7.酒匂川下流の足柄平野における土砂災害
7.1 富士山宝永噴火後の足柄平野の土砂災害
富士山宝永噴火による降下火砕物は、酒匂川の上・中流域全体に厚く降り積もり、河道閉塞や河床上昇を引き起こしました。その後の降雨の度に谷壁斜面や支流から多量の降下火砕物が酒匂川に流入し、下流域では激甚な土砂災害・洪水災害が繰り返し発生しました。その上、突発的な豪雨に起因する土石流や、河谷斜面からの過度な土砂供給によって、酒匂川の河床はさらに上昇し続けました。
最も降砂が厚く(3m以上)堆積した駿河国駿東郡御厨地方(静岡県御殿場市、小山町)の59ヶ村は「亡所」とされました。新田(1974)『怒る富士』によれば、「宝永五年(1708)春、御見分のために、中山出雲守様と河野勘右衛門様が御出でなされて、ご覧になった上で、『山野共、一面に深砂で覆われていて、とても復興開発には及び難いので、住民たちは何方へなりとも、勝手次第に離散して渡世せよ』と仰せられたが、どこの国へも行く方便もなく、只々餓死を待つばかりとなった」と記されています(伴野京治著『宝永噴火と北駿の文書』より)。
江戸幕府は、小田原藩領主・大久保忠増に被害の大きな領地(駿河国御厨地方,相模国足柄上郡・下郡)を返地させ、天領としました。そして、天領の復旧・復興を関東郡代である伊奈半左衛門忠順に砂除川浚奉行を命じました。
となっている),2026年5月井上撮影
旧版地形図1/5万「小田原」図幅(1896年修正)
忠順は酒匂川河口付近の東海道の酒匂宿名主川辺段衛門の屋敷を借りて、酒匂会所(陣屋)を設置しました(写真3 酒匂会所跡地,現在は社会福祉法人ゆりかご園となっており、入場不可です)。図9は旧版地形図1/5万「小田原」(1896年測図)図幅で明治29年(1896)当時の地形・土地利用状況を示しています。忠順が陣屋とした酒匂会所の位置を赤点で示しました。
岩流瀬堤や大口堤の修復工事などには、江戸商人の請負工事や大名の御手伝い普請が実施され、半左衛門忠順はこれらの工事の監督が役目でした。しかし、予算が十分ではなく、強固な堤防は建設できませんでした。焼砂の流入によって、酒匂川の河床の上昇が続いたため、流下断面が小さくなりました。このため、噴火翌年の宝永五年六月二十二日(1708年8月8日)の豪雨によって、岩流瀬堤や大口堤は決壊し、大規模な土砂・洪水氾濫が発生しました。それ以降、下流の足柄平野では噴火後100年近くにわたって、土砂・洪水氾濫が繰り返し発生するようになりました。
このようなラハール(火山泥流・土石流)の発生は、コラム50で説明した1991年のフィリピンのピナツボ火山の巨大噴火(世界で20世紀最大の噴火)後の状況と良く似ています。
https://isabou.net/knowhow/colum-rekishi/colum50.asp
酒匂川における一連の洪水氾濫の被害状況については、すでに地域史研究の一環として、多くの研究成果が公表されています。(本多,1972;酒井,1975;瀬戸,1982;開成町,1965;南足柄市郷土資料館,1993など)。
酒匂川の治水に関しては、足柄平野を洪水氾濫の危険から守るため、小田原藩が江戸時代の初期から酒匂川の河谷地形を利用して、春日森堤(土手)、岩流瀬堤(土手)、大口堤(土手)を構築してきました(コラム108の図4参照)。平野への出口の狭窄部に位置する春日森堤で酒匂川の洪水流の直進を防ぎました。岩流瀬堤は突き出し堤となっており、洪水の際の流路を誘導して、洪水流が直接大口堤に直接ぶつかることを防ぎ、本流の中心を大口堤の対岸側(南側の千貫岩)に導流する機能を持つ堤防でした。大口堤は酒匂川の流向を西側から東側に導流し、足柄平野を守るものでした。これらの堤防が決壊すると、酒匂川右岸の穀倉地帯は泥の海と化してしまいます。これらの堤防が相互に機能的に働くことで、足柄平野を土砂洪水氾濫から守っていました。
