1.はじめに
NHKスペシャル「富士山大噴火」の前編が4月5日(日)21時00〜50分、後編が12日(日)21時00分〜50分に「富士山大噴火に迫る“灰色の恐怖”」をサブタイトルとして放映されました。富士山宝永噴火とその後の土砂災害についてかなりの関心をもたれた方も多いと思います。
富士山では、平成12〜13年(2000〜2001)に、富士山直下で低周波地震の多発が観測されました。このため、平成13年7月に国及び関係県・市町村により、「富士山火山防災協議会」が設置され、その下に「富士山ハザードマップ検討委員会」(委員長・荒牧重雄東京大学名誉教授)が組織され、平成16年(2004)6月に同委員会報告書が公表されました。
https://www.bousai.go.jp/kazan/fuji_map/pdf/report_200406.pdf
宝永四年(1707)の富士山宝永噴火では、大量の降下火砕物・焼砂・降砂(宝永スコリア)が富士山の東麓斜面に厚く堆積し、冬の強い季節風に乗って、遠く江戸まで降下・堆積しました。多摩地域は富士山から60〜100km離れていますが、宝永スコリアが南部程厚く堆積しました。筆者らは検討委員会の下で、降下火砕物と噴火後の土砂災害の実態を調査するため、市町村史や郷土資料の収集・整理を行い、各地域での土砂流入と氾濫・堆積、災害状況を整理し、委員会報告書にまとめるとともに、井上(2007a,2007b,2014,2015)などで報告しました。また、2015年7月16日のいさぼうネットのコラム6でも説明しました。
https://isabou.net/knowhow/colum-rekishi/colum6.asp
平成16年(2004)版のハザードマップ策定以降、新たな科学的知見が蓄積されたことにより、富士山火山防災対策協議会作業部会(平成28年(2016)1月〜)において、最新の調査研究の状況把握及びハザードマップ改定の必要性について検討した結果、第8回富士山火山防災対策協議会(平成30年(2018)3月)において、平成30年度から3年間の予定で改定することになりました。
その後、協議会作業部会に富士山ハザードマップ(改定版)検討委員会を設置し、改定作業を進めた結果、令和3年(2021)3月の第11回富士山火山防災対策協議会において、富士山ハザードマップが改定されました。
これらの報告書や富士山ハザードマップには、噴火後長期間に及んだ土砂災害については説明されていません。
令和7年(2025)11月25日に神奈川県足柄上合同庁舎5階大会議場で開催された「神奈川の砂防事業100周年記念講演会」で、井上は『関東地方の歴史的大規模土砂災害』についてと題して講演しました。この中で富士山宝永噴火後の神奈川県各地の土砂災害について説明しました。
本コラムでは、富士山宝永噴火後の長期間に及んだ土砂災害について、上記講演会やコラム6を踏まえながら、再考察した結果を2回に分けて報告いたします。
2.富士山宝永噴火後の土砂災害の概要
宝永四年十月四日(グレゴリオ暦,1707年10月28日)の宝永地震から49日後の宝永四年十一月二十三日(1707年12月16日)に、富士山は大規模な宝永噴火を開始しました。その後、16日間も噴火が続き、冬の強い季節風に乗り、大量の宝永テフラ・降下火砕物が降り続きました。
上・中流域を厚い降下火砕物で覆われた酒匂川流域では、その後繰返し大規模な土砂・洪水氾濫が発生しました(開成町,1965;本多,1972;瀬戸,1972;酒井,1975;など)。噴火直後の降下火砕物の分布状況と噴火後における土砂災害、すなわち、直接被害と二次災害の関連について調査しました(小山ほか,2001,03:南ほか,2002;井上ほか,2002;角谷ほか,2002;国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所,2003など)。
- 1)高温の降下火砕物による家屋の焼失
- 2)降下火砕物の重さによる家屋の倒壊
- 3)田畑・草地への降灰による作物・飼料・燃料の不作と森林の荒廃
- 4)降下火砕物及び土砂の二次移動による用排水路の埋積
- 5)本流への土砂搬入と河床上昇による氾濫
噴火後の主な土砂災害地点(白線は土石流危険渓流,図1に修正追記)
3.富士山麓での被害
3.1 高温の降下火砕物による家屋の焼失
村中焼、残家共砂に埋り、屋根少し見ゆる。・・・浅間神社鳥居半分過砂にて埋り、・・・
拝殿は屋根計り少し見へ、御本社軒際まで埋ると云へとも潰れず。名主甚太夫土蔵三つまで焼ける。」
