2024年 11月27日、公益財団法人深田地質研究所において、2024年度「深田賞」授賞式が行われ、西日本高速道路エンジニアリング中国(株)奥園 誠之氏と井上が受賞するという栄誉を受けました。理事長の千木良 雅弘氏より、記念のメダルや賞状などを手渡して頂きました。
この受賞に関しては、50年間継続して調査・研究してきた歴史的大規模土砂災害の成果を認めて頂いたものと思っています。また、10年前の2015年4月からいさぼうネットで開始した「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」というシリーズコラムを閲覧して頂いた皆様のお陰と思っています。2025年1月末現在で98回のコラムを執筆し、総アクセス数は76万0799件(月平均6447件)にも達しました。最近では1日に215件以上のアクセスを頂いています。アクセス数が最も多かった年月は、2021年7月の1万8836件(熱海の土石流災害発生時)です。アクセス数が最も多いコラムは、コラム46「広島市安佐南区・八木地区の災害伝説と大正15年(1926)災害」の3万3900件です。
日本工営では、本社・大阪支店・本社・福岡支店・関東支店・本社と転勤し、地すべり・砂防調査をしながら、大規模土砂災害の調査・研究を行いました。京都大学の小橋澄治先生の指導を受け、平成5年(1993)に「地形発達史からみた大規模土砂移動に関する研究」で博士(農学)の学位を取得しました。
雲仙普賢岳は、寛政三〜四年(1791〜92)に寛政噴火をおこしました。噴火の最末期の寛政四年四月朔日(1792年5月21日)夜、四月朔地震(M6.4)が発生し、島原城下町の西側にそびえる眉山が大規模な山体崩壊を起こしました(片山,1974;井上,1999,2014)。図3.1に示したように、崩壊した岩塊は流れ山を形成して、島原城下町南部と付近の農村を埋め尽くしただけでなく、有明海に突入して大津波を発生させました。このため、島原半島の沿岸や有明海の熊本や天草の沿岸では、多くの住民が崩壊土砂や津波によって、1万5000人に及ぶ犠牲者に達したので、「島原大変肥後迷惑」と呼ばれています(菊地,1980;島原仏教会,1992;白石一郎(1985)『島原大変』)。
島原半島の中央部には雲仙地溝帯があって、東西方向に断層が数本並行して走っています。この地溝帯は現在でも南北に拡大し続け、火山活動や地震活動が活発です。雲仙火山は粘り気の強いデイサイト質の岩石からなり、普賢岳、国見岳、眉山、平成新山(標高1486m)など、多くの溶岩ドームからなります。図3.1に示したように、溶岩ドームは不安定で崩壊しやすく、火砕流(噴火時のみ)や土石流が多く発生し、山麓部には崩壊・流出した土砂によって形成された複合扇状地が広がっています。時には島原大変のような大規模な山体崩壊を起こすため、斜面下部には多くの流れ山地形が分布しています。
眉山は2つの溶岩ドーム(七面山と天狗岳)からなり、南側の天狗岳は1792年に山体崩壊を起こし、東側が大きく抉られています。東側の沖合5kmまで広い範囲に多数の流れ山地形が認められます。図3.1の緑線は、島原大変前の海岸線です。

図3.2 雲仙普賢岳と眉山,噴火位置の推移(太田(1984)をもとに井上(1999)追記
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3.3 絵図からみた地形変化
寛政噴火時の多数の絵図の中で、島原藩が幕府に報告した絵図は眉山の山体崩壊を考える上で重要です。寛永十四年(1637)の島原の乱後、島原半島地域の混乱を平定するため、江戸幕府は三河(愛知県)の譜代大名(松平氏)を島原藩の藩主に任命しました。島原藩は長崎の外国人や外様大名(肥後の細川、薩摩の島津藩)の動向を常に監視し、江戸幕府に報告していました。寛政噴火が始まると、火山噴火の状況や城下町などの被災状況について詳細に幕府に報告しました。特に、五月十八日(7月3日)、九月二十五日(11月9日)は幕府(老中・松平定信)に詳細な記録や絵図などを提出しています(小林ほか,1986)。
図3.3は寛政四年大震図(本光寺常盤歴史資料館蔵)、図3.4は島原大変大地図(肥前島原松原文庫蔵)です。図3.3は新焼溶岩が流下していますが、三月朔地震(4月21日)で発生した市内の地割れは描かれていません。図3.4は地割れが描かれ、4月朔地震(5月21日)で発生した天狗山の山体崩壊と流れ山地形が描かれています。両図では右側の七面山の図柄は全く同じです。図3.4は島原城下の天守閣に登って頂くとわかりますが、天守閣から見た景観(高さ方向は2倍に強調)とほぼ同じです。
これらの絵図をもとに、山体の眉山(天狗山と七面山)の地形変化を比較したのが図3.5です(井上,1999)。右図は国土数値情報(1996年作成の沿岸海域海底地形図1/2.5万「島原」)をもとに、島原城を視点として描いた鳥瞰図です。左図は2枚の絵図を比較して、トライアンドエラーで描いた山体崩壊前の鳥観図です。
図3.5 山体崩壊前後の眉山の鳥観図(井上,1999)。
右図は国土数値情報(1996年作成の沿岸海域海底地形図 1/2.5万「島原」)をもとに、