宝永噴火(1707)直後から享和二年(1802)六月までの土砂洪水氾濫事例を整理し、被害範囲の変遷をもとに4時期に分けて図示したのが図10です。なお、氾濫範囲の地名の推定にあたっては、明治19〜22年(1886〜1889)測図の2万分の1の旧版地形図(正式図)を使用しました。旧版地形図から集落名を読み取り、江戸時代の絵図や文書と比較・検証して、等高線や酒匂川の流況(網状流路となっている)
『富士山宝永噴火と土砂災害』(2003),p.22
を判断して、4時期の洪水流下範囲図を作成しました(国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所,2003;井上,2007a,b)。
7.2 第1期:宝永五年(1708)〜 正徳元年(1711)
噴火翌年の宝永五年六月二十二日(1708年8月8日)の台風襲来によって、大口堤・岩流瀬堤ともに決壊したため、大洪水・土砂氾濫が発生しました。このため、足柄平野の酒匂川右岸(西側)地域が主な被災範囲となりました。この時の洪水・氾濫は大口堤が築かれる以前(江戸期より前)の流路を流れ下ったと推定されます。また、この時に決壊した大口堤は間もなく修復されましたが、大口堤を守るべき岩流瀬堤の修復は享保十一年(1726)まで、実施されませんでした(図11参照)。
図3の右上図,井上,2007b)
2003年7月井上撮影
酒匂川流域の被災民を救済しようとした伊奈半左衛門忠順は被災地を何度も見分して、江戸幕府の要職と被災民救済について交渉しました。その結果、数回救助米や砂除資金を得ましたが、酒匂川上流部の被災民を救うには不十分でした。忠順は正徳二年二月(1712年3月)に亡くなったとされています。新田次郎『怒る富士』では被災民を助けるため、駿府代官・能勢権兵衛の管理する米を静岡から船で沼津に送り、被災民に配ったことに関する責任を取って、切腹したことになっています。忠順の死の記録は不自然で、諸説あります。酒匂川上流の御厨地方では忠順を祀っており、静岡県小山町須走の伊奈神社には、伊奈半左衛門忠順像が建立されています(写真1参照)
7.3 第2期:正徳元年(1711)〜 享保十六年(1731)
噴火より4年後の正徳元年七月二十七日(1711年9月9日)の豪雨で、大口堤は洪水の直撃を受けて再び決壊し、今度は酒匂川左岸(東側)の村々に大被害をもたらしました。決壊箇所より下流の酒匂川の流路が、それまでの大量の土砂流出により、河床が上昇したままになっていた影響もあったと判断されます。大口堤による流路の固定がなくなった酒匂川は足柄平野中央部で、出水ごとに流路を次々に変えながら流下し、「新大川」と呼ばれました(瀬戸,1982)。
足柄平野の扇頂部から酒匂川右岸に位置する岡野村(神奈川県開成町)・班目村・千津島村・壗下村・竹松村・和田河原村(以上神奈川県南足柄市)は、洪水氾濫の常襲地帯であり、「大口水下水損六ヶ村」と呼ばれていました。新川の河床になってしまった水損六ヶ村の住民は、平野に近接する西側の高台に避難しながら、幕府に大口堤修復の嘆願書を出しました。しかし、大口堤を締め切る復旧工事はすぐには実施に移されませんでした。また、水損六ヶ村以外の村でも土砂洪水氾濫を余儀なくされました。
この間、被害の少なかった酒匂川の左岸の村々は、酒匂川が旧本流の西側を流れるようになったため、洪水・氾濫の危険性はなくなりましたが、用水路に流下する水の確保できなくなりました。水損六ヶ村など右岸集落の東端を流れていた用水路を拡幅変更して、左岸村々の堰(用水路)へ通水しました。しかし、避難していた右岸の人々が徐々に帰村して、田畑の復旧が進行してくると、再び左岸への通水が不足するようになりました。こうして、用水の確保をめぐって、酒匂川右岸と左岸の村々の対立が激化することになりました。このような状況は、幕府の支配勘定格田中休愚(1662〜1730)によって大口堤と岩流瀬堤が完全に修復される享保十一年(1727)まで続きました。
7.4 第3期:享保十六年(1731)〜享和二年(1802)
