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令和6年能登半島地震情報

今月の1枚

「今月の1枚」一覧

◆今月の1枚 [2025年10月]

能登町「赤崎海岸」
能登赤崎灯台

能登赤崎灯台
運が良ければ富山方面に立山連峰を望むこともできる

赤茶色の岩礁

奥に見えるのは地震の被害を免れた東屋
手前に広がるのは「赤崎」の由来となった赤褐色のゴツゴツとした岩礁

アメフラシの画像

今年産まれたと思われる小さなアメフラシの子ども
震災を乗り越えた海岸で、着実に命が育まれている

 赤崎海岸は能登半島の北東部にある海岸の一つで、「赤崎」の由来となった赤褐色のゴツゴツとした岩礁が特徴。これは溶結凝灰岩が内浦の穏やかな波に、長い年月をかけて浸食されたことで形成されたもの。

 海岸には昭和41年から、飯田港や松波や鵜飼などの漁港へ出入りする船舶の道しるべとして活躍している能登赤崎灯台があり、徒歩で訪れることができる。灯台からは恋路海岸や見附島を海側から眺めることができ、運が良ければ富山方面に立山連峰を望むこともできる。

 令和6年能登半島地震では幸いにも大きな被害を受けず、駐車場やゆっくりと休みながら海を見渡せる東屋も変わらず健在であることから、付近の住民だけではなく、景色を楽しむ人や釣りをする人が訪れるスポットとなっており、編集部が撮影に訪れた際も、澄んだ海と穏やかに過ごすアメフラシに出会い、心落ち着くひとときを過ごすことができた。


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公開日:2025年10月30日

2025年9月の1枚

珠洲市「見附島の再生」

(2025年8月16日 編集部撮影)

 能登地方を中心に、石川県の各地に甚大な被害をもたらした令和6年能登半島地震から1年8か月が経過した。多くの人々の想いと協力によって、少しずつ復興が進んでいるが、それに負けじと、自然も再生の兆しを見せている。珠洲市宝立町鵜飼に位置する「見附島」(別名「軍艦島」)もその一つ。

 地震動と津波によって島の南東側が大きく崩落してしまい、痛々しく変わり果てた姿は、地元の人々に大きな衝撃を与えたが、更に追い打ちをかけるように、頂上に生い茂っていた樹林からかつての豊かさが失われ、枯れ木が目立つ状態となっていた。

 そんな中、2025年9月に、石川県立大学の能登復興支援研究プロジェクトの研究チームによって、地震後初となる現地調査が行われた。見附島の急斜面を登った先で研究チームが目にしたのは、葉を落としていた常緑樹の幹から出る新しい芽や、崩落した岩の隙間から育つ若い木々など、再生の兆しであった。

 今後5年〜10年程かけて緑が増える可能性が大きいという評価も得られ、能登のシンボルとして再び草木が生い茂る姿が見られる事が期待されている。

 また、2025年8月29日には、一般財団法人ポケモン・ウィズ・ユー財団によるフォトスポットとして「ニンフィア with LOVE」モニュメントが設置され、観光客を迎える新たなシンボルとなっている。復興と自然再生、そして地域の魅力発信が同時に進む中、見附島は再び能登の象徴として輝きを取り戻し始めている。


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公開日:2025年9月11日

2025年8月の1枚

能登町「やなぎだ植物公園」
超大規模ドローンショー

ドローン500台によるドローンショー
写真は、能登の祭りに欠かせないキリコ
(2025年8月16日 編集部撮影)

キャンドルアート

アーティストのキャンドル・ジュンさんによるキャンドルアート
(2025年8月16日 編集部撮影)

ござれ祭り名物・花火大会

ござれ祭り名物・音楽花火大会
(2025年8月16日 編集部撮影)

 能登町上町にある、やなぎだ植物公園で開催される"ござれ祭り"は、合併前の旧柳田村の時代に、各地区の祭りで使用しているキリコを持ち寄り、交流を深めるために始まったとされる。祭りの名称である「ござれ」は能登の方言で「いらっしゃい」を意味している。