島原城を視点として描いた眉山で、左図は崩壊前の眉山をトライアンドエラーで描いた。
図3.6の上図は、2枚の鳥瞰図をもとに復元した平面図で、左下図は崩壊前後の断面図、右下図は地形変化土砂量図を示したもので、山体の崩壊土砂量を示します。これらの図をもとに山体崩壊前後の等高線の差分を求めて、地形変化量を測定しました。山地部は山体崩壊で侵食された地域(最大崩壊深360m)、堆積深(最大堆積深40m)は多くの流れ山地形が有明海の5km先まで認められます。山体崩壊前後の等高線の差から山体崩壊土砂量は3.25億m³、陸上部の堆積土砂量は0.41億m³、海中部の堆積土砂量は2.76億m³と推定しました。図3.4では天狗山から流出した土砂は2種類あったことが分かります。
図3.6 島原大変前後の等高線平面図と断面図,地形変化土砂量図(井上,1999;Inoue,2000)
右側が山体崩壊による無数の流れ山地形で、左側の黒い流れはその後に発生した火山泥流(土石流)と考えられます(図3.1も参照)。島原大変時に有明海を航海中であった船員の報告には、天狗山が6分ほど崩れたところで白砂が噴出したと記録されています(小林・鳴海,2002)。
4.天明三年(1783)の浅間山天明噴火と鎌原土石なだれ(コラム18,19,78)
私は33年前からの建設省土木研究所の業務で、浅間山の天明噴火による土砂災害調査を始めました(山田ほか,1993a,b;井上ほか,1994;井上,2004)。それ以降も何度か浅間山の調査を行い,平成21年(2009)に古今書院より、『噴火の土砂洪水災害―天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ―』を発行しました。
4.1 浅間山天明噴火の概要
浅間山(標高2568m)の天明三年(1783)の大噴火は、古文書や絵図に噴火や被害の状況が詳細に記載されています。萩原進先生(1913〜1997)は、浅間山の天明噴火に関する史料を60年間にわたり収集・整理して、『浅間山天明噴火史料集成』(T〜X,1985,1986,1989,1993,1995)を著されました。『史料集成』の各文献の後にはわかりやすい解説がついており、文献の形成過程や前後関係が説明されています。筆者は萩原先生の御自宅(前橋市)を何度も訪ね、史料の内容をお聞きしました(井上,2018)。史料の解釈にあたっては、書かれた日付と作者の居住地付近の記載は信憑性が高いと判断しました。
天明噴火の最後の七月八日(8月5日)に生起した火山現象の解釈や名称は研究者によってまちまちで、混乱したままになっています(井上,2009a)。筆者らは、鎌原観音堂付近の堆積物には本質岩塊が10%以下しかなく(松島,1991)、浅間山北部の火山体を構成していた土砂が大部分を占めていることから、従来言われていた高温の火砕流や二次紛体流・岩屑流(荒牧,1968,1981)ではなく、比較的低温と考えられるため、鎌原土石なだれと呼ぶことにしました(井上ほか,1994;井上,2004,2009a)。
天明三年(1783)の噴火は、四月八日(5月8日)に始まり、連日のように多量の降下軽石(浅間A軽石:Minakami,1942)を噴出し、関東地方に重大な社会混乱を引き起こしました(荒牧,1968,1981)。噴火の最末期の七月七日(8月5日)には鎌原土石なだれと鬼押出し溶岩流が噴出しました(図4.1)。鎌原土石なだれは、浅間山北麓の鎌原村(高台にあった観音堂を除いて)を埋没させた後、吾妻川に流入して、天明泥流となり、吾妻川や利根川沿いに激甚な災害を引き起こしました。
図4.1 天明三年(1783)浅間噴火に伴う堆積物と犠牲者の分布図
(古澤,1997,国土交通省利根川水系砂防事務所,2004をもとに作成;井上,2004,2009a)
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これらの一連の土砂移動現象は、100km以上も下流まで流下しており、浅間山で発生した他の噴火現象とは異なっています。天明泥流は吾妻川・利根川を流下し、利根川河口(銚子)と江戸川河口まで達しました。
図4.1は天明三年浅間山噴火に伴う堆積物と災害の分布を示したものです。円で示した死者・行方不明者数は、群馬県立歴史博物館(1995)の第52回企画展『天明の浅間焼け』で、古澤勝幸学芸員(1997)が取りまとめた1523人という数値を当時の村毎(現在のほぼ大字毎)に分布図としたものです。この死者数は気象庁(1991,2005)の1151人よりかなり多くなっています。
4.2 鎌原土石なだれの分布状態
鎌原土石なだれは、最後に噴出した鬼押出し溶岩流に覆われ、上流部の分布状況は良く分かりません。鬼押出し溶岩流が広く分布する長野町立浅間火山博物館の鬼押出し遊歩道付近には直径700mの半円形凹地が存在します。なお、火山博物館は令和2年(2020)8月に閉館しました。長野原町営浅間園 浅間山北麓ビジターセンターが令和3年(2021)4月9日にリニューアルオープンしており、鬼押出し遊歩道も散策可能です。