3.2 降下火砕物の重さによる家屋の倒壊
3.3 田畑・草地への荒廃による作物・飼料・燃料の不作と森林の荒廃
3.4 降下火砕物及び土砂の二次移動による用排水路の埋積
御厨地方においては、「御厨上部の分砂強く降り、留る所は青竹の葉少しも是れなく、総て竹木茎計りなり、御厨上郷砂多く、砂留り村々是れなく難儀に及び、遠方よりして水を汲み用ゆ」(『近世小田原市稿本』下)というように、降下火砕物の一次堆積とその後の二次移動によって、用水に苦労したという記録が残っています。
また、同じく「佐野、瀬木川(駿河湾に流れる黄瀬川を指す)の水、御殿場、二枚橋、深沢、西田中、六十町の用水にて是ある所に、砂にて埋り水なし、当地平地の様に見る」とも記されています。このように、用水路はすでに砂で埋まり、人々の生活に大きな影響を与えました。ただし、この種の被害は富士山麓よりもさらに東方、神奈川県内の酒匂川流域、特に丘陵地出口付近において顕著でした。
4.丹沢山地と酒匂川中流域における土砂災害
図3は山北村十ヶ村の位置図(1/5万「秦野」図幅,1996年修正)です。
丹沢山地や酒匂川中流域では、降下火砕物が1〜2尺(30〜60cm)も堆積しました。急傾斜な谷壁斜面から、降雨の度ごとに堆積した火砕物が崩落し、大量の土砂が酒匂川の本流や支流に流入しました。降下火砕物の分布軸上にあたる都夫良野村(神奈川県山北町)などでは、住民の大部分が離散しました。住民が減少したことによって、人家や田畑の上に堆積した降下火砕物を、人為的に除去することはほとんどできなかったと思われます。
図3に示した山北10ヶ村(川村山北・皆瀬川村・都夫良野村・湯触村・川西村・山市場村・神縄村・世附村・中川村・玄倉村)からは宝永七年(1710)五月に、『奥山家往還道御普請人足見積り』が出されました。この工事の見積りで、村々は「出水や山より落ちて来た石砂により、街道の通行が困難になった」と訴えました。例えば、そのうちの皆瀬川村では、「長五百七十八間(1040m)、皆瀬川の分、奥山家より往還度々の雨にて山より石砂落候故、通路罷り成らず候に付き、石砂取り退け、元の如く道造り申し候、この人足百五十一人、但し一人につき三間半(6.3m)拵え」と道路復旧工事に必要な労働量を書き上げています(山北町史,資料編,近世,No.247)。
この見積書は、噴火より2年半ほど後に提出された願書です。つまり、この地域では斜面からの多量の宝永テフラが崩落して斜面下方へ移動し、降雨時に土石流や泥流となって、各支流から酒匂川本川に流入し続けました。そして、これらの土砂移動が各地で河道閉塞と河床上昇を引き起こし、その後の土砂・氾濫の主因となりました。
国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所(2003)を一部修正
なお、丹沢山地の多くは当時、大山・阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)の社有林でした。この地域では、200年後の大正12年(1923)9月1日の関東地震時に震度5〜6の激震を受け、無数の崩壊や土石流が発生しています(井上,2000,2003a)。関東地震後の土砂災害については、いさぼうネットのコラム37,38,39,40,74,79,82,83,84,87,88,92,93,94,95,96,97をご覧下さい。
- コラム37 関東大震災(1923)による横浜の土砂災害―9月1日のプールの逃避行ルートを歩く―
-
コラム38 関東大震災(1923)による神奈川県東部の土砂災害―横須賀地区と浦賀地区の
土砂災害地点を歩く― -
コラム39 関東大震災(1923)による丹沢山地の土砂災害−秦野駅から震生湖周辺の
土砂災害地点を歩く― -
コラム40 関東大震災(1923)による小田原市の土砂災害―根府川・白糸川流域の
大規模土砂災害地点を歩く― - コラム74 関東大震災(1923)による伊豆半島東部の土砂災害
- コラム79 海溝型地震による土砂災害の事例分析
- コラム82 プールの関東大震災(1923)9月2日以降の逃避行と復旧復興に果たした神戸の役割
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コラム83 ユーハイムとドイツ菓子(バウムクーヘン)@―2度の世界大戦と関東地震・阪神大水害
を経験した独菓子職人− -
コラム84 ユーハイムとドイツ菓子(バウムクーヘン)A―2度の世界大戦と関東地震・阪神大水害