 祭りの会場には、色鮮やかなキリコが圧巻の景色を作り出しており、集結した各地区のキリコを一望できる貴重な機会を楽しむことができる。また、能登の地元グルメが味わえる屋台も多数出店しており、野外ステージでは、迫力ある和太鼓の演奏や、スペシャルライブが催され、能登半島地震の復興応援ユニット「PAL」による復興応援ソングなども歌われた。

 祭りの盛り上がりは日が暮れてからも衰えず、闇の中にキリコが幻想的に浮かび上がり、キリコの背後で、音楽とともに盛大な花火が打ち上げられる光と音の供宴は、この祭りならではの特別な体験といえる。今年は、夜のドローンショーも開催され、能登の夜空をより一層美しく彩った。

 令和6年1月1日の能登半島地震によって、昨年のござれ祭りは各地区のキリコ集結を見送っての開催となったが、今年は、一部地区のキリコの展示が叶わなかったものの、9基ものキリコが集結し、会場は1日中、活気と熱気に包まれていた。


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公開日:2025年8月21日

2025年7月の1枚

能登町「あばれ祭」

柱松明の周りを取り囲むキリコ
(2025年7月4日 能登町在住Yさん撮影)

柱松明の火の粉を浴びながら乱舞するキリコ
(2025年7月4日 能登町在住Yさん撮影)

旧能登町役場跡地に整備された
大屋根広場「みなとのニワ」前にキリコが集まる
(2025年7月4日 能登町在住Yさん撮影)

 あばれ祭は、能登町宇出津(うしつ)で毎年7月の第1金曜日と土曜日の2日間に渡って行われる八坂神社の祭礼で、石川県の無形民俗文化財に指定されている。毎年7月〜9月の間に能登半島の各地で開催されるキリコ祭りのトップバッターとして開催され、数あるキリコ祭りの中でも特に荒々しく、豪快な祭りの一つとして知られている。

 地元民に愛されるこの祭りでは、男性も女性もキリコを担ぎ、太鼓を叩く姿が見られる。また、子供達も夜遅くまで祭りに参加し、大人に負けじとキリコを担いで町を練り歩く。その人気ぶりは凄まじく、県外で生活している人も、この時期には仕事を休み、祭りに参加するために帰ってくるほど。

 かつて江戸時代に疫病が流行した際に京都の祇園社から厄除けとして牛頭天王(現代では須佐之男命と同一視される)を勧請し、盛大な祭礼を催した所、疫病が収束したので、人々はキリコを担いでお礼参りをしたことがあばれ祭の起源と言われている。荒々しく勇ましい祭神の須佐之男命を喜ばせるため、人々は火の粉が舞う柱松明の周りをキリコを担いで練り歩いたり、2基の神輿を海や川、炎の中に投げ込むなど豪快に暴れ回る。その激しさは、祭りのフィナーレとして神輿が社殿に戻る頃には、真っ黒に焼け焦げ、屋根にはいくつも穴が開くほど。

 令和6年1月1日の能登半島地震によって、昨年は地区にある5つの町会が参加を見送っていたが、今年は避難していた人が戻ってきたほか、全国から集まった「祭りお助け隊」(ボランティア)の支えもあり、全ての町会が参加。40基全てのキリコが揃い、勇ましく能登のキリコ祭りの先陣を切った。


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公開日:2025年7月10日

2025年6月の1枚

穴水町「ボラ待ちやぐら」

やぐらの上では、漁師を模した人形が終日ボラを見張っている
(2025年4月10日 編集部撮影)

地震の影響で、ぼら待ちやぐらの付近は立入禁止となっていた
(2025年4月10日 編集部撮影)

「ぼら待ち市場」パーキングにある看板
地震の影響でパーキング内のトイレは使えず、仮設トイレが設置されていた
(2025年4月10日 編集部撮影)


 ボラ待ちやぐらは石川県穴水町に点在する漁業用のやぐらで、その名の通りボラ(魚の一種で卵巣は日本三大珍味であるカラスミの原料となる)を捕獲するための伝統的な漁法に用いられる木組みの構造物。この漁法は江戸時代に始まったと伝えられており、海中に網を仕掛け、やぐらの上で終日ボラの群れが来るまでじっと待ち、群れが網を通過するタイミングで引き上げるというもの。

