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シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く コラム108 1707年富士山宝永噴火による長期間の土砂災害(1)

1.はじめに

NHKスペシャル「富士山大噴火」の前編が4月5日(日)21時00〜50分、後編が12日(日)21時00分〜50分に「富士山大噴火に迫る“灰色の恐怖”」をサブタイトルとして放映されました。富士山宝永噴火とその後の土砂災害についてかなりの関心をもたれた方も多いと思います。

富士山では、平成12〜13年(2000〜2001)に、富士山直下で低周波地震の多発が観測されました。このため、平成13年7月に国及び関係県・市町村により、「富士山火山防災協議会」が設置され、その下に「富士山ハザードマップ検討委員会」(委員長・荒牧重雄東京大学名誉教授)が組織され、平成16年(2004)6月に同委員会報告書が公表されました。

富士山ハザードマップ検討委員会報告書
https://www.bousai.go.jp/kazan/fuji_map/pdf/report_200406.pdf

宝永四年(1707)の富士山宝永噴火では、大量の降下火砕物・焼砂・降砂(宝永スコリア)が富士山の東麓斜面に厚く堆積し、冬の強い季節風に乗って、遠く江戸まで降下・堆積しました。多摩地域は富士山から60〜100km離れていますが、宝永スコリアが南部程厚く堆積しました。筆者らは検討委員会の下で、降下火砕物と噴火後の土砂災害の実態を調査するため、市町村史や郷土資料の収集・整理を行い、各地域での土砂流入と氾濫・堆積、災害状況を整理し、委員会報告書にまとめるとともに、井上(2007a,2007b,2014,2015)などで報告しました。また、2015年7月16日のいさぼうネットのコラム6でも説明しました。

コラム6 1707年富士山宝永噴火〜長期間に及んだ土砂災害
https://isabou.net/knowhow/colum-rekishi/colum6.asp

平成16年(2004)版のハザードマップ策定以降、新たな科学的知見が蓄積されたことにより、富士山火山防災対策協議会作業部会(平成28年(2016)1月〜)において、最新の調査研究の状況把握及びハザードマップ改定の必要性について検討した結果、第8回富士山火山防災対策協議会(平成30年(2018)3月)において、平成30年度から3年間の予定で改定することになりました。

その後、協議会作業部会に富士山ハザードマップ(改定版)検討委員会を設置し、改定作業を進めた結果、令和3年(2021)3月の第11回富士山火山防災対策協議会において、富士山ハザードマップが改定されました。

これらの報告書や富士山ハザードマップには、噴火後長期間に及んだ土砂災害については説明されていません。

令和7年(2025)11月25日に神奈川県足柄上合同庁舎5階大会議場で開催された「神奈川の砂防事業100周年記念講演会」で、井上は『関東地方の歴史的大規模土砂災害』についてと題して講演しました。この中で富士山宝永噴火後の神奈川県各地の土砂災害について説明しました。

本コラムでは、富士山宝永噴火後の長期間に及んだ土砂災害について、上記講演会やコラム6を踏まえながら、再考察した結果を2回に分けて報告いたします。

2.富士山宝永噴火後の土砂災害の概要

宝永四年十月四日(グレゴリオ暦,1707年10月28日)の宝永地震から49日後の宝永四年十一月二十三日(1707年12月16日)に、富士山は大規模な宝永噴火を開始しました。その後、16日間も噴火が続き、冬の強い季節風に乗り、大量の宝永テフラ・降下火砕物が降り続きました。

上・中流域を厚い降下火砕物で覆われた酒匂川流域では、その後繰返し大規模な土砂・洪水氾濫が発生しました(開成町,1965;本多,1972;瀬戸,1972;酒井,1975;など)。噴火直後の降下火砕物の分布状況と噴火後における土砂災害、すなわち、直接被害と二次災害の関連について調査しました(小山ほか,2001,03:南ほか,2002;井上ほか,2002;角谷ほか,2002;国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所,2003など)。