図4.1に示したように、鎌原土石なだれは浅間山中腹から下流30度の扇形の範囲にしか分布しません。このような分布は山頂噴火では考えにくく、凹地からの噴出を想定させます。土石なだれの中には高温のマグマが冷えて固まった巨大な本質岩塊(史料では火石・浅間石と呼ばれている)が数多く存在します。
昭和53年(1978)から行われた鎌原観音堂などの発掘調査(嬬恋村教育委員会,1981)によれば、鎌原観音堂下の石段は地上部分が15段(2.5m)、その下に35段(5.9m)の埋没石段があり、土石なだれの堆積物で覆われていました。埋没石段の一番下から2人の女性の遺体が見つかりました。2人の遺体は原型をとどめており、この地点に到達した土石なだれは台地状の尾根部を回り込んで、流速がほぼ0m/秒だったと思われます。鎌原観音堂を襲った土石なだれが雲仙普賢岳(1991)のような高温の火砕流だったとしたら、遺体は残らず、観音堂に集まって祈祷していた住民も全員死亡していたでしょう。
観音堂のすぐ北側にある延命寺の発掘調査(嬬恋村教育委員会,1984)を見学させて頂きました(写真4.2)が、延命寺の建屋の木材や生活用品はほとんど炭化していませんでした。堆積物の中には高温だった本質岩塊(浅間石)はあまり存在していませんでした。
写真4.1 鎌原観音堂埋没石段の下から 発見された白骨(荒牧先生提供)
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写真4.2 延命寺発掘調査断面(北面) 延命寺の建材などは炭化していない (1990年10月井上撮影)
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鎌原土石なだれの分布範囲(18.1km²)の東側には、巨大な本質岩塊(高温のマグマが噴出したもの)が点在します。高温の溶岩は磁性がばらついていますが、流下して停止した時点で次第に温度が下がると、その地点の磁北方向に磁性がそろって固定されます。流されてきた岩塊の磁性を測定(山田ほか,1993a,b;井上2009a)することによって,高温の状態で流れされてきたか否かが分かります。古地磁気の測定結果によれば、吾妻川を流下して、山頂から70km離れた利根川の合流点付近までキュリー温度以上の高温状態で流下・堆積したことがわかりました(山田ほか,1993a;井上,2009a)。
浅間山北麓の鎌原土石なだれの分布範囲には、長径5m以上の本質岩塊が194万m³も点在しました。天明泥流となって流下した分を含めると、720〜1060万m³の本質岩塊が地下から噴出しました。鎌原土石なだれ堆積物は、浅間山北麓に平均層厚2.2m、総堆積4700万m³、天明泥流になって流下した分を含めると1億m³以上となります。
4.3 鎌原土石なだれの噴出場所
図4.2は、萩原進先生のご自宅にお邪魔してお話を聞いている時に頂いた絵図で、美濃部明夫氏所蔵の『浅間山嶺吾妻川村々絵図』を萩原先生が模写したものです。浅間山の噴火絵図ですが、中腹に柳井と書かれた青色の沼が描かれています。この沼は現存しておらず、鬼押出しの溶岩流の流下によって埋没して消滅したと考えられます。
『鎌原村復興絵図』(嬬恋村佐藤次熙氏所蔵,嬬恋郷土資料館蔵)によれば、天明噴火前の浅間山北麓の半円形凹地付近には、柳井沼と呼ばれる湖沼があって、周辺にはかつら井戸・用水などと呼ばれる遊水地や沼地が存在しました。現在でも鬼押出しの末端部には、湧水が多く湿地状となっています。また、鎌原付近の地質調査では、ボーリング調査だけでなく、堆積状況についてテストピットを掘って調査しました(荒牧,1981:山田ほか,1993a;井上ほか,1994;安井・荒牧,2007)。
図4.2 浅間山嶺吾妻川村々絵図(美濃部明夫氏所蔵,萩原進氏模写),(井上,2009)
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図4.3に示したように、浅間山の旧浅間火山博物館の付近は鬼押出し溶岩で覆われていますが、直径700mの半円形の凹地が存在します。このため、山田ほか(1993a)では、凹地の中心付近で調査ボーリング(深さ72.8m,掘進直後の水位30m)を実施しました。図4.4は浅間北麓の地質推定断面図です。この地点では地表から64.8mもの厚さで鬼押出し溶岩が存在しました。この溶岩を取り除くと、深い凹地となるので、噴火前に存在した柳井沼はこの付近にあったと判断されます。
上野国碓井郡上人村・彦兵衛『浅間山焼大変記』(萩原,1989,V,p.269)は、「仰信州浅間が嶽は、持統天皇九年(695)四月上旬、役行者(役小角)始めて当山を開き給ふ。時に役行者山より四方を臨み見給ふに東北の方に柳の葉に似たる井有即ち柳の井と号給ふ。この所に黒蛇住て毒気吐行者怪しみ仏天へ祈誓し利剣を以て是を退治す。夫より山峰へ登り厳を平かにし草堂を経営日夜勤行給ふ事日久し。時に百獣百鬼競て行者の大徳に随喜しける。」と記しています。
上野国那波郡上今村・須田久左衛門『浅間山大変実記』(同V,p.61)は、「信州浅間が嶽は持統天皇九年丙申(695)役行者此山に登り給ふ。東北の山中柳の井有り是に毒蛇水を吐く、是毒水なり」と記しています。695年は、追分火砕流が噴出した天仁元年(1108)よりもかなり古く、その頃から柳井沼は存在したことになります。追分火砕流は浅間山頂から北方向にも流下していますが、北北東方向と北北西方向に分かれて流下しています。