 一見シンプルな漁に思えるが、ボラは音に敏感で警戒心が強く、音や仕掛けに気付くと一気に逃げてしまうため、何時間も静かに海を見張り続け、群れが通過する際には適切なタイミングを見極めて網を引き上げなくてはいけない忍耐の漁法と言える。

 最盛期には40基ものボラ待ちやぐらが存在していたが、担い手やボラの減少に伴い、1996年の秋を最後にこの漁法を行う漁師は居なくなってしまった。しかし、地元の漁師や新崎・志ケ浦地区里海里山推進協議会の働きかけで2013年にこの漁が再開された。

令和6年1月1日の能登半島地震によって、周辺の陸地は亀裂や崩落が発生したものの、ボラ待ちやぐらは耐えきり、町の象徴として人々を勇気付けた。


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公開日:2025年6月19日

2025年5月の1枚

輪島市「GWの白米千枚田」

白米千枚田 度重なる災害にも負けず、田植え作業をする人々
(2025年5月5日 編集部撮影)

白米千枚田
(2025年5月5日 編集部撮影)


 2024年5月の今月の1枚で紹介した輪島市の「白米千枚田」。令和6年能登半島地震によって、1,004枚あった田は甚大な被害を受けてしまったが、懸命な復旧作業によって約120枚で米作りを行えるようになり、同年9月に無事収穫された。
 ところが、直後に発生した豪雨によって、再び被災。土砂の流入や農業用水への被害によって田に引き込む水の確保が困難になるなど、米作りを行う上で、地震を越える被害を受けてしまった。

 一時は「心が折れそう」という悲痛な声も挙がっていたが、元の景観を取り戻すため「白米千枚田愛耕」を中心に再び立ち上がり、復旧作業を再開。クラウドファンディングやボランティアなど、多くの人に支えられながら作業を進め、今年は昨年の倍となる約250枚に田植えを行った。

 また、長らく営業停止を余儀なくされていた道の駅千枚田ポケットパークもようやく水道が復旧し、ゴールデンウィークに合わせて試験的に営業を再開。復旧した千枚田を一目見ようと、連日予想を大きく超える観光客が訪れた。この賑わいを受け、本来は4月26日〜5月6日の期間のみの営業とする予定を変更し、今後も週末や祝日の営業を継続することとなった。

道の駅千枚田ポケットパーク
編集部おすすめは、棚田米おにぎり・フグのからあげ・かかし
(2025年5月5日 編集部撮影) 拡大表示


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公開日:2025年5月22日

2025年4月の1枚

穴水町「能登さくら駅」

「能登さくら駅」と「のと鉄道 POKÉMON with YOU トレイン」
(2025年4月10日 編集部撮影)

「能登さくら駅」(能登鹿島駅)の駅舎
(2025年4月10日 編集部撮影)


 「能登さくら駅」は、石川県鳳珠郡穴水町に位置するのと鉄道七尾線の無人駅である。正式名称は能登鹿島駅なのだが、桜の名所であることから1988年に「能登さくら駅」という愛称を付けられ、親しまれている。

 毎年春になると、プラットフォーム脇に植えられた約100本のソメイヨシノがトンネルのように咲き誇り、絶景となる。また、この時期には駅前に出店が並び、夜にはぼんぼりによるライトアップが行われており、県内外から訪れる多くのお花見客や鉄道ファンで賑わっている。

 2007年に発生した能登半島地震の際には、ほとんど開花しなかった過去を持つが、昨年の震災の際は見事な花を咲かせ、傷付いた方々の心を癒した。今年も見頃を迎え、昨年を超える賑わいを見せている。

 のと鉄道では、一般財団法人ポケモン・ウィズ・ユー財団によるポケモンのラッピング電車「のと鉄道 POKÉMON with YOU トレイン」(ポケモン列車)が、令和6年8月から運行されている。
 この財団は、東日本大震災直後に株式会社ポケモン社員の有志の皆さんの活動から設立され、以来、こどもの災害対策支援活動などを行っている。令和6年能登半島地震でも、多くのこどもたちに笑顔を届ける活動を行っている。