土砂洪水防止の要である大口堤・岩流瀬堤は幕府の支配勘定格田中休愚(1662〜1730)、及び代官の蓑笠之助正高(1687〜1771)により、次第に堅固に再構築されました。しかし、享保十六年五月十五日(1731年6月19日)と六月晦日(8月2日)には、支流・川音川と酒匂川との合流点左岸の堤防「三角土手」が決壊し、酒匂川の洪水流は足柄平野の東側を流れるようになりました。このため、新たに左岸流域の村々が洪水・土砂氾濫の被害を受けることになりました。
その後、大口堤は拡幅され、強固な堤防(スーパー堤防)となりました。このため、中国の皇帝の名前を頂いて、文命堤(写真4)と呼ばれるようになりました。
7.5 第4期:享和二年(1802)以降
享和二年六月(1802年7月)の出水では岩流瀬堤は一部決壊しましたが、大口堤周辺では大きな決壊はありませんでした。しかし、下流域の数ヶ所で決壊したため、足柄平野の南部においては、古代(平安時代の酒匂川流路)と推定される位置を洪水流が流下するようになりました。
7.6 足柄平野・金井島村における土砂・洪水氾濫と復興(地点G)
足柄平野北部の大口堤のすぐ下にある金井島村(「向通」一五ヶ村の最上流部)の年貢上納高の記録が残っており、金井島村の土砂・洪水氾濫と復興過程が推定できます(降砂の層厚は1〜2尺)。宝永五年六月二十二日(1708年8月8日)の出水による金井島村の土砂堆積厚は6mにも及びました。しかし、金井島村などの足柄平野北部の村々に対し、江戸幕府は「降砂は空地へ捨てよ。空地のない場合には田畑の隅や屋敷の隅に片付けよ。来年の春までに片づけて耕作に間に合わせよ」と、川には捨てないで耕地を復旧するように命じました。勿論、村内には降下火砕物や氾濫堆積土砂を片付ける未開発地や空地はなく、作業は遅々として進みませんでした。このため、「丸砂の上に水垢をためて」という作業を行ったと言われています。大雨のたびに流れてきて堆積する泥水を降砂の上に流し込んで目詰まりを起こさせ、畦で囲んで区画の中に泥水を引き込み、泥が沈殿すると上澄みの水を排出しました。次の泥水を引き込んで作業を繰り返すことによって、排作土(泥)の厚みを増加させるといった気の遠くなるような作業でした(瀬戸,1982)。
『富士山宝永噴火と土砂災害』(2003),p.30
図12は、大口堤のすぐ下流に位置した金井島村(神奈川県開成町,図4参照)における年貢上納高の推移を整理したものです。金井島村は、宝永噴火前は340石の年貢を納めており、比較的豊かな村でした。しかし、噴火後1尺(30cm)以上の焼砂の堆積と大口堤決壊後の土砂洪水・氾濫堆積によって、さらに土砂が堆積し、農業生産をすることが出来なくなりました。このため、10年間ほどはほとんど年貢を納めることができませんでした。35年を経過した延享二年(1745)でも、年貢米上納高は噴火前の3分の1程度しか回復しておらず、噴火後の土砂・洪水災害の影響が長期化しています。納永(年貢金)とは、畑作などによって得られた作物を換金して納める税金です。噴火から30年後には納永が噴火前の金額に達していますが、単純に畑作が噴火前の状態に戻ったと解釈をすることはできません。水田の復旧が進まず、畑成田(検地帳に登録されている田を畑として再開発)による収穫しか期待できなかった状況を物語っており、その点を加味して理解する必要があります。
8.酒匂川より東部の地域の土砂災害
噴火口から60km以上離れた神奈川県東部地域においても、噴火直後より「川浚い普請(工事)願い」が多くの地域で出されています。これらの訴えには、「宝永の砂」が用排水路などに徐々に流入し、水田耕作などに支障をきたしたということが書かれています。このことから、噴火口から離れるに従って降灰した宝永火砕物が細粒になるため、降雨や強風のたびに用排水路に流入し、目詰まりを起こして困っていました。
8.1 秦野市 菖蒲川(四十八瀬川流域,図1の地点I,図13)
1) 降砂量記録
三廻部・菖蒲・堀斎藤・堀沼城・千村(現秦野市)にて、一尺三、四寸(39〜42cm)
2) 土砂災害状況