図1
図1 富士山宝永噴火による火砕物の等層厚線(下鶴,1981)と噴火後の主な土砂災害地点(南ほか,2002)
表1 富士山宝永噴火後の主な土砂災害地点一覧表(南ほか,2002などをもとに作成)
表1
図1は、宝永噴火による火砕物の等層厚線(下鶴,1891)と宝永噴火後繰返し発生した土砂災害(直接被害と間接被害)等の箇所を示したものです。表1は、図1の地点に対応した土砂災害地点・発生年月日を示したものです。富士山噴火の宝永テフラ(火山灰)は上空の季節風(偏西風)によって、富士山の東側に堆積しました。当然、富士山に近いほど厚く堆積し、粒径が大きく、大雨や強風が吹いても移動しにくくなります。富士山から遠く離れるにつれて、次第に堆積層も薄くなり、粒径も小さくなります。粒径が小さくなると、風や雨によって移動しやすくなります。このため、丹沢山地以東では300年以上経過した現在、地表面付近に残っている宝永テフラはほとんどありませんが、考古学の発掘などで発見されています(英,2012;湯瀬,2016)。
噴火直後より、降下火砕物・宝永テフラは、
  • 1)高温の降下火砕物による家屋の焼失
  • 2)降下火砕物の重さによる家屋の倒壊
  • 3)田畑・草地への降灰による作物・飼料・燃料の不作と森林の荒廃
  • 4)降下火砕物及び土砂の二次移動による用排水路の埋積
  • 5)本流への土砂搬入と河床上昇による氾濫
図2
図2 富士山宝永噴火による降下火砕物の等層厚線(下鶴,1981)と
噴火後の主な土砂災害地点(白線は土石流危険渓流,図1に修正追記)
などとなって、地域住民を襲いました。さらに、降下火砕物によって森林の荒廃が一層進み、山地からの土砂流出を容易にし、下流域において4)や5)を引き起こす要因となりました。
図2は、図1をもとに神奈川県内の主な河川と土石流危険渓流の位置を示しました。神奈川県や千葉県では4年前の元禄地震(1703年12月31日,相模トラフの海溝型地震)による被害がかなり大きかった地域です(井上,2004,2005)。海溝型巨大地震である宝永地震(1707年10月28日)の地震によっても激甚な被害を受けました。その49日後に富士山が噴火し、下鶴(1981)の等層厚線に示したように、降下火砕物・宝永テフラが厚く堆積した地域では土砂災害が多発しました。
赤色●は、降灰直後の大量の降砂(1m以上)による直接被害を受けた地域で、高温の火砕物によって家屋が焼失したり、火砕物の重さによって家屋が潰れたりしました。神奈川県西部には、酒匂川や相模川などの多くの河川があります。白線は丹沢山地や大磯丘陵などに存在する土石流危険渓流です。降下火砕物が厚く堆積した地域では、斜面部から火砕物が流出し、河床上昇を引き起こし、豪雨時に堤防決壊や洪水氾濫を引き起こしました(青●)。また、土石流危険渓流などでは、豪雨時に土石流が多発しました。
富士山から少し遠方の地域では、降下火砕物(降灰)の層厚は薄くなるのですが、粒径が小さくなるため、風や降雨によって降灰は移動しやすくなり、長期間にわたって用排水路や田畑に流出するようになりました(黄●)。
写真1
写真1 静岡県小山町の伊奈神社と伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)像(2008年9月,井上撮影)
このような土砂移動・災害によって、神奈川県西〜中央部では長期間被害を受け続けました。新田次郎(1974):『怒る富士』や芝豪(2001):『宝永・富士大噴火』、勝俣昇(2007):『砂地獄』などでは富士山宝永噴火と土砂災害について詳しく表現されています。写真1は、静岡県小山町須走の伊奈神社と伊奈半左衛門忠順像の写真で、上記の小説の主人公です。伊奈半左衛門忠順は、関東郡代として多摩地域を含む関東の40万石を支配し、架橋工事、治水工事などの土木事業を主に行っていました。小田原藩から江戸幕府に被災地が返地されたため、幕府は砂除川浚(すなよけかわさらい)奉行を忠順に命じました。忠順は被災地に長期間滞在し、被災民とともに復旧事業に活躍した実在の武士で、写真1の伊奈神社に祀られています。
ぜひ、伊奈神社に行かれるとともに、上記の小説を読まれることをお勧めいたします。