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公開日:2025年4月17日

2025年3月の1枚

珠洲市「須須神社」

須須神社 拝殿
(2025年2月3日 編集部撮影)

須須神社 第一鳥居と灯籠跡
本殿を背にして見える灯籠の台座 正面の海から津波被害も受けた
(2025年2月3日 編集部撮影)


 須須神社は、日本海側一帯の守護神とされ、能登半島最北端の神社である。
約2,100年前に山伏山(標高172m)に創建され、約1,200年前に現在の地に遷座したと言い伝えられており、祀られている祭神の1柱である美穂須須美命が名前の由来となっている。

 国指定の重要文化財である木造男神像や、源義経が奉納したと伝えられている蝉折の笛などが所蔵されており、神域として守られてきた社叢(しゃそう)は国指定の天然記念物となっている。

 令和4年から度重なる地震によって大きな被害を受け、再建を進めていたところに令和6年1月1日の能登半島地震が発災し、壊滅的ともいえる被害を受けた。その後、多くの神社寺院からの義援金や支援、また、神社の再建と奥能登地区の地域づくりを目標に掲げたクラウドファンディングの実施等、多くの方の支持を受けて復興への歩みを進めている。


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公開日:2025年3月13日

2025年2月の1枚

珠洲市「すずなり食堂」と「すずキッチン」

元「のと鉄道」の珠洲駅前の地にオープンした
「すずなり食堂」と「すずキッチン」
(2025年2月3日 編集部撮影)

能登復興の拠点「道の駅 すずなり」と「すずなり食堂」と「すずキッチン」
(2025年2月3日 編集部撮影)

 「すずなり食堂」は、珠洲市にある「道の駅 すずなり」の敷地内に位置する飲食店で、令和6年能登半島地震で被害を受けた珠洲市の飲食店4店舗が2024年9月6日に合同でオープンした。定食からうどんなどの軽食まで幅広く提供しており、中でも能登の新鮮な海の幸がたっぷり使われた海鮮丼の「福幸丼(ふっこうどん)」が人気となっている。

 当初は昼だけの営業だったが現在は夜も営業しており、特に昼間は平日でも駐車場が満車になるほど賑わっている。また、隣接する「すずキッチン」では毎朝5時からお弁当を購入することができる。
震災後、飲食店が少なくなった能登の復興を、食から大きく支える重要なスポットとなっている。

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公開日:2025年2月13日

2024年12月の1枚

能登町「恋路海岸」

恋路海岸「恋路ロマンチックパーク」内 崩落したまま残された岩
(震災後 2024年10月 編集部撮影)

恋路海岸「恋路ロマンチックパーク」駐車場入り口
地震の影響で歩道が通行止めになった
(震災後 2024年10月 編集部撮影)

恋路海岸「恋路ロマンチックパーク」内 「幸せの鐘」
(震災後 2024年10月 編集部撮影)

恋路海岸「悲恋伝説」 助三郎と鍋乃の像
(震災後 2024年10月 編集部撮影)

 恋路海岸は能登半島七尾北湾に位置する海岸。内浦と呼ばれる年間を通して比較的穏やかな海であり、夏には海水浴場が開設される。沖には真っ赤に塗られた鳥居の後方に弁天島があり、引き潮の時には歩いて渡ることが出来る。恋路という名前から恋人達の聖地として人気のスポットとなっており、2人で鳴らすと幸せが訪れると言われる幸せの鐘が設置されている。