『宝永七年(1710)三月菖蒲川工事につき三廻部村他四ヶ村普請願い』(秦野市,1982)によれば、三廻部・菖蒲・堀斎藤・堀沼城・千村(現秦野市)の5ヶ村は、下流で川音川・酒匂川に合流する菖蒲川(金目川上流,8.3項参照)の工事を伊奈半左衛門に願い出ました。谷を埋めた降下火砕物が雨とともに次第に谷川に流れ、まとまって菖蒲川に流入したため川底は浅くなり、小雨でもたちまち溢れ出す状態で、工事の願書には「水が方々へ流れ出し、川筋が決まらない」と書かれています。そして五ヶ村は、「川筋を決めて掘り分ける」ことを願い、それによって5年間で砂埋地を開発し、年貢も上納できると見通しを付けています。
8.2 二宮町 塩海川(葛川)流域(図1の地点K,L,図14)
1) 降砂量記録
中里村(現二宮町)にて、一尺三、四寸(39〜42cm)
『乍恐書付奉願上候御事』(二宮町(1990),記載堆積厚)
2) 土砂災害状況
@宝永五年四月(1708年5〜6月):噴火直後の梅雨による災害(地点K)
塩海川(幅四間(7.3m),深さ六尺(1.8m))は、井之口村から東海道の塩海橋までの間,井之口川,塩海川,宇田川と名前を変えながら海まで流れる長さ二里(8km)の河川です。これらの河川が山谷から流れ出る砂によって、五尺(1.5m)ほど埋まり、河床が高くなったため、その砂の一部が田地にも流入するようになりました。当時、この塩海川には上流から下流まで33箇所の堰があり、八十町歩(80ha)の水田を潤していました。それが,風雨のたびに山合の焼砂が川に押し出したため、用排水路を埋め、一部は田地へ流入しました。そのため、宝永五年五月(1708年6月)に流域の井之口村、五分一村、一色村、中里村、二宮村の五ヶ村が川浚いを願い出ました(二宮町,1990,1994)。
A享保三年九月(1718年9〜10月,地点L)
山谷に積もった砂が、塩海川(葛川)、打越川、不動川、長谷川へ流れ込み、その結果中里村で村全体の57%(七百二石のうち三百九十七石二斗余り)が水腐の被害を受けました(二宮町,1990,1994)。
『富士山宝永 噴火と土砂災害』(2003),p.84
B近年の土砂・洪水災害
令和6年(2024)8月の神奈川県西部の豪雨災害でも、昭和48年度完成の大規模造成地で2箇所の土砂災害が発生するとともに、葛川流域の下流付近で内水氾濫を引き起こしました。葛川中流域の生涯学習センター(ラディアン)から二宮駅東部の東海道線付近までが低くなっており、河口付近では海岸線に平行に水田が広がっています。一方、東海道(現国道1号線)は標高25m程度の沖積段丘と砂丘の高まり上にあります(杉本・相原,2025)。
交通の要所である国道1号線塩海橋やJR東海道線の高架は海岸段丘と砂丘の高まりに立地しています。一方、県道二宮秦野線は葛川に沿っていて、葛川には150mの間に2本の支流(打越川と田代川が流れ込んでいて、二宮消防署や生涯学習センター(ラディアン)が盆地状に地形が低く内水氾濫リスク(短時間の豪雨や河川の水位上昇によって道路や建物への浸水)が高くなっています。
東海道新幹線の北側には昭和48年度(1973)に大規模造成地ができ、降水により表層崩壊が発生するリスクが高まっていました。令和6年(2024)8月の神奈川県西部の豪雨災害では、0字谷の2個所で土砂災害が発生するとともに、葛川河口付近で内水氾濫が発生しました(相原,2025)。河川の氾濫状況は宝永五年災害と類似しています。
8.3 平塚市 金目川(花水川)流域(図1の地点O,図15)
1) 降砂量記録
北金目村(現平塚市)にて、七、八寸(21〜24cm)
(『宝永五年 閏1月 砂降り後金目村柄書上 覚』記載堆積厚)
南原村(現平塚市)にて、1尺(30cm)
『用水堀埋候』(平塚市,1984)記載堆積厚)
2) 土砂災害状況
金目川は、大山西部の秦野市春岳山を源流とし、秦野市河原町にて水無川と合流します。河口附近については花水川と称されています。本川は「暴れ川」の異名を持ち、近世初期から明治初年までの主な洪水被害と普請実施状況によれば、10年に1度の割合で水害(堤防の破堤など)が発生しました。