柳井沼と浅間山山頂の間には、南側の石尊山のような小尾根があって、柳井沼のある凹地には追分火砕流は到達しなかったようです。天明噴火による鬼押出し溶岩流によって小尾根も覆われて、見えなくなっているようです。
大武山義珍の『浅間焼出大変記』(萩原,1986,U,p.231)によれば,「浅間山麓に昔は鬼神堂有。慶長元年申年(1596)焼失スと云ふ。其頃此堂に奥州米沢の人と甲州府中の茂左衛門と云ふ者此山にのぼり、大雨しきりに吹来り。是非なく此堂に一夜あかせり。四月九日(5月9日)の事なりしかが、其夜四ツ時(22時頃)女の姿見へてかの堂に入らんとするを赤鬼黒鬼出ておもてへ引出し、松の木へしめくくり、寄て火を付、其形すみの如くにして又右之形にせり。」と記されています。この堂付近を通って浅間山に登った者もありました。「柳井沼の一丁(100m)ほど東に女人堂有。貞享年中(1684〜87)に武州江戸神田之者三人にて此堂に休み、しきりに黒雲大風吹来て東西を失ひたり。まもなく雲去りて見れば三人之者壱人残り弐人は行方不知、無是非麓迄下り見れば右弐人は引きさかれてありしと云ふ。」と記されています。
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図4.4 浅間山北麓の地質推定断面図
図4.3 浅間山北麓の地形分類と●ボーリング地点, ―――― 断面位置 (井上,2004,2009)
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鎌原土石なだれ発生の1〜2週間前から、柳井沼付近では泥の吹き出しがあったようです。噴火直後に江戸幕府は、幕府勘定吟味役の根岸九郎左衛門(1735〜1815)に被害調査を命じました。根岸は噴火から50日後の八月二十八日(9月24日)に江戸を発って、詳細な現地調査を行いました。根岸は被害村の庄屋などから聞き込みを行い、村毎の被害記録をまとめ、『浅間山焼に付見聞覚書』(萩原,1986;U,p.332-348.)を幕府に報告しています。「多くの農民から聴取したが、山頂の御鉢から涌きこぼれたという者や中腹から吹き破れたという者がいて、どちらか断定できなかった。」と書いています。
以上の史料や絵図などをもとに、井上や小菅は鎌原土石なだれについて、色々な提案をしました(山田ほか,1993a;井上ほか,1994;井上,2004,2009a,小菅・井上,2007;小菅,2017)。小菅は、
天明三年を語り継ぐ会編(2024)『天明三年浅間山大噴火を語り継ぐ』で、「柳井沼地すべり/水蒸気爆発、そして鎌原不飽和土塊/天明泥流」,(p.178-187.)と最新の考えを提示しています。
私たちの考えを押し付ける積りはありませんが、多くの史料や絵図を見て、皆さまの考えを整理されることをお勧め致します。
5.宝永四年(1707)の宝永地震による土砂災害
5.1 海溝型大規模地震による土砂災害事例調査
平成23年(2011)3月11日14時46分に東北地方太平洋沖地震が発生しました。気象庁(2011年3月)によると、地震の規模はモーメントマグニチュードMw=9.0で、国内観測史上最大規模でした。宮城県栗原市で最大震度7が観測されました。
この地震による災害は総称して「東日本大震災」と呼ばれています。本震とそれに伴う大津波、その後の余震は東日本一帯に甚大な被害をもたらしました。人的被害(2024年3月1日現在,消防庁災害対策本部,2022.3.8,第164報)は、死者19,775人、行方不明者2,550人、負傷者6,242人にも達しました。東日本大震災は、第二次世界大戦後最悪の自然災害となりました。また、国際原子力事象評価尺度で最も深刻なレベル7と評価された福島第一原発事故も発生しました。
砂防学会では、平成23年(2011)4月14日に鈴木雅一会長が、「東日本大震災に対する砂防学会の対応について」と題する声明を出し、「東北地方太平洋沖地震災害調査委員会」を立ち上げました。委員長は鈴木雅一・砂防学会会長(当時)が務め、短期の緊急調査に加えて、その後の詳細な検討や今後の海溝型巨大地震に備えての提言までを視野に入れ、委員会の設置期間を平成 23〜24年度の2年間としました。
平成 23 年5月19日の理事会で委員会の設置が承認され、その後学会誌上で委員の公募が行われました。委員会事務局からの依頼による委員と公募による委員を合わせて、最終的に委員は40名となりました。委員会は調査・検討内容により、5つの班で構成されており、40名の委員はいずれかの班(複数の班所属の方もいる)で活動しました(コラム79)。
>コラム79 海溝型地震による土砂災害の事例分析
私は第1班の班長として、過去の地震災害のレビューを行いました。第1班では、過去の大規模な海溝型地震において、どのような土砂災害が発生したのかを整理しました。例えば、震央から崩壊発生位置までの距離、地震動の規模と崩壊の相関などが確認できる図表を整理することができれば、今後の東海・東南海・南海地震で懸念される土砂災害の影響を予測する上での基礎的な資料となりうると考えました。調査結果の中で最も被害の大きかった宝永四年十月四日(1707年10月28日)に発生した宝永南海・東南海地震の事例の一部を紹介します。