 恋路と言うロマンティックな名前からは想像しがたいが、実はこの名前は約700年程前の悲恋伝説に由来するものである。かつてこの地に住んでいた助三郎と鍋乃という2人の若者の仲を妬んだ源次の凶行により、助三郎は海で命を落としてしまい、その悲しみから鍋乃は後を追って身を投げてしまった。それから長い歳月が経ち、この地に1人の旅の老僧がやってきた。誰も気が付かなかったが、この老僧こそがかつて悲劇の原因となった源次その人である。己の過ちを悔いた彼は仏門に入り、2人の霊を弔いながら諸国で修行の日々を送り、故郷に戻ってきたのである。
 源次はその後、観音堂で2人の冥福を祈り続けていましたが、男女の仲を取り持つこともあったので、いつしか観音堂は参詣すると結ばれる名所と言われるようになり、この地は「恋路」と呼ばれるようになったと言い伝えられている。
 浜辺の一隅には今も助三郎と鍋乃の像が立っており、毎年7月の海の日の前日には、伝説にちなんだ大小2基のキリコが海の中を練り廻る恋路火祭りが行われている。

 令和6年1月1日の能登半島地震によって岩場が崩落してしまった。崩落した岩は大小問わずそのまま残されており、地震の激しさを感じることができる。また、残念ながら今年の恋路火祭りは神事のみとなってしまったが、地元の有志による、早期復興を願いキャンドルを灯すイベントが開催された。

 地震の影響でこの地を訪れる人が減っていたが、編集部が撮影に訪れた際、海辺を散歩している方を見る事ができた。少しずつ人流が戻り、幸せの鐘が再び海岸に鳴り響く日はそう遠くないのかもしれない。

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公開日:2024年12月19日

2024年11月の1枚

珠洲市「春日神社」

春日神社本殿
(震災後 2024年11月10日 編集部撮影)

春日神社参道 階段奥に本殿がある
(震災後 2024年11月10日 編集部撮影)

飯田町燈籠山祭り
(震災前 2014年7月20日 編集部撮影)

 春日神社は、珠洲市役所そばの春日山麓に位置する古社。その歴史は古く、平安時代の康治年間に若山荘(能登国珠洲郡にあった能登最大の荘園)が設置された際、荘園の鎮守神として創建された。当初は「若山社」と称され、近郷七ケ村の総社として仰がれており、弘長元年に春日神社の神官である葛原伊勢守秀行が、大和の春日大社の分霊を拝受し、現在の地に合祀した際、「春日神社」と改称された。

 境内には、樹齢700年を越える大樹が生い茂っている他、三十六歌仙に数えられる大伴家持が国守として能登の巡行を行った際に歌った万葉歌碑が残されており、歴史を感じる事ができる。また、春には見事な桜が咲き誇る名所として知られ、夏には能登でも有数の珠洲市で一番大きな祭り「飯田町燈籠山祭り」(神事としては「おすずみ祭り」と呼ばれる)、秋には秋季祭礼が斎行されるなど、地元の方々にも親しまれている。

 令和4年6月19日に発生した地震により、鳥居や灯籠が倒壊し、参道も液状化によって大きな被害を受けてしまった。氏子や出身者からの寄進、クラウドファンディングなどで支援を募り、何とか再建を進めていたものの、令和5年5月5日に発生した地震で、灯籠や参道に再び被害が生じてしまった(この時鳥居は再建前だったので無事だった)。

 度重なる困難に負けず、令和5年7月6日、この年の「飯田町燈籠山祭り」に間に合うよう鳥居が再建され、震災復興の第一歩として大いに喜ばれた。ところが、令和6年1月1日の能登半島地震によって、この復興の象徴となる筈だった鳥居が再度倒壊してしまった。

 発災当初はもう再建はできないと言われ、「飯田町燈籠山祭り」の実施も未定とされていたが、復興を祈願した「おすずみ祭り」と秋季祭礼が規模を縮小して斎行され、地元を盛り上げた。

 残念ながら復興の象徴としての形(鳥居)は再び失われてしまったが、春日神社の存在は変わらず地元の方々の心を支え続けている。

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公開日:2024年11月21日

2024年10月の1枚

輪島市「輪島キリコ会館」

輪島キリコ会館外観
(震災後 2024年10月 編集部撮影)

輪島キリコ会館内 夜の雰囲気を楽しめる
(震災前 2016年7月 編集部撮影)

輪島キリコ会館内 展示されているキリコは迫力満点
(震災前 2016年7月 編集部撮影)