3.富士山麓での被害

3.1 高温の降下火砕物による家屋の焼失

宝永噴火は、大きく4時期に分けられます(宮地,2006)。火口は第1、第2、第3まであり、そのうち、白色・灰色の軽石を噴出した最初の噴火は、古文書記録などから継続時間は4〜6時間とされています。最初の軽石は、ほかのフォールユニットの粒子に比べて粒径が大きく、降下堆積後も長時間高温状態を保っていたと考えられます。それ以後の噴火は黒いスコリア質の火砕物(焼砂)となりました。
もっとも宝永火口に近かった須走(すばしり)(静岡県小山町,図1の地点@)では、蹴鞠(けまり)ほどの大きさの焼石(高温の降下火砕物)が地に落ち、粉々に砕けて燃え上がったといい、黄色で塩味がしたという記録が残っています。須走村の集落75軒のうち、38軒が降下火砕物の重みで倒壊し、残りの37軒が焼失しました。
この須走村の被害については、小田原藩の見分報告には、
「須走村砂一丈(3m)溜る、高札場(こうさつば)砂にて埋まり、札(おおい)の屋根(ばか)り少し見える。・・・
村中焼、残家共砂に埋り、屋根少し見ゆる。・・・浅間神社鳥居半分過砂にて埋り、・・・
拝殿は屋根計り少し見へ、御本社軒際まで埋ると()へとも潰れず。名主甚太夫(じんだゆう)土蔵三つまで焼ける。」
と記されています(『近世小田原市稿本』下 小田原市図書館蔵片岡文書)。
また、須走村より南の中畑村長坂(静岡市御殿場市,地点A)では、昭和36年(1961)3月15〜16日、噴火直後焼失したとみなされる人家が発掘されました。この人家は、噴火当時92軒・680人の住民があった中畑村のうちの1軒で、黒色の小豆・麦粒ほどの砂が1.8〜2.0m、その下に直径1.0〜1.5cm位の軽石層が堆積していました。さらに、その下部には間口5間(9m)、奥行き3間(5.4m)、5坪(16.2m²)の住居がありました。家の中には軽石はなく、家の周囲に厚い軽石があることから、噴火時に降った軽石が屋根から落ちて軒先に積もり、その後家が焼けたものと推察されます。屋内跡から鎌、(くわ)、茶椀、包丁、(はさみ)、毛抜き、(すずり)煙管(きせる)の雁首、錠前といった当時の生活用具が発見されました。

3.2 降下火砕物の重さによる家屋の倒壊

小田原藩は、噴火直後に被災地の見分を行っています。その被害状況報告書「小田原藩見分の次第(『近世小田原史稿本』下)によれば、須走村に隣接する芝怒田(しばんた)(静岡県御殿場市)では、女・子どもは避難し、男だけが残っている状況で、倒壊した家屋が11軒であるほか、吹き溜まりのような場所では家屋は完全に埋没したか、屋根の上部だけがやっと見える状態でした(中野,1978)。
降下火砕物が2〜3mと厚く堆積した富士山麓では、顕著な土砂流出の記録は確認できませんでした。この地域では生活基盤を奪われたため、住民の多くは小田原や沼津・三島と流出し、小田原藩や幕府によって「亡所」とされました。このため、被害状況が記録されることも少なく、記録自体もほとんど残っていません。また、厚く堆積した降下火砕物は粒径が大きく雨水は火砕物の間を浸透し、表流水が発生することは少なかったようです。そのため、富士山麓の緩傾斜地では河谷の急斜面部分を除いて、降下火砕物は余り移動しなかったと推測されます。

3.3 田畑・草地への荒廃による作物・飼料・燃料の不作と森林の荒廃

農作物への被害は、降下火砕物による直接的な被害でした。こうした被害の状況については、小田原藩などに対する救済願いの文書などに多くの記録が残っています。
噴火が始まった十一月二十三日(12月16日)という時期は、丁度畑に蒔いた麦がちらほら芽を出し始める時期です。降下火砕物が1尺(30cm)以上堆積した地域では、ほとんどの村で麦作が全滅状態となりました。前掲の小田原藩報告書によれば、富士山から11kmと距離は近いが、やや南に寄っている川柳新田村(静岡県御殿場市)では、「砂の深さ5〜6寸(15〜18cm)というところでも、秋に蒔いた麦の種が砂に埋まって収穫が皆無であった」と報告されています。また、山野に降り積もった砂のために、(まぐさ)(馬の飼料)や日々の燃料にも欠乏する状態となりました。
富士山東麓の御厨(みくりや)地方(静岡県御殿場市・裾野市・小山町)では、標高が高いため、畑作を中心とする村がほとんどでした。そのため、生活基盤が元々脆弱で、現金収入を入会(いりあい)山野での薪炭・秣の採取と生産に依存していました。また、竹之下〜古沢〜須走の道筋は、相模・駿河・甲斐3国を結ぶ街道でした。このため、人馬の往来も多く、地元の村々では馬を飼って駄賃稼ぎを行い、農業生産力の低さを補っていました(永原,2002)。そのため、降下火砕物による秣場の壊滅は、致命的な被害でした。
現在でも、富士山南東斜面は厚い降下火砕物で覆われ、カラマツの高木の連続した林分によって識別される森林限界の標高は1300〜1400mとなっています(岡,1992)。当然、富士山宝永噴火以前の村絵図では、「木立境」がもっと上に記されています。このような降下火砕物による森林の荒廃も、その後の土砂流出を引き起こす大きな要因になったと考えられます。