図5.1は、四国山地での大規模土砂災害事例(四国山地砂防事務所,2004に追記)の分布図です。赤●は地震災害、緑●は天然ダム災害、茶●は地すべり災害、黒●は降雨災害によるものです。
四国地方は平地が少なく、大部分が急峻な山地となっています。四国山地の中央部は標高1000〜2000mの山地部からなります。四国の地質構造は、中央構造線や御荷鉾構造線などが東北東−西南西方向に走り、帯状構造をしています。中央構造線より北側を西南日本内帯、南側を外帯と呼びます。内帯には領家帯(白亜紀花崗岩類)と和泉帯が分布し、外帯には北から順に三波川帯、秩父帯、四万十帯が分布します。このため、四国地方の地質は非常に複雑かつ脆弱です。このような地形・地質特性に加え、梅雨期や台風襲来に伴う集中豪雨を受けやすく、土砂災害の発生しやすい地域です。また、百数十年間隔で発生するプレート境界地震(海溝型巨大地震)に起因した土砂災害も多く発生しています。
5.2 宝永南海・東南海地震による土砂災害
宝永四年十月四日(1707年10月28日)に発生した宝永南海・東南海地震は、平成23年(2011)の東北地方太平洋沖地震と同様、日本列島周辺では最大規模の地震で、震動の範囲は北海道を除く日本全国におよびました。
図5.1 四国山地での大規模土砂災害事例(国土交通省四国地方整備局
四国山地砂防事務所,2004に追記)(委員会第1班報告書,2013)
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震源は遠州灘と紀伊半島沖で、東南海と南海の2つの地震(いずれもM8.4程度)がほぼ同時に発生しました(飯田,1979;
宇佐美,2003)。海溝型巨大地震による土砂災害については、コラム12,13,14,26,79で説明しました。
5.3 宝永南海地震による仁淀川中流・舞ヶ鼻の天然ダム
高知県立図書館(2005)の『谷陵記』(奥宮正明記)によれば、「宝永四丁亥年十月四日未之上刻(1707年10月28日14時頃)、大地震起り、山穿て水を漲し、川を埋りて丘となる。國中の官舎民屋悉く転轉倒す。迯んとすれども眩て壓に打たれ、或は頓絶の者多し。又は幽岑寒谷の民は巌石の為に死傷するもの若干也・・・」と、天然ダムが形成されたことが記されていますが、具体的な場所はわかりませんでした。
四国山地砂防ボランティア協会は、平成20年度土砂災害防止講習会が平成20年(2008)6月30日に高知県長岡郡本山町のプラチナセンターで開催しました。井上(2008)は「大規模地震と土砂災害」と題して講演しました。講演終了後、高知県高岡郡越知町の山本武美様から、宝永南海地震によって越知町鎌井田の舞ヶ鼻地先において、仁淀川に天然ダムが形成されたという石碑と史料があると紹介して頂きました。
このため、山本武美様に現地案内して頂き、10月3日と12月2日に現地調査を行いました。現地調査前に越知町の吉岡珍正町長に挨拶に行き、町長から関連資料を頂くとともに、町長と一緒に現地に残る貴重な石碑を調査しました(井上・桜井,2009)。
越知町(1984)の『越知町史』巻末の年表によれば、1707年の項に「大地震で舞ヶ鼻崩落し、仁淀川を堰き止め洪水を起こす」と記されています。越知町柴尾の長老・山本佐久實氏は、「4日間湛水し、満水となって決壊し、仁淀川下流のいの町に被害をもたらした」と話されました。写真5.1は天然ダムを形成したと考えられる崩壊地の跡地形です。崩壊発生から300年以上経っているため、植生が繁茂して崩壊地形は分かりにくくなっていますが、崩壊地形の概要はわかります。
写真5.2に示したように仁淀川の対岸には角礫状の巨礫が多く分布する台地状の地形(河岸段丘の礫層ではない)が存在し、河道閉塞地点であることがわかりました。この付近は仁淀川の中流に位置しており、河岸段丘が多く存在し、円礫を含む砂礫層が堆積しています。上記のような角礫状の巨石は対岸の崩壊地から流出堆積したものと考えられます。
図5.2 仁淀川の越智町の天然ダムの河道閉鎖地点と湛水範囲,石碑の位置
(井上・桜井,2009)
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平成10年(2008)12月2日に山本氏の案内で、仁淀川を舟で対岸に渡り、現地調査を行いました。対岸はイノシシの棲家で、多くの足跡がありました。同行した元高知県砂防課の斎藤楠一課長は、「少し下流の鎌井田出身で、子供の頃仁淀川でよく遊んでいた。その当時、対岸の台地はもっと高く、多くの岩塊が存在していた。このため、仁淀川の河積断面が不足し、上流の越知盆地はしばしば氾濫する一要因になっていた。昭和21〜22年(1946〜47)に地域の人達は多くの岩塊を撤去し、河積断面を拡幅する工事を行った」と言われました。
5.4 天然ダムの湛水範囲を示す石碑
図5.2は、天然ダムの河道閉塞地点(舞ヶ鼻)と湛水範囲と石碑の位置を示したものです。河道閉塞を起こした地すべり性崩壊地の面積と岩塊量を求めると、面積12.5万m²、移動岩塊量442万m³、河道閉塞岩塊量240万m³程度となります。