 輪島市マリンタウンに位置する輪島キリコ会館は、日本海に面した施設であり、能登地方の伝統的な祭り「キリコ祭り」を紹介するためのものである。キリコとは、切子灯籠(きりことうろう)の略称であり、巨大な直方体の灯籠を掲げた山車の一種で、その美しい装飾や迫力ある姿は多くの人を魅了する。

 キリコ祭りの歴史は古く、豊穣祈願・疫病退散・航海安全など地域ごとに異なる内容を祈願するために始まり、毎年7〜10月に能登半島の各地で開催されている。2015年には「灯り舞う半島 能登 〜熱狂のキリコ祭り〜」という名称で文化庁から日本遺産の認定を受けている。

 会館内には、実際に使用されるキリコが展示されており、祭囃子のBGMや光の演出が作り出す夜のキリコ祭りの雰囲気を存分に感じることができた。また、キリコ担ぎや太鼓叩きの体験、御陣乗太鼓の実演会などのイベントも開催されていたため、地元の方々と交流できる貴重な場でもあった。

 令和6年1月1日の能登半島地震により被害を受け、現在は休館となっているが、チャリティーイベントや目の前に飲食店が開かれるなど、今も多くの方が訪れている。

 いずれ来る再開の日を待ちながら輪島の復興を静かに見守っている。

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公開日:2024年10月17日

2024年9月の1枚

輪島市「鹿磯」

写真1:鹿磯漁港北側の隆起し新たに形成された陸地
(震災後 2024年5月撮影)

写真2:鹿磯集落高台より八ケ川河口を望む
(震災後 2024年5月撮影)

 輪島市門前町鹿磯は、輪島市市街地より北西に約20km程、旧門前町に位置し、八ケ川(はっかがわ)河口付近の外浦海岸を望む地区。

 令和6年1月1日の能登半島地震により、鹿磯付近の海岸は、高さ約4mの地盤隆起が確認されており、今回の地震による地殻隆起量が最大の地域とされる。

 写真1は、鹿磯漁港北側の地震に伴い隆起・離水した新たな段丘面。海岸線は約150m海側に移動した。新第三系の安山岩質の礫岩および砂岩泥岩互層の縞模様が絶景をなし、新たなビュースポットとなっている。写真2は鹿磯集落の高台より見た八ケ川(はっかがわ)の河口。最大270m程、海岸線が海側に移動し、三角州(砂浜)が拡大した。緑色の草が生えている部分が、震災前の陸地である。

石川県などが、能登半島地震により隆起した海岸などについて、震災遺構として「ジオパーク」申請登録に向けて調整を始めたことが、8月31日に報道各社が伝えている。

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公開日:2024年9月5日

2024年8月の1枚

輪島市「曽々木海岸・窓岩」

写真1:崩落した窓岩
(震災後 2024年4月撮影)

写真2:窓岩ポケットパークより岩倉山北側斜面を望む
(震災後 2024年4月撮影)

写真3:岩倉山中腹 千体地蔵展望台より望む窓岩
(震災前 2010年4月撮影)

 輪島市町野町曽々木(そそぎ)海岸にある景勝地。板状の岩山に直径2m程の窓状の穴が開いた奇岩で、日本海に沈む夕日が岩穴に収まる瞬間の絶景を見ることができる。窓岩の背後に控える岩倉山の中腹まで30分程登れば、「千体地蔵」と呼ばれる流理と柱状節理が造形した流紋岩奇岩がある。その展望台からは窓岩を上空から眺めることもできる(写真3)。

 地質は新第三紀中期中新世の粟蔵層で、岩倉山が噴出源とされる流紋岩の一連の火山活動によって形成された地層が分布する。噴出源に近い岩倉山や窓岩付近では塊状の流紋岩や火山角礫岩が分布している。岩倉山の東方には、水底火砕流堆積物と考えられる流紋岩火砕岩および凝灰質砂岩が広く分布している。

 令和6年1月1日の能登半島地震により、窓岩は上部の岩塊が崩落し、岩穴は姿を消した。(写真1)。流紋岩が分布する岩倉山周辺斜面では、岩盤崩壊による崖くずれが数多く発生し、千体地蔵への遊歩道も立入禁止となっている。(写真2)。周辺の国道249号の海岸線沿いでは、水底火砕流堆積物の分布域において、大規模な地すべりが発生し、現在も数か所で通行止となっている。