3.4 降下火砕物及び土砂の二次移動による用排水路の埋積

御厨地方においては、「御厨上部の分砂強く降り、留る所は青竹の葉少しも是れなく、総て竹木茎計りなり、御厨上郷砂多く、砂留り村々是れなく難儀に及び、遠方よりして水を汲み用ゆ」(『近世小田原市稿本』下)というように、降下火砕物の一次堆積とその後の二次移動によって、用水に苦労したという記録が残っています。

また、同じく「佐野、瀬木川(駿河湾に流れる黄瀬川を指す)の水、御殿場、二枚橋、深沢、西田中、六十町の用水にて是ある所に、砂にて埋り水なし、当地平地の様に見る」とも記されています。このように、用水路はすでに砂で埋まり、人々の生活に大きな影響を与えました。ただし、この種の被害は富士山麓よりもさらに東方、神奈川県内の酒匂川流域、特に丘陵地出口付近において顕著でした。

4.丹沢山地と酒匂川中流域における土砂災害

図3は山北村十ヶ村の位置図(1/5万「秦野」図幅,1996年修正)です。
丹沢山地や酒匂川中流域では、降下火砕物が1〜2尺(30〜60cm)も堆積しました。急傾斜な谷壁斜面から、降雨の度ごとに堆積した火砕物が崩落し、大量の土砂が酒匂川の本流や支流に流入しました。降下火砕物の分布軸上にあたる都夫良野村(神奈川県山北町)などでは、住民の大部分が離散しました。住民が減少したことによって、人家や田畑の上に堆積した降下火砕物を、人為的に除去することはほとんどできなかったと思われます。

図3に示した山北10ヶ村(川村山北皆瀬川(みなせかわ)都夫良野(つぶらの)湯触(ゆふれ)川西村山市場村神縄(かんなわ)世附(よづく)中川村玄倉(くろくら))からは宝永七年(1710)五月に、『奥山家(おくやまが)往還道御普請人足見積り』が出されました。この工事の見積りで、村々は「出水や山より落ちて来た石砂により、街道の通行が困難になった」と訴えました。例えば、そのうちの皆瀬川村では、「長五百七十八間(1040m)、皆瀬川の分、奥山家より往還度々の雨にて山より石砂落候故(そうろうゆえ)、通路(まか)り成らず候に付き、石砂取り退け、元の(ごと)く道造り申し候、この人足百五十一人、但し一人につき三(けん)半(6.3m)(こしら)え」と道路復旧工事に必要な労働量を書き上げています(山北町史,資料編,近世,No.247)。

この見積書は、噴火より2年半ほど後に提出された願書です。つまり、この地域では斜面からの多量の宝永テフラが崩落して斜面下方へ移動し、降雨時に土石流や泥流となって、各支流から酒匂川本川に流入し続けました。そして、これらの土砂移動が各地で河道閉塞と河床上昇を引き起こし、その後の土砂・氾濫の主因となりました。

図3
図3 山北十ヶ村分布図(1/5万地形図「秦野」図幅,1996年修正)
国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所(2003)を一部修正

なお、丹沢山地の多くは当時、大山・阿夫利(あふり)神社(神奈川県伊勢原市)の社有林でした。この地域では、200年後の大正12年(1923)9月1日の関東地震時に震度5〜6の激震を受け、無数の崩壊や土石流が発生しています(井上,2000,2003a)。関東地震後の土砂災害については、いさぼうネットのコラム37,38,39,40,74,79,82,83,84,87,88,92,93,94,95,96,97をご覧下さい。

また、コラム94でも述べたように、関東地震から2週間後の9月12日〜15日の豪雨により、大規模な土石流が発生し、阿夫利神社の門前町の大半が流出し、社務局も全壊しました。阿夫利神社の関係者に、関東地震時の土砂災害について、聞き取り調査や関係資料の調査を行いました。この地震時の土砂災害によって、貴重な神社史料が流失してしまったということでした。

阿夫利神社の研究家によれば、昭和初期頃まで丹沢山地の山麓では黒い火山砂が残っており、盆時期にはそれらを集めて小さな塚を作り、礼拝する風習が残っていたとのことでした。