を経験した独菓子職人− - コラム87 関東大震災100年,根府川・白糸川を歩く
- コラム88 関東大震災100年,丹沢山地の土砂災害と震生湖
- コラム92 関東地震(1923)による千葉県南部の土砂災害
- コラム93 丹沢山地東部の関東地震(1923)による土砂災害地点を歩く
- コラム94 大山阿夫利神社周辺の関東地震(1923)による土砂災害地点を歩く
- コラム95 諸戸林業と札掛集落の関東地震(1923)前後の変遷
- コラム96 関東甲信越地方の歴史的大規模土砂災害―繰り返す自然災害を知る―
- コラム97 横浜山手の関東大震災(1923)による土砂災害地点の現状
また、コラム94でも述べたように、関東地震から2週間後の9月12日〜15日の豪雨により、大規模な土石流が発生し、阿夫利神社の門前町の大半が流出し、社務局も全壊しました。阿夫利神社の関係者に、関東地震時の土砂災害について、聞き取り調査や関係資料の調査を行いました。この地震時の土砂災害によって、貴重な神社史料が流失してしまったということでした。
阿夫利神社の研究家によれば、昭和初期頃まで丹沢山地の山麓では黒い火山砂が残っており、盆時期にはそれらを集めて小さな塚を作り、礼拝する風習が残っていたとのことでした。
5.山北村と皆瀬川村の土砂災害による村の変遷
陸軍陸地測量部は、明治19〜22年(1886〜1889)に1/2万の正式図を測量・発行しています。1/2旧版地形図正式図「矢倉沢村」「畑宿」「関本村」「小田原」「谷村」「松田惣領」の図幅を入手し、皆瀬川と酒匂川の合流点付近について、図4 山北町付近の酒匂川と皆瀬川の河谷地形と主な地名(井上,2007)を作成しました。
山北村集落の載る幅広い河谷地形は、元の酒匂川の河谷地形です(鈴木,1963,1964)。その後、酒匂川は南側に移動し、現在の流路となりました。宝永噴火前には、皆瀬川が北から流入して、広い河谷地形の中をゆったりと流れ、山北の集落が存在していました。
貞享三年(1686)には、皆瀬川村の人家は58戸でした。元禄十六年十一月二十三日(1703年12月31日)に関東地方を襲った元禄関東地震(M7.9〜8.2)で、皆瀬川村のほとんどすべての家が全半壊しました(地震による直接の死亡者の数は記録されていません)。中でも家屋敷共無7軒という記録があり、地すべりや崩壊・土石流によって、敷地ごと流失してしまったと考えられます。元禄関東地震の前には58戸ありましたが、43人が皆瀬川村を離れ、小田原などに奉公に出ています。残った被災民は掘っ立て小屋しか建てられなかったと思います。このような状況で、4年後に宝永地震と富士山宝永噴火を迎えることになります。
富士山の宝永噴火によって、図1、図2に示したように山北町では、2尺(60cm)以上の焼砂(宝永テフラ)が堆積しました。
半年後の宝永五年六月二十二日(1708年8月8日)の台風襲来によって、大量の焼砂が流出し、山北の集落は流出した焼砂と洪水によって、一面湖のようになりました。
神奈川県山北町史編さん室は、平成15年(2003)3月29日に、『山北町史,資料編近世』を刊行しました。この資料編や山北町史編さん室(1999)『江戸時代が見えるやまきたの絵図』などには、近世の山北町の状況が村・小名単位で詳細に記載され、被災状況とその後の復興過程がかなりわかります。図5は、相模国足柄上郡山北村絵図(鈴木友徳氏蔵)で、宝永噴火前の山北村と皆瀬川村の状況が良くわかります。噴火前には、皆瀬川は山北の集落の真中を流れていました。
この地域は、宝永の焼砂(宝永テフラ)が層厚60〜70cmも堆積し、長期間にわたって、甚大な被害を受けました。その後も土砂災害・洪水が繰り返されましたが、被災住民の懸命な復興への努力を多くの史料から読み取ることができます。
宝永噴火(1707)から100年以上経過した天保十年(1839)の『新編相模国風土記稿』には、神社・仏閣などの地理情報が詳しく記載されています。1839年には皆瀬川村の人家は94軒で、村内には7村の小名(梶屋敷・深澤・市間・湯ヶ澤・高杉・八町(丁)・人遠,図4参照)がありました。
噴火開始から14日後の十二月六日には、『砂降り被害の書上げ』が皆瀬川村から小田原藩に出されています。被災戸数は12戸でした。交通・通信手段が壊滅状態の中で、このような被害記録が集計され、地方文書として記録・保存されていたことに驚きます。十二月八日に火山噴火が終了しましたが、降砂によって小田原藩の川村関所へ通る皆瀬川沿いの道は交通不能となりました。このため、3日後の十一日には川村の関所を通らずに、川村山北から小田原の城下町へ直接通る道で、炭を搬出させて欲しいという『炭運送路変更願い』が小田原藩に提出されています。