 被災前の姿はこちら

公開日:2024年8月1日

2024年7月の1枚

珠洲市「見附島」

(2024年4月 編集部撮影)

 珠洲市宝立町鵜飼に位置する石川県指定の天然記念物及び名勝の無人島。島の形が軍艦に似ていることから「軍艦島」とも呼ばれる。飯田湾に面し、北西-南東方向に160m、北西-南西方向に45m、高さ28mの紡錘形の島。島の目前まで踏み石が並べられており、引き潮の時間帯には島の近くまで徒歩で近づくことができ、海上にそびえ立つ大迫力の奇岩に圧倒される。珠洲市随一の観光名所。

 地質は能登半島北東域に散在する新第三紀中新世後期の砂質泥岩〜泥質砂岩(飯塚層)よりなる。岩相は塊状を呈することが多いが、厚さ1〜数mの層をなしていることもある。

 令和6年1月1日の能登半島地震の地震動と津波により、岩盤の崩落が進み、崖下には岩塊が堆積する。特に写真奥の南東部、船で例えるなら船尾の部位が大きく崩壊した。また、島の目前まで整備されていた踏み石も損壊し、島に近づくことができなくなった。

 被災前の姿はこちら

公開日:2024年7月11日

2024年6月の1枚

輪島市「トトロ岩」

(2024年4月 編集部撮影)

 能登半島の北側は外浦海岸と呼ばれ、青い海と空が広がる絶景のドライブ&ツーリングロードとなっている。剱地権現岩(つるぎじごんげんいわ)は、輪島市門前町大泊地区、国道249号沿いの海岸にそびえ立つ。通称トトロ岩。
岩に荒縄で作った目玉を飾り付けて以来、そのほっこりした容姿から、多くの観光客の立ち寄りスポットとなっている。
地質は新第三紀の安山岩類。

 令和6年1月1日の能登半島地震に伴い、左耳が崩落した。また、震災前に足元に広がる波打ち際も、数十m後退した。能登の復旧・復興が進み、多くの観光客が訪れることを心待ちにしている。

 被災前の姿はこちら

公開日:2024年6月6日

2024年5月の1枚

輪島市「白米千枚田」

写真手前の田んぼで代掻きが進む
 (2024年4月26日 編集部撮影)

 輪島市白米町に位置し、日本海に面した高低差約50mの急斜面に1004枚の棚田が広がる。2011年、世界農業遺産に登録された「能登の里山里海」のシンボル的存在。能登を代表する観光スポットである。年会費を納めればマイ田んぼをもつことができ、作業イベントに参加できる「オーナー制度」を導入し、県内外から多くの会員が参加している。

 奥能登地域の外浦側は、「地すべり」の多発地帯であり、白米千枚田もその典型である。棚田内には集水井等の地すべり対策工が設置されている。

 令和6年1月1日の能登半島地震に伴い、棚田に多数のひび割れが入り、農業用水も土砂や倒木で破壊されるといった被害が生じ、コメ作りをできない状況となった。また、通過する国道249号で大規模崩壊が生じ、輪島市南志見地区(写真奥)との往来が分断された。

 地元南志見地区の有志で結成される「白米千枚田愛耕会」では、棚田修復のためのクラウドファンディングを実施。石川県、輪島市とも連携し、復旧に着手した。令和6年5月11日、被害が小さいか、修復が完了した約120枚での田植えが始まった。

 被災前の姿はこちら

 日本の地形千景プラス

公開日:2024年5月16日

過去情報

「今月の1枚」一覧

1.「令和6年能登半島地震から10日」 [2024.01.11公開]

2.「令和6年能登半島地震から30日」 [2024.02.08公開]

3.「令和6年能登半島地震から70日」 [2024.03.14公開]

4.「令和6年能登半島地震から100日」 [2024.04.11公開]

5.「令和6年能登半島地震から半年」 [2024.07.04公開]

6.「令和6年能登半島地震から300日」 [2024.10.24公開]

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