5.山北村と皆瀬川村の土砂災害による村の変遷

陸軍陸地測量部は、明治19〜22年(1886〜1889)に1/2万の正式図を測量・発行しています。1/2旧版地形図正式図「矢倉沢村」「畑宿」「関本村」「小田原」「谷村」「松田惣領」の図幅を入手し、皆瀬川と酒匂川の合流点付近について、図4 山北町付近の酒匂川と皆瀬川の河谷地形と主な地名(井上,2007)を作成しました。

山北村集落の載る幅広い河谷地形は、元の酒匂川の河谷地形です(鈴木,1963,1964)。その後、酒匂川は南側に移動し、現在の流路となりました。宝永噴火前には、皆瀬川が北から流入して、広い河谷地形の中をゆったりと流れ、山北の集落が存在していました。

貞享三年(1686)には、皆瀬川村の人家は58戸でした。元禄十六年十一月二十三日(1703年12月31日)に関東地方を襲った元禄関東地震(M7.9〜8.2)で、皆瀬川村のほとんどすべての家が全半壊しました(地震による直接の死亡者の数は記録されていません)。中でも家屋敷共無7軒という記録があり、地すべりや崩壊・土石流によって、敷地ごと流失してしまったと考えられます。元禄関東地震の前には58戸ありましたが、43人が皆瀬川村を離れ、小田原などに奉公に出ています。残った被災民は掘っ立て小屋しか建てられなかったと思います。このような状況で、4年後に宝永地震と富士山宝永噴火を迎えることになります。

富士山の宝永噴火によって、図1、図2に示したように山北町では、2尺(60cm)以上の焼砂(宝永テフラ)が堆積しました。

図4
図4 山北町の旧版地形図(国土地理院,明治20年(1887)測図,1/2万正式図(井上,2007)
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半年後の宝永五年六月二十二日(1708年8月8日)の台風襲来によって、大量の焼砂が流出し、山北の集落は流出した焼砂と洪水によって、一面湖のようになりました。

神奈川県山北町史編さん室は、平成15年(2003)3月29日に、『山北町史,資料編近世』を刊行しました。この資料編や山北町史編さん室(1999)『江戸時代が見えるやまきたの絵図』などには、近世の山北町の状況が村・小名単位で詳細に記載され、被災状況とその後の復興過程がかなりわかります。図5は、相模国足柄上郡山北村絵図(鈴木友徳氏蔵)で、宝永噴火前の山北村皆瀬川村の状況が良くわかります。噴火前には、皆瀬川は山北の集落の真中を流れていました。

図5
図5 相模国足柄上郡山北村絵図(宝永期以前,鈴木友徳氏蔵)

この地域は、宝永の焼砂(宝永テフラ)が層厚60〜70cmも堆積し、長期間にわたって、甚大な被害を受けました。その後も土砂災害・洪水が繰り返されましたが、被災住民の懸命な復興への努力を多くの史料から読み取ることができます。

宝永噴火(1707)から100年以上経過した天保十年(1839)の『新編相模国風土記稿』には、神社・仏閣などの地理情報が詳しく記載されています。1839年には皆瀬川村の人家は94軒で、村内には7村の小名(梶屋敷・深澤・市間・湯ヶ澤・高杉・八町(丁)・人遠,図4参照)がありました。

噴火開始から14日後の十二月六日には、『砂降り被害の書上げ』が皆瀬川村から小田原藩に出されています。被災戸数は12戸でした。交通・通信手段が壊滅状態の中で、このような被害記録が集計され、地方文書(じかたもんじょ)として記録・保存されていたことに驚きます。十二月八日に火山噴火が終了しましたが、降砂によって小田原藩の川村関所へ通る皆瀬川沿いの道は交通不能となりました。このため、3日後の十一日には川村の関所を通らずに、川村山北から小田原の城下町へ直接通る道で、炭を搬出させて欲しいという『炭運送路変更願い』が小田原藩に提出されています。

これらの嘆願書を受けて、十二月十四日に藩役人・大西角之右衛門が砂降り被害見分をするという通達が出されました。大西角之右衛門は翌十五日に砂の深さ・飢人・つぶれ家・うずもれ家の被害検分を行っています。しかし、検分の費用はすべて被災民持ちであり、道路不通箇所の多い山間部は行けませんでした。このため、充分な被害検分はできなかったと思われます。

宝永五年閏一月七日(1708年2月28日)に、酒匂川流域は小田原藩領から江戸幕府領に返地され、関東代官頭(関東郡代)伊奈半左衛門忠順がこの地域を復興する砂除川浚奉行に任命されました。