金目川は宝永三年(1706)に瀬替えをする以前は、入野村中央を東に流れ、鈴川に合流、さらに南流して鈴川と玉川が少し下流で落ち合っていました(現在の合流地点よりかなり北方)。
富士山宝永噴火前の宝永三年(1706)に金目川は瀬替されたため、宝永四年(1707)の噴火によって、鈴川・玉川合流点付近がしばしば滞留し、水湛えの状態となりました。
噴火より1ヶ月後の正月、酒匂川・金目川・葛川などの河口付近を東海道が通過しているため、幕府の命により諸大名による御手伝い普請が実施されました。
金目川の砂浚いは、備前国岡山藩(岡山県)、豊前国小倉藩(福岡県)、肥前国高瀬藩(熊本県)、因幡国新田藩(鳥取県)などによって行われました(『宝永五年金目川等砂浚い大名御手伝い普請書上書』,平塚市,1984)。
しかし、大量の降下火砕物が一回限りの工事ですべて取り除けられるわけではなく、特に田畑は「永荒引」の状態が続きました。さらに降雨の影響で徐々に降下火砕物が諸河川に流入し、下流域に堆積しました。このため、一度砂浚いを行った場所で再度洗う「後浚い」の必要性が生じました。
この後浚いは、宝永六年(1709)七月二十一日に再び幕府より御手伝い大名に命じられました。この時は、金目川下流の花水川・大根川・玉川の各川筋の砂浚いと花水川の瀬替え工事でした。さらに、宝永七年(1710)二月二十六日には、再度3大名に御手伝い普請が命じられました。
このように、3年連続して御手伝い普請が命じられていることから、砂浚い工事がそう簡単には終わらなかったと推察されます。
金目川(含む花水川)・鈴川・玉川の瀬替工事は享保七年(1722)に完成しました(平塚市,1984)。
『富士山宝永 噴火と土砂災害』(2003),p.87
田畑に降り積もった火山灰は片付けられず、そのままにして置かれることも多く(潰地と呼ばれた)、それが雨水とともに河川に流出しました。その結果河床が高くなり、下流の村々は水湛えに悩まされました。特に、南原村地先で金目川に合流する玉川とその下流域では、「田地水腐、特に屋敷へ水湛、住居難成い」状況でした(『南原・府川亀男文書』)。享保三年九月(1718)、金目川満水のため、堤を所々押し切る被害を生じましたが、これを機に、金目川通り山下・徳延・松延・河内・南原の5ヶ村は、幕府に金目川の修復を願い出ました。代官らの見分の後、山下村側(右岸側)へ水除堤500間(900m)、幅25間(45m)の拡幅工事が実施されました。これが、現在の南原村以南、山下村までの金目川筋です。
この玉川帯水で被害を蒙ったのは、入野・長持・豊田本郷・打間木・小嶺・平等寺・宮下の7ヶ村でした。そこで、享保六年(1721)、この7ヶ村より幕府へ水腐解消の願書が提出されました。そして代官による見分が実施され、問題の合流地点より下流の550間(990m)余りを水抜きのための仮川とし、掘割御普請が行われることになりました。
この仮川は、無事水抜きが完了し、かつ金目川の砂浚いが完了した後、元のように田に戻し百姓に返す予定でした。しかし、砂浚い目論見の結果、工事費が金一万両以上と予想以上にかかること、さらに川上にもまだ大量の砂が残っていることが判明しました。このため、玉川・鈴川の落合から花水川まで仮川を掘り拡げ、永川としました。これが玉川新川と呼ばれる川で、享保七年(1722)に御普請工事が施工されました。川の長さは最終的に570間(1026m)、幅13〜18間(23.4〜32.4m)となり、南原村地内の二十九石一斗一升三合がこの掘割工事のための潰地となりました(『南原・府川亀男文書』)。
川敷潰地となった南原村には、幕府より地代金が下付され、用水をこれまでの金目川・玉川・鈴川の落水利用により、金目川本川よりの引水ができるようになりました。
また小嶺村では、大繩橋付近で宝永の砂降り以降水を湛える状況になり、宝永七年から渡し舟2艘を1艘につき1ヶ月2両で貸し出し、舟で通行したようです。