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写真5.1 天然ダムを形成した仁淀川左岸 の崩壊地形(鎌井田の林道から望む) (2008年10月井上撮影)
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写真5.2 巨大な硬質角礫が密集する対岸の台地 (2008年12月井上撮影)
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1/2.5万地形図をもとに計測すると、天然ダムは湛水面積(S)480万m²、水深(H)18m(最高水位61m−河床標高43m)でしたので、湛水量は2880万m³(=1/3×S×H)となりました。決壊までの時間が4日(96時間=35万秒)ですので、天然ダム形成・決壊時の仁淀川の平均流入量は83.3m³/sと推定しました。
越知盆地には、この天然ダムの湛水標高61mとほぼ同じ地点の5か所に宝永の天然ダムのことを記録した石碑が現存しています(図5.2)。屋外に置いてある石碑の文字はほとんど読めませんが、女川の石碑のみ阿弥陀堂の中にあり、「南無大師扁照金剛 宝永七 尾名川村 惣中」と読むことができました。これらの石碑は宝永四年の地震から3年後に建立されたことがわかります。残念ながら、今成の石碑は見つかっていません。
写真5.3は洗浄されて読みやすくなった柴尾の石碑で、柴尾在住の山本佐久實様に解読して頂きました。左は砂防フロンティアの木村基金で設置された説明看板です。
写真5.3 洗浄されて読みやすくなった柴尾の石碑(説明される山本佐久實氏)
左は砂防フロンティアの木村基金で設置された説明看板
図5.2に示したように、越知盆地の出口では仁淀川と支流の柳瀬川の洪水流が合流して狭窄部に流入するため、何度も激甚な洪水災害を受けてきました。特に、平成16年(2004)の台風23号(氾濫水位標高60.83m)と平成17年(2005)の台風14号(同標高61.10m)によって、激甚な洪水氾濫被害を受けました。このため、高知県中央西土木事務所では、柳瀬川の氾濫区域の電信柱数十本に、柳瀬川の増水注意(写真5.4,5.5)の看板を標高61.0mの高さに設置し、洪水氾濫に対する注意喚起を行っています。
宝永南海地震で形成された天然ダムの湛水標高は61mで、上記の洪水氾濫水位とほぼ同じです。図5.2に示したように、現在の越知町の集落は湖の湛水標高より上部の河成段丘上に大部分が位置しています。地元では、「石碑より下に家を建てるな」という言い伝えが残っており、標高61mより低い地域は現在でも人家がなく、大部分が水田となっています。吉岡町長はこれらの石碑を見ながら、「平成16年(2004)、17年(2005)の柳瀬川の洪水氾濫では、激甚な被害を受けましたが、300年前の天然ダムの湛水標高がほぼ同じ標高61mであることに驚いた。湛水位を示す石碑を大切に保存して、言い伝えを含めて『貴重な防災教訓』として、越知町民に伝えて行きたい」と話されました。
写真5.4 越智盆地の電信柱の洪水水位標識 写真5.5 洪水水位標識(標高61m)
(2008年10月,井上撮影)
5.5 白鳳地震(684)による仁淀川左岸の崩壊と天然ダム
図5.3に示したように、「舞ヶ鼻」よりも1km上流の横畠東には大規模な地すべり地形が存在し、白鳳地震(684)によって大規模な地すべりが発生し、仁淀川を堰き止めて天然ダムが形成された」という伝承が残されています。
このため、平成23年(2011)10月に高知大学の横山俊治先生や山本氏などと一緒に現地調査を行いました。横山先生は、深田地質研究所ニュースの191号(2024年9月発行)に連載「四国山地は尾根から裂ける22 チャート巨石の崩落による河道閉塞」(p.13-22)と題して、説明されています。
図5.4に示したように、横畠東の滑落崖付近にはジュラ紀のチャートの巨礫が集中して分布しますが、チャートの連続した地層は存在しません。滑落崖直下にはチャートのブロックが点在し、地すべり移動体中にも点在します。地すべり移動体は「砂岩>泥質岩」となっていました。チャート礫は滑落崖に露出していたチャートブロックの崩壊で発生したものと考えられます。
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図5.3 白鳳地震による仁淀川左岸・横畠東地区 の湛水範囲 < 拡大表示>
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図5.4 横畠東の大規模土砂移動 赤点はチャートの転石 < 拡大表示>
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(委員会第1班報告書,2013)