皆瀬川村の名主・市右衛門は、噴火から3ヶ月後の宝永五年二月十五日に『皆瀬川村指出帳下書』を提出しています。小名毎に被害状況が記載された非常に詳細な被害記録です。4年前の元禄関東地震当時よりも、民戸80軒と22軒増えており、人口も631人で91人増となっています。復旧工事で作業する人達が集まっていたのでしょうか。この辺の数値については、他の文献を含めて個々の家族の動静

図6
図6 河村山北皆瀬川絵図(開削工事中の絵図),山北町史編さん室(1999)

(名前と年齢のわかる資料もある)をきちんと分析する必要がある課題だと思います。
この時点で、年々川成永引となった耕地は16.6石で、全体の15%となっています。

1年半後の宝永六年(1709)七月十一日に皆瀬川村の飢人に扶持米を渡したという記録があり、小名ごとに飢人の名前(戸主)・家族人数が記載されています。飢人は390人(全人口の60%)で、扶持米39石(1人に付き1合を10日間)が渡されています。この程度のお助け米では、飢えを凌ぐのは一時的であったと思われます。

宝永五年六月二十二日(1708年8月8日)の台風襲来によって、酒匂川流域では降灰が土石流・泥流となって大量に流出し、大氾濫しました。足柄平野の扇頂部に小田原藩によって構築された岩流瀬堤・大口堤は大きく決壊し、足柄平野は50%以上も氾濫しました。

山北地区では、皆瀬川だけでなく、多くの河川からも土砂流出が続きました。これらの土砂流出によって、山北の集落は水没・天然ダム状態となり、生活ができなくなりました。このため、山北村の名主たちは、皆瀬川は山北村を通らず、川村関所の横を通って直接酒匂川に流入できるようにして欲しいと願書を提出しました。名主からの願書をもとに、江戸幕府は伊勢国津藩(藤堂氏)に手伝い普請を命じ、宝永六年十一月九日から皆瀬川の掘割(瀬替)工事が行われました。

図7
図7 天保七年(1836)相模国足柄上郡山北村絵図(鈴木友徳氏蔵)

図6は皆瀬川の瀬替工事中の図で、図7は施工後の酒匂川と皆瀬川流域の状況を示しています(山北町史編さん室,1999)。図5に示したように、この工事によって、皆瀬川は山北村の手前で直接酒匂川に流入できるようになりました。工事は半年後の宝永七年八月に完成し、山北村内にあった皆瀬川の河川敷を川村山北の住民に配分しました。瀬替工事のため、水不足に陥った山北川村などの村人は、酒匂川の上流から用水路と堰を造る必要に迫られました。享保十九年(1734)に名主の湯山氏を中心とする村人は、酒匂川上流から用水堰「川入堰」を造り、酒匂川の左岸側に水路を建設しました。この堰の完成を記念して、元文二年(1737)の『皆瀬川村鏡帳』によれば、焼砂の流出被害が克明に記載されています。民戸86軒で6軒増加していますが、人口は522人と100人近く減少しています。とくに女が252人と60人も減少しています。また、年々川成川欠山崩亥砂埋無開発の耕地が35.7石と全体の30%にも達しています。

このような宝永噴火後の動静を図4と図6から読み取ることができます。

6.天地返しによる復興(コラム6も参照)

図4の右図の下部中央に示したように、山北の集落の南側を流れる酒匂川の間にある丘陵地には、戦国時代の河村城址があり、山北町教育委員会によって発掘調査が行われました(安藤,1995,2003,2004)。その後河村城は廃止され、宝永の頃には畑となっていました。

しかし、富士山の宝永噴火によって、畑の上に2尺(60cm)以上の焼砂が堆積し、耕作不能となりました。写真2と図8に示したように、耕作土・黒土の上に、数cmの白い軽石層(最初の噴火で堆積)があり、その上に黒いスコリア質の焼砂が堆積しました。驚いたことに、当時の住民たちは、叡智を注いで「天地返し」を実施し、焼砂で埋まった畑を再び耕作可能な土地としました。

これまで、史料などで天地返しという言葉は知っていましたが、実際掘削断面を見たのは初めてでした。機械力のない江戸時代に人力だけで1m以上掘削し、下に埋もれ耕作土を天地返しして畑を復元するという発想はすごいと思います。

なお、天地返し遺構は金子新宿1110番地付近、大井町役場北側、平塚市真田・北金目遺跡群18区などで見つかっています(津田,2019)。

写真2
写真2 河村城址(神奈川県山北における発掘状況(2003年7月井上撮影)
図8
図8 「天地返し」の模式図(土砂崩埋蔵作)

引用・参考文献(コラム108,109共用)