なお、金目川の下流である花水川での普請記録は、大磯町(1996)に詳しく記載されています。
8.4 秦野市 大根川・善波川流域(図1の地点M,図16)
1) 降砂量記録
曽屋村(現秦野市)にて、1尺四,五寸(42〜45cm)
『横野区有文書』(秦野市,1988)
2) 土砂災害状況
大根川は大住郡南・北矢名村(現秦野市)の小川合わせ、真田村に入り、川名を大根川と称し、下流で善波川と合流した後、鈴川へ合流します。
元禄地震(1703)により、大根川の土手が崩れ、その後の富士山宝永噴火の降下火砕物が河床などに堆積したために、氾濫しやすくなりました。そのため、津幡村の水田では排水ができないまま「水腐れ」や「水湛田」という現象が生じました。宝永の砂降りでは四十九町(49ha)が水腐れとなりました。この排水不良は正徳元年(1711)御普請で一度回復しましたが、その後も氾濫普請が繰り返されました。そして、元文五年(1740)の普請でようやく回復しました。
しかし、工事翌年の寛保元年十月(1741.11〜12)にも川普請の願書が出されています。これによると、川上の砂が流下し、深さ四尺余(120cm)埋まり、水引きが悪くなったとして、川普請の願いが出されています。翌年には工事見積りが出されていることから、村の力では対処出来ないほどの被害と推察されます。
真田村と落幡村の村界を流れる大根川は川幅が狭いため、出水のたびごとに堤が押切れ、「損地」が発生していました。宝永噴火前の元禄地震で大根川沿いの堤が決壊し、宝永三年(1706)に川瀬直しの御普請が実施されています。ところが、富士山の宝永噴火のために、大根川にも降砂が流れ込み、河床が押し上げられました。宝永五年(1708)四月に鈴川沿いのうち、鈴川と大根川の砂浚いを行いました。しかし、翌年の六年七月にも砂浚いを行っています。大根川は地形的に下流鈴川付近が湛水場となるため、水腐永荒の被害が多かったようです(秦野市,1988)
『富士山宝永 噴火と土砂災害』(2003),p.89
8.5 藤沢市江の島(図1の地点㉒)
江の島の下之坊地行所の名主・年寄から出された被害訴えでは、降下火砕物のために海底が浅くなり、生活の糧であった漁業がすっかりできなくなりました。特に江の島は沖合漁業よりもえび、あわび、さざえ、のり、わかめなどの海草を取る磯漁を主としていたので、その被害は特にひどかったようです。
図17の左図は、江の島付近の米軍の立体視写真(1947年8月11日撮影)で、ヨットハーバーが出来る前の地形状況を示しています。宝永地震、富士山宝永噴火時も米軍写真のような地形状況のもと、被災したものと考えられます。
このヨットハーバーは神奈川県藤沢市沖の「江の島」の中にあり、昭和39年(1964)年10月に開催された東京オリンピックのヨット競技の会場として使うために、昭和36年(1961)より江の島の北東側海岸にあった岩場を埋め立て昭和39年にヨットハーバーが完成しました。図17の右図は、平成30年(2018)調整の1/2.5万地形図「江の島」図幅で、ヨットハーバーの建設が大きな地形改変となったことがわかります。
米軍 1947年8月11日撮影,元縮尺S=1/39713
相原氏(藤沢市在住)によれば、藤沢では宝永火山灰は8寸〜1尺(24〜30cm)の厚さに積もり、大麦・小麦・えんどう豆などの田畑の被害だけでなく、羽鳥や大庭地区では用水路が灰で埋まりました。火山灰は集められて各地で小山に積み上げられ、そのいくつかは「富士塚」として残されています(長後仙元塚せんげんづか,藤沢市下土棚509-7)(藤沢市教育文化センター,2002)。
また、天保十三年(1842)に日本全土を大飢饉が襲い(天保の大飢饉)、藤沢地域に住む人々も困窮を極めました。そこで、当時厄除対策として流行した「富士信仰」が促され「富士講」が結成されました。
8.6 町田市 野津田村(図1の地点P,図18)