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仁淀川対岸の宮地地区には、チャートの巨礫を含む堆積物が存在します。この地域の基岩は物部川層群からなり、チャート巨礫は異地性であり、対岸の横畠東のチャート巨礫と同サイズです。したがって、横畠東から大規模で急激な地すべり変動によって、仁淀川を河道閉塞し、滑落崖の幅とほぼ同じ範囲に堆積したと判断しました(写真5.6,5.7)。現在は仁淀川の河床にチャート礫は1か所しか存在しませんが(人為的に撤去?)、決壊時に流出したか、河床に埋まっている可能性があります。
写真5.6 横畠東の地すべり地形 写真5.7 横畠東の対岸にある大転石
(2008年10月,井上撮影)
仁淀川の堰止高の推定は困難ですが、宮地では標高80mまでチャートの巨礫(写真5.7)が点在するので、湛水標高70m程度の天然ダムが形成されたと判断しました。これ以上水位が上がると、柳瀬川上流の佐川で日下川方向(太平洋側)に湖水は溢れてしまいます。
標高70m(湛水高25m)と仮定すると、湛水面積710万m²、湛水量5900万m³となります。舞ヶ鼻の天然ダムの湛水標高は61m(湛水高18m)であるので、さらに湛水範囲は大きく、越知町の市街地も大部分が水没してしまうことになります。
この天然ダムは何時頃形成されたのでしょうか。
宮地字宮ノ奥にある小村神社は、「祭神は國常立尊で、神亀元年甲子九月十五日(724年10月6日)勘請し、當村の総鎮守とする・・・神様は洪水により杉ノ端に漂着したので、日下の神主鈴木忠重が小村神社として勘請した」と記されています。724年に建立された神社は集落よりも仁淀川寄りにありました。時期は不明ですが、現在地に移設されと言われています。したがって、小村神社は白鳳地震(684)後の神亀元年(724)頃に建立されたと考えらます。
白鳳地震は、静岡大学防災センター(2020.3.31最終更新):古代・中世地震史料データベース,白鳳地震(事象番号06841129)[日本書紀]の口語訳によれば、「天武十三年十月十四日(684年11月26日夜)に大地震があり、国を挙げて人々が叫び逃げ惑った。山が崩れて河が涌き、諸国の官舎・一般倉屋、寺社の破壊したものは数知れず、人畜が多数死傷した。伊予の道後温泉が出なくなり、土佐の田地50余万頃(約12km²)が海水に没した(地震に伴う地殻の沈降か)。」と記されています。
四国で白鳳地震時に大きな地変があったことから、横畠東の地すべりと天然ダムの形成は白鳳地震(684)時に発生したと想定されます。
6.受賞講演で説明した他の事例
3、4、5項で3事例について説明しましたが、他の事例については、いさぼうネットのコラム番号と
タイトルのみを紹介しますので、時間のある時にこれらのコラムをご覧下さい。
八ヶ岳の大月川岩屑なだれと天然ダム
寛文二年(1662)の日光大災害
紀伊半島の歴史的大規模土砂災害
紀伊半島の明治22年(1889)災害の被災民の3回の北海道移住については、受賞講演や祝賀会でも奈良県十津川村から北海道新十津川村への集団移住しか知らなかったというご意見が多くありました。和歌山県から北海道への集団移住については、上記のコラムをご覧下さい。
大分県大山町(現日田市)の山際地すべり
1991年のピナツボ火山の巨大噴火後25年間の地形変化
広島湾周辺の土砂災害
私が調査・研究を続けてきた「関東大震災(1923)と土砂災害」については、受賞講演では時間の関係から説明しませんでした。関心のある方は拙著(2013)『関東大震災(1923)と土砂災害』と関連するコラムをご覧下さい。
7.歴史的大規模土砂災害の調査・研究で伝えたいこと
以上私が50年間に渡って調査・研究してきた歴史的大規模土砂災害について、話をしてきました。これらの調査・研究で皆様に伝えたいことを少し説明したいと思います。私は、古文書・慰霊碑を直接読むことはできませんので、活字化された市町村史や文献を読んでいます。古文書・絵図から得られた土砂移動・災害状況を旧版地形図などに転記して、空中写真判読によって、地形変化の状況を分析してきました。
江戸時代以前の史料には現在のような災害報告はありません。
史料には上位下達文書(幕府→大名→代官→庄屋→被災民)と嘆願書(被災民→庄屋→代官→大名→幕府)があります。上位下達文書は災害があっても年貢などをできるだけ多く取りたいので、被災状況をなるべく小さく表現しようとします。嘆願書は救済や年貢の減免願いが目的ですから、被災状況を誇大に記す傾向があります。江戸時代の封建体制による管理体制の中で、見つかった文書がどの立場でどこに提出した文書であったのか、最初に確認する必要があります。大名が親藩・譜代・外様だったのかも重要です。親藩・譜代大名は、被災状況をできるだけ詳しく江戸幕府に報告して、幕府から援助を得ようとします(3項で説明した島原大変肥後迷惑の島原藩)。逆に、外様大名は被害状況をなるべく軽く報告、または被害の発生そのものを幕府に報告しないことがあります(細川藩や島津藩)。
また、災害はその時代の経済・社会体制を反映して発生します。戦国時代のように混乱した社会体制では、災害記録自体が書かれず、書かれたとしても戦災にあって、文書が焼失してしまったことも多くあります。江戸時代の前半までは、文字の読書きができる階層は、公家・武士・僧侶・商人などに限られていました。江戸時代も中期以降になると、寺子屋教育が進み、文字の読書きができる階層が一般農民や町民まで拡大し、非常に多くの古文書(嘆願書)が残されるようになりました。しかし、当時の交通・通信事情から考えて、これらの史料が土砂移動現象・被災状況を正確に記載しているとは限りません(科学的知識・思考も不十分でした)。