  • 足柄の歴史再発見クラブ(2007):足柄歴史新聞 富士山と酒匂川,108p.
  • 足柄の歴史再発見クラブ(2024):関東大震災のあとをめぐる〜足柄・小田原・秦野〜,129p.
  • 荒牧重雄・小山真人・藤井義雄・中川光弘・井上公夫・井口正人・池谷浩(2004):世界の富士山,
     山海堂,72p.
  • 荒牧重雄・藤井敏嗣・中田節也・宮地直道編(2007),富士山,日本火山学会,p.427-430.
  • 安藤文一(1995):山北町河村城関連遺跡の発掘調査について,足柄乃文化,22号,p.40-51.
  • 安藤文一(2003):河村城跡発掘調査速報―南北朝から戦国時代の河村城跡を探る―,山北町地方史
     研究会文化講演会,p.1-10.
  • 安藤文一(2004):河村城跡史跡整備に伴う平成十五年度試掘略報,足柄乃文化,31号,p.48-67.
  • 池谷幸徳(1999):田中丘隅と文命堤,足柄乃文化,26号,p,40-51.
  • 一般社団法人国際砂防協会(2015):ピナツボ火山の噴火と復旧・復興の25年―砂防技術協力の経緯―,
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  • 井上公夫・大野宏之・長井義樹・渡辺正幸・大石道夫・広瀬典昭・井上美公・白石眞之・深澤浩
     (1994-1998):ピナツボ火山噴火後の地形変化と土砂流出(1),(2),(3),(4),平成6,7,8,10
     年度砂防学会研究発表会概要集,平成6年度,p.169-172.,7年度,p.71-74.,8年度,p.213-
     214.,10年度,p.328-329.
  • 井上公夫・大野宏之・渡辺正幸・大石道夫・広瀬典昭・井上美公(1994):ピナツボ火山噴火後の地形変化
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     古今書院
  • 井上公夫・角谷ひとみ・小山真人・笹原克夫・中野泰雄・花岡正明・安養寺信夫・小川紀一朗(2002):
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  • 井上公夫・今村隆正・角谷ひとみ・小泉市朗(2003):富士山周辺の土砂災害を絵図・史料から分析する,
     日本大学文理学部富士山シンポジウム,富士山はどこまでわかったか―最近の科学的成果と防災―,
     p.37-39.
  • 井上公夫(2004):神奈川県山北町における元禄地震(1703)と富士山宝永噴火(1707)による土砂災害の
     分布とその復興過程―神奈川県山北町皆瀬川地区を例として―,平成16年度砂防学会研究発表会概要集,
     p.78-79.
  • 井上公夫(2005):元禄地震(1703)と富士山宝永噴火(1707)による土砂災害と復興過程―神奈川県山
     北町における最近の史料学・考古学的成果による再検討―,歴史地震,20号,p.247-255.
  • 井上公夫(2006a):第5章,第1節 頻発する土砂災害,p.124-146.;中央防災会議 災害教訓の継承に
     関する専門調査会,1707富士山宝永噴火報告書,190p.
  • 井上公夫(2006b):歴史災害に学ぶ土砂災害対策―富士山宝永噴火(1707),浅間山天明噴火,関東大震災
     (1923)―,土木施工,2006年6月号,p.82-90.
  • 井上公夫(2007a):富士山宝永噴火(1707)後の長期間に及んだ土砂災害,p.41-48.;建設技術者のため
     の土砂災害の地形判読 実例問題 中・上級編,古今書院,143p.
  • 井上公夫(2007b):富士山宝永噴火(1707)後の長期間に及んだ土砂災害,p.427-439.;荒牧重雄・藤井
     敏嗣・中田節也・宮地直道編,富士山,日本火山学会
  • 井上公夫(2014):富士山宝永噴火後の土砂災害,地理,59巻5号,口絵,p.2-3.,本文,p.42-50.
  • 井上公夫(2015):富士山宝永噴火と南関東の被害―長期間に及んだ土砂災害―,多摩の歩み,158号,
     p.4-17.
  • 井上公夫(2023):関東地震(1923)による丹沢山地の土砂災害と震生湖,秦野市教育委員会,p.15-27.
  • 井上公夫(2024):関東大震災と土砂災害,丹沢大山自然再生委員会:2023年度丹沢大山自然再生活動
     報告会報告書;関東大震災から100年〜歴史から見る丹沢〜,p.30-45p.
  • 大磯町(1996):大磯町史T 資料編 古代・中世・近世(1),770p.
  • 岡秀一(1992):富士山西斜面における森林限界の群落構造とその動態,地理学評論,65-A巻8号,p.587-
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  • 奥野幸道(1995):丹沢の古道をたずねて,足柄乃文化,22号,p.12-22.
  • 奥野幸道(2004):丹沢今昔―山と沢に魅せられて―,有隣堂,271p.
  • 黒柳実里(2014):酒匂川流域における災害履歴と災害文化の継承―南足柄市班目地区を中心に―,足柄乃
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  • 開成町(1965):酒匂川洪水と防備の歴史,21p.