これらの嘆願書を受けて、十二月十四日に藩役人・大西角之右衛門が砂降り被害見分をするという通達が出されました。大西角之右衛門は翌十五日に砂の深さ・飢人・つぶれ家・うずもれ家の被害検分を行っています。しかし、検分の費用はすべて被災民持ちであり、道路不通箇所の多い山間部は行けませんでした。このため、充分な被害検分はできなかったと思われます。
宝永五年閏一月七日(1708年2月28日)に、酒匂川流域は小田原藩領から江戸幕府領に返地され、関東代官頭(関東郡代)伊奈半左衛門忠順がこの地域を復興する砂除川浚奉行に任命されました。
皆瀬川村の名主・市右衛門は、噴火から3ヶ月後の宝永五年二月十五日に『皆瀬川村指出帳下書』を提出しています。小名毎に被害状況が記載された非常に詳細な被害記録です。4年前の元禄関東地震当時よりも、民戸80軒と22軒増えており、人口も631人で91人増となっています。復旧工事で作業する人達が集まっていたのでしょうか。この辺の数値については、他の文献を含めて個々の家族の動静
(名前と年齢のわかる資料もある)をきちんと分析する必要がある課題だと思います。
この時点で、年々川成永引となった耕地は16.6石で、全体の15%となっています。
1年半後の宝永六年(1709)七月十一日に皆瀬川村の飢人に扶持米を渡したという記録があり、小名ごとに飢人の名前(戸主)・家族人数が記載されています。飢人は390人(全人口の60%)で、扶持米39石(1人に付き1合を10日間)が渡されています。この程度のお助け米では、飢えを凌ぐのは一時的であったと思われます。
宝永五年六月二十二日(1708年8月8日)の台風襲来によって、酒匂川流域では降灰が土石流・泥流となって大量に流出し、大氾濫しました。足柄平野の扇頂部に小田原藩によって構築された岩流瀬堤・大口堤は大きく決壊し、足柄平野は50%以上も氾濫しました。
山北地区では、皆瀬川だけでなく、多くの河川からも土砂流出が続きました。これらの土砂流出によって、山北の集落は水没・天然ダム状態となり、生活ができなくなりました。このため、山北村の名主たちは、皆瀬川は山北村を通らず、川村関所の横を通って直接酒匂川に流入できるようにして欲しいと願書を提出しました。名主からの願書をもとに、江戸幕府は伊勢国津藩(藤堂氏)に手伝い普請を命じ、宝永六年十一月九日から皆瀬川の掘割(瀬替)工事が行われました。
図6は皆瀬川の瀬替工事中の図で、図7は施工後の酒匂川と皆瀬川流域の状況を示しています(山北町史編さん室,1999)。図5に示したように、この工事によって、皆瀬川は山北村の手前で直接酒匂川に流入できるようになりました。工事は半年後の宝永七年八月に完成し、山北村内にあった皆瀬川の河川敷を川村山北の住民に配分しました。瀬替工事のため、水不足に陥った山北川村などの村人は、酒匂川の上流から用水路と堰を造る必要に迫られました。享保十九年(1734)に名主の湯山氏を中心とする村人は、酒匂川上流から用水堰「川入堰」を造り、酒匂川の左岸側に水路を建設しました。この堰の完成を記念して、元文二年(1737)の『皆瀬川村鏡帳』によれば、焼砂の流出被害が克明に記載されています。民戸86軒で6軒増加していますが、人口は522人と100人近く減少しています。とくに女が252人と60人も減少しています。また、年々川成川欠山崩亥砂埋無開発の耕地が35.7石と全体の30%にも達しています。
このような宝永噴火後の動静を図4と図6から読み取ることができます。
6.天地返しによる復興(コラム6も参照)
図4の右図の下部中央に示したように、山北の集落の南側を流れる酒匂川の間にある丘陵地には、戦国時代の河村城址があり、山北町教育委員会によって発掘調査が行われました(安藤,1995,2003,2004)。その後河村城は廃止され、宝永の頃には畑となっていました。
これまで、史料などで天地返しという言葉は知っていましたが、実際掘削断面を見たのは初めてでした。機械力のない江戸時代に人力だけで1m以上掘削し、下に埋もれ耕作土を天地返しして畑を復元するという発想はすごいと思います。
なお、天地返し遺構は金子新宿1110番地付近、大井町役場北側、平塚市真田・北金目遺跡群18区などで見つかっています(津田,2019)。
引用・参考文献(コラム108,109共用)
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