4項で述べた浅間山天明噴火(コラム18,19)では、萩原進先生の御自宅(前橋市)に何度もお伺いして指導を受け、『浅間山天明噴火史料集成』T〜X(1985−96)をもとに、鎌原土石なだれ・天明泥流の発生・流下・堆積、被害状況などを、地形図にプロットして整理しました(井上ほか,1994;井上,2009a)。江戸時代の後期であるため、非常に多くの史料・絵図が残されています。上記の発生・流下・堆積と被害状況の記載はかなり多いのですが、目撃者の多くは鎌原土石なだれ・天明泥流によって、押し流され埋もれてしまったため、その目撃談を残すことはできませんでした。助かった目撃者でも、鎌原土石なだれ・天明泥流の流下現象を正確に記述することは困難でした。古文書に残された目撃談の多くは、伝聞情報やいくつかの事実をもとにした後世の創作の産物で、あまり信用できないものが多くあります。
鎌原土石なだれは浅間山を高速で流下し、吾妻川の急斜面から吾妻川になだれ落ちました。そして、天明泥流となって吾妻川から利根川を流下し、銚子で太平洋に達しました。一部は千葉県関宿から江戸川に流入し、江戸まで達しました。史料の解釈にあたっては、災害直後に書かれたもの(日記など)や作者が住んでいた地域の情報は信憑性が高いと判断しました。
群馬県埋蔵文化財調査事業団(1995〜2003)などは、群馬県一円、特に八ツ場ダム湛水予定地域の発掘調査を行い、天明噴火による降下火砕物と天明泥流の流下・堆積状況と被災状況を明らかにしました。
八ツ場ダムの湖畔に令和3年(2021)4月3日に「長野原町 やんば天明泥流ミュージアム」が開館し、発掘調査結果がわかりやすく展示されています。天明泥流ミュージアムに行かれることをお勧めします(コラム78)。
古文書を読むにあたっては、方位や時刻表現になれておく必要があります。表7.1は、江戸時代と現在の時刻表示との一般的な対比を示しています。尺貫法の単位とメートル法の換算についても把握しておく必要があります。
表7.1 江戸時代と現在の時刻表示との一般的な対比(井上,2009)
和暦と西暦の年月日を識別するため、旧暦(太陰暦)の年月日は漢数字で示し、その次に西暦を括弧(アラビア数字)で示しています。和暦・西暦の変換は「和暦・西暦変換(年月日)高精度計算サイト」(keisan.casio.jp/exec/system/1240128137)を利用しています。明治までの元号は布告された年の元日に遡って新元号の元年としています(立年改元)。明治5年12月3日をもってグレゴリオ暦の明治6年(1873)1月1日となり、以降の和暦月日は現行西暦と同じになります。
災害に関する未公表の古文書はまだまだ多くあり、発見されると土砂移動や洪水と災害との関係が明らかになります。平成23年(2011)9月の紀伊半島大水害では、多くの命と文化遺産が失われました。和歌山県立博物館では、翌24年(2012)春に、災害時における文化財(未指定も含む)のレスキュー活動の必要性を一般の方に訴える特別展「災害と文化財―歴史を語る文化財の保全―」を開催しました。平成26年(2014)度からは、文化芸術振興補助金(国庫補助)による「地域に眠る『災害の記憶』と文化遺産を発掘・共有・継承する事業」(事業主体:和歌山県立博物館施設活性化実行委員会)で、「災害の記憶」を伝える記念碑や古文書の調査を行い、その成果を地域住民の方々に還元するために、和歌山県各地で現地学習会を開催してきました。その成果として、同実行委員会から『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝える』T〜Z(A5判,16ページ)を発行しました。このうちXは高校生版(A4判,16ページ)です。これらの冊子は、和歌山県立博物館のHPで公開されています(コラム77)。
- T 【御坊市・美浜町・日高川町・那智勝浦町】,平成27年(2015)1月15日
- U 【すさみ町・串本町・太地町】,平成28年(2016)1月17日
- V 【由良町・印南町】,平成29年(2017)1月17日
- W 【新宮市・北山村】,平成30年(2018)1月17日
- X 【日高町・白浜町】,平成31年(2019)1月17日「災害の記憶」を未来に伝える−和
歌山県の高校生の皆さんへ−,令和2年(2020)3月11日
- Y 【湯浅町・広川町】,令和3年(2021)1月17日
- Z 【田辺市・上富田町】,令和4年(2022)2月26日
平成紀伊半島大水害から10年が経った令和3年(2021)度には、上記事業の調査成果を紹介する現地学習会が、令和4年(2022)2月26日(上富田町)と27日(田辺市)に開催されました。私も「紀伊半島・富田川流域の土砂災害」と題して、発表しました。
上記のような資料に目を通し、このような集会に参加されることを要望致します。
本コラムでは、引用・参考文献一覧を付けていません。各コラムには引用・参考文献一覧を付けてありますので、関心のある方はそちらをご覧下さい。