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  • 勝俣昇(2007):砂地獄,静岡新聞社,302p.
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  • 小山真人(2000):史料にもとづく富士山の火山活動史と災害予測,月刊地球,22巻8号,p.62-67.
  • 小山真人・西山昭仁・井上公夫・今村隆正・花岡正明(2001):富士山宝永噴火の推移を記録する良質史料
     『伊東志摩守日記』,歴史地震,17号,p.80-88.
  • 小山真人・西山昭仁・角谷ひとみ・井上公夫・笹原克夫・花岡正明・小泉市朗・安養寺信夫(2002):
     史料にもとづく宝永四年(1707年)富士山噴火の推移,地球惑星科学関連学会2002年合同大会,
     v032-P025.
  • 小山真人・松尾美恵子・井上公夫(2003):富士山宝永噴火,国立歴史民俗博物館企画展図録『ドキュメン
     ト災害史1703-2003』,p.60-72.
  • 小山真人・西山昭仁・井上公夫・角谷ひとみ・冨田陽子(2003):富士山宝永噴火の降灰域縁辺における
     状況推移を記録する良質史料『伊能景利日記』と伊能景利採集標本,歴史地震,19号,p.38-46.
  • 小山真人(2009):富士山噴火とハザードマップ―宝永噴火の16日間―,175p.
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  • 芝豪(2001):宝永・富士大噴火,光文社文庫,300p.
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     およびそれによる噴火災害の予測の研究(文部省科研費自然災害特別研究成果報告書,No.A-56-1,
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  • 鈴木哲夫(2011)富士山宝永噴火と皆瀬川掘割,足柄乃文化,38号,p.70-85
  • 鈴木隆介(1963):箱根火山北東部における軽石流の堆積とそれに伴った地形変化について,地理評,
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  • 鈴木隆介(1964):第5章 西湘,日本地理修成,第W巻,神奈川の地理,光文館,p.220-223.
  • 角谷ひとみ・井上公夫・小山真人・富田陽子(2002):富士山宝永噴火(1707)後の土砂災害,歴史地震,
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  • 高橋敏(2020):地方人夷屋藤吉−大災害から復興した駿河御厨の近世,紀伊国屋書店,448p.
  • 丹沢大山自然再生委員会(2024):関東大震災から100年〜歴史から見る丹沢〜,2023年度丹沢大山自然
     再生活動報告会報告書
  • 中央防災会議『災害教訓の継承に関する専門調査会』編(2006):1707富士山宝永噴火報告書,190p.
  • 中央防災会議『災害教訓の継承に関する専門調査会』編(2011):災害史に学ぶ「火山編」,内閣府(災害
     担当)発行,74p.
  • 津田守一(2019):宝永噴火・火山灰の天地返し遺構の報告,足柄乃文化,46号,p.92-101.
  • 中野敬次郎(1978):近世小田原ものがたり,名著出版,283p.
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  • 西本晴男(2025a):口絵西丹沢に残る震災復旧遺跡・砂防堰堤28基,足柄乃文化,52号,口絵1-10.
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  • 平塚市(1982):平塚市史 2 資料編 近世(1),898p.
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  • 町田市史編纂委員会(1974):町田市史,上巻,1524p.
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  • 宮地直道・小山直道(2002):富士山宝永噴火の噴出率の推移,地球惑星科学連合合同学会2002年度
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  • 茂木哲夫(1999):富士山宝永噴火皆瀬川掘割,足柄乃文化,38号,p.70-85.
  • 山北町(2002):W 山北町の地形・地質;山北町の自然,山北町史別編,p.291-418.
  • 山北町(2003):山北町史,資料編,近世,142p.
  • 山北町史編さん室(1999):江戸時代が見えるやまきたの絵図,36p.
  • 山北町地方史研究会(1960):富士山宝永噴火特集号,足柄乃文化,4号,42p.
  • 湯瀬禎彦(2016):府中宿に降った宝永火山灰のその後―府中市域の発掘調査事例から―,多摩のあゆみ,
     158号,p.32-41.
  • 竜門冬二(1996):小説二宮金次郎,人物文庫,学陽書院,上,377p.,下,340p.

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