野津田村は鶴見川の上流部に位置します。現在の薬師池にあたる溜井は長さ70間(126m)、幅二十八間(50m)で、村内の水田七町歩(7ha)余りの用水源となっていました。
富士山の宝永噴火とその後の降雨により多量の降下火砕物が河川に流れ込み、河床上昇を引き起こし、それらの土砂が用水溜池に流れ込み、溜池の水量を低下させました。そのため、野津田村と大塚村の名主連名で当時の領主に対し、溜池の浚い人足に扶持米を支給してほしいという訴えを宝永五年七月(1708年8〜9月)に提出しました。しかし、この訴えは取り上げられず却下されました。それでも農民は江戸まで出向き嘆願し続け、宝永五年十二月(1709年1月)、再び堰の普請に関する嘆願書を提出しました。
そして、宝永六年二月(1709年3〜4月)に福王寺溜井(現町田市薬師池)の川浚い普請を野津田村・大塚村とさらに周辺3ヶ村から人足を呼んで行いました。この普請の規模については、見積書が残っていないので明らかではありませんが、大変な人数で行った工事であったと推察されます(町田市史編纂委員会,1974)。
9.むすび
コラム108,109の原稿の執筆しながら、新田次郎(1974):『怒る富士』,芝豪(2001)『宝永・富士山大噴火』,勝俣昇(2007)『砂地獄』を読み直しました。富士山宝永噴火による降砂災害の激しさを再認識しました。最も降砂が厚く(3m以上)堆積した駿河国駿東郡御厨地方(静岡県御殿場市小山町)の59ヶ村は「亡所」とされ、『山野共、一面に深砂で覆われていて、とても復興開発には及び難いので、住民たちは何方へなりとも、勝手次第に離散して渡世せよ』と、被災民は完全に見捨てられました。封建時代(江戸時代)に農民が生活できるような耕作地などありませんでした。
明治時代になると、明治政府は北海道などに被災民を移住させる施策を実施しました(屯田兵を含む)。明治22年(1889)の紀伊半島災害では、奈良県・和歌山県内に激甚な土砂・洪水災害をもたらしました。奈良県十津川村の被災民は北海道に移住し、新十津川村を開村しました(コラム85,86,)。
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コラム85 明治22年(1889)の紀伊半島災害によって奈良県・十津川流域から
北海道・新十津川村に移住した被災民@ -
コラム86 明治22年(1889)の紀伊半島災害によって奈良県・十津川流域から
北海道・新十津川村に移住した被災民A
2〜4年後に和歌山県南部の被災者も北海道に移住しました。
- コラム90 明治22年(1889)紀伊半島災害による和歌山県南部地域の被災者の北海道移住
- コラム91 明治26年(1893)の和歌山県南部の水害と金富農場への移住
河谷部に堆積した焼砂は雨や風によって斜面下部や河床に移動し、酒匂川などの河床を上昇させました。このため、宝永五年六月(1708年8月)の豪雨により酒匂川などの河川は大氾濫しました。その後酒匂川の大口堤などの改修工事は進められましたが、充分な強度がなく、豪雨の度毎に氾濫を繰り返しました。
関東郡代・伊奈半左衛門忠順はこのような中で被災農民の立場に立って、幕府の高官に対して何回も交渉したことが小説に書かれています。代官と云えば、農民を搾取する側のことが多いのですが、関東郡代・伊奈半左衛門忠順は被災農民から慕われたため、静岡県小山町須走の伊奈神社に祀られました。
私はJICA(国際協力機構)の調査団員の要員として数年間フィリピンのピナツボ火山(1991年の20世紀最大の噴火)の災害状況・地形変化を担当し、数10年間のピナツボ火山周辺で起こるラハール(火山泥流)による洪水氾濫と地形変化を観察し続けてきました(コラム50参照)。災害状況や地形変化の形態は異なりますが、富士山宝永噴火後の災害状況・地形変化と比較・検証する価値があります。
神奈川県中央部の二宮町・葛川流域、平塚市・金目川流域については、元神奈川地学会長(現関東学院中学校高等学校地学部コーチ)の相原延光様と元二宮町富士見が丘3丁目自治会長の杉本和子様に現地案内して頂きました。また、相原様から平塚市・金目川流域に関する非常に多くの文献データを頂きました。関連する文献を引用・参考文献追加として最後に入れさせて頂きました。
