尾村大字板所崩潰,崩壊面には植栽工が施工されている
濃尾地震から6年後の明治30年に撮影(明善生家記念館蔵;コラム33)
Milne & Burton(1892)が濃尾地震の翌年に現地調査した時に撮影した写真7では、水鳥左岸の谷壁斜面が全山禿山状態となっていること(表3,図5の地点10)を示しています。写真14は、同じ斜面を地震発生から6年後の明治30年(1897)に撮影したもので、崩壊斜面には植栽工が施工されています。根尾谷の崩壊斜面が早期に回復したのは、金原明善の指導による植林・治山工事あったからです。
根尾谷断層の断層展望広場から根尾谷の谷壁斜面を見ると、崩壊痕跡はほとんど見えないほどに、森林が繁茂し安定しているように見えます(写真3)。森林の根元には写真14で示された植栽工や治山施設が丹念に施工されていることを忘れてはいけないと思います。
引用・参考文献
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気象庁(1983):被害地震の表と震度分布図,470p.
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岐阜測候所(1894):明治二十四年十月二十八日大震報告,193p.
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金原治山治水財団(1968a):金原明善,871p.
金原治山治水財団(1968b):金原明善資料,上,885p.,下1077p.
金原明善(1897):現地調査写真集,金原明善記念館蔵,20p.
金原明善編集委員会(2023):マンガでわかる!郷土の偉人 金原明善さんと今を生きるわたしたち』,64p.
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建設省河川局砂防部(1995):地震と土砂災害,61p.
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建設省中部地方建設局越美山系砂防工事事務所(1998):『越美山系災害史』,145p.
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