国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所からは、『富士山宝永噴火と土砂災害』の中の図(新しい地形図に差替えました)を引用許可して頂き、ありがとうございます。
今後予想される富士山噴火に対する検討材料の一つになれば幸いです。
引用・参考文献追加
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相原延光(2021):地形・地質の成り立ちから紐解く災害リスクの知識を学び防災まち歩きに生かす,
平塚防災ひらつか防災まちづくりの会講演発表資料,6p. - 足柄の歴史再発見クラブ(2007):足利歴史新聞 富士山と酒匂川,108p.
- 新井宿駅と地域まちづくり協議会(AGC)(2012):没後300年宝永噴火伊奈半左衛門忠順,35p.
- 大磯町(1996):大磯町史T 資料編 古代・中世・近世(1),770p.
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大脇良夫(2012):禹王の足跡を巡る旅,ミツカン 水の文化センター機関誌『水の文化』,40号
(特集 大禹の治水),p.4-7. -
監修小山真人(2003):富士山宝永噴火と土砂災害,企画・発行 国土交通省中部地方整備局富士砂防
事務所,カラー,37p.,白黒,143p. -
黒柳実里(2014):酒匂川流域における災害履歴と災害文化の継承―南足柄市班目地区を中心に―,
足柄乃文化,41号,p.49-63. -
杉本和子・相原延光(2025):令和6年8月の神奈川県西部の気象災害で気づいたローカルな情報の
蓄積の大切さ,令和7年2月1日NPOCWS勉強会2講演要旨,5p. -
関口康弘(1993):宝永の砂降以後の酒匂川氾濫について―大口水下六か村農民たちの動向を中心に−,
市史研究あしがら,5号,p.37-47. 南足柄市史編集員会 - 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会(2006):1707富士山宝永噴火報告書,190p.
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伴野京治:宝永噴火と北駿河の文書(新田次郎が『怒る富士』執筆時に参考にした)町づくり工房
「しおかぜ」(2024.11.10):しおかぜ,地域コミュニケーション122便,4p. - 平塚市博物館(2007):平塚周辺の地盤と活断層,夏期特別展,49p.
- 平塚市博物館(2008):金目川の博物誌,第100回記念特別展,66p.
- 平塚市博物館(2015):天変地異−平塚周辺の自然災害−,2014年度春期特別展図録,64p.
- 藤沢市教育文化センター(2002):藤沢の自然4,ふじさわの大地―人々の暮らしと自然―,41p.
- 町田市史編纂委員会(1974):町田市史,1524p.
- 南足柄市編集委員会編(1993):市史研究あしがら,5号,p.45
- 森慎一(1993):平塚・平野の地形,ガイドブック13,平塚市博物館,96p.
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森慎一(2009):平塚市金目における金目川の流路変更,平塚市博物館報告「自然と文化」,
32号,p.43-49. -
森慎一・芹澤宣子・家入真理子・佐藤被子・佐藤文信・飯田和好(2014):相模湾岸西湘地域の
微地形分類と完新世地殻変動,平塚市博物館報告「自然と文化」,37号,p.1-13. -
森慎一・野崎篤(2016):相模平野地域における縄文海進期以降の古地理の変遷,平塚市博物館
報告「自然と文化」,39号,p.